ある記憶への献花(2)
新宿は、遠い昔からの歓楽街の様相を捨て切れていない。かつては少しはまともになった時期もあったらしいが、俺に言わせれば、この雑多で汚い街が一番人間らしい街に見える。欲望と快楽を追求する人間本来の匂いがここには充満しているからだ。昼夜を問わず大通りも路地も人で溢れ、夜ともなれば多くの通行人は、LEDやネオンの光の中を泳ぐ様に往来する。立ち止まっていることさえ出来ない人の奔流で自分の道が欲しいなら、道を覚えるか、常時ネットにアクセスしながら自分の位置と目的地を調べて前もって人ごみの中を、事前に動くことが要求される。さもなくば、ここでは目的を持たないで進むことだ。
多くの通行人は、耳のピアスから電子タグをぶら下げている。それは、カルトクラブのドアを開けるタグになっているが、会社によっては、社員証の代わりにそれを付けさせる処もある。そして、それが多ければ多いほど箔が付くともいう。
尤も無趣味で自営業の俺には関係のないシステムだ。狭い路地には、アキバシティやチバシティであぶれた怪しいデッキショップがあちこちにある。脳にインタフェースを取り付ける手術などまともな奴がすることじゃない、命がけで超高級なコネクタを脳髄に付ければ、ちょっとした高級車1台分の金額が懐から逃げてゆく事になる。にもかかわらず、その世界に躊躇することなく入り込む新参者は後を絶たない。
これを、快楽の道具にするのも、商売の道具にするのも人次第だ。俺の知ったことではない、しかしこうして多くのデッキ屋が居るのだから、それなりにインタフェースを付けるために頭蓋に穴を開ける馬鹿が絶えないってことだろう。
<修道院>という札が貼り付けられたドアは、汚いビルの地下一階にあった。その下には、個室ネットカフェと書かれてある。そのドアを開けると、いきなりカウンターがあった。座っているのは、長い髪をした面長で青白い顔をした男だ。
「ハル、来たか?」ハルはそいつのハンドル名だ、本名は知らない、しかし俺は長い間、こいつと組んでいた。ハルは頷いて、キーを俺に渡した。
カウンターの横を通り過ぎると防音ドアが左右に並ぶ部屋がある。廊下はかろうじて人が一人通れるぐらいの幅しかないし天井のLEDの一部は電気代の節約のためか一個置きにしか付いていない(俺がそうしたんじゃない、ここを借りた時にはもうそうなっていたんだ)。この各個室の中では客達はデッキに自分の脳をつないで、仮想空間の中の快楽に埋もれている筈だ。もし火事が起きれば、彼らは焼け死んだことさえ知らずに仮想空間の中で消滅することだろう。
118号は、一番奥まった場所にある部屋だ。そして、ハルは俺と俺に用がある客以外にはその部屋の鍵を絶対に渡さない。
キーを差込み、ドアを開けると。狭い3畳程の部屋の中で俺のクライアントが部屋の奥にある椅子に座ってこちらの方を向いていた。一瞬俺は足を止めた。女だった。ショートに刈り込んだ黒髪に、古めかしいストライプ入りのグレイのスーツ姿だ。タイトスカートから伸びた細い脚が綺麗に揃えられたまま床にヒールを突き刺している。
女の顔が俺を見た。太い眉の下にフレームの無い眼鏡がかかり、その奥にある大きな目が一瞬細められた。鼻筋が高く、唇は上下とも薄く冷酷そうな印象を感じた。
「彼方が、アレックス?」女の声は柔らかいが、あくまでも仕事上の声の様だった
「そう」俺は、部屋に入り後ろ手にドアを閉めた。「今回は、そう名乗っている」
「私は、ムーン・サンシャイン。それにしても酷い格好ね」時代劇のような格好をした女には言われたくはないが、こういう真面目そうな手合いには確かにそう認識されるだろう。俺は右目だけ上下に長い付けマツゲをして、白のつなぎには、目玉の模様があちこちに描いてある。頭の上には、銀のシルクハットだ。
「素顔を隠したいからね。」俺はテーブルを挟んで向かいに座った。正面で見れば、服が古めかしい以外は美人に違いない
「まぁ、いいわ。それよりデータは?」俺はつなぎのポケットから無造作にメモリを机の上に放り投げた。ゴキブリの詳細な形をしたメモリに女は一瞬にして中腰になったが、すぐさまそれが何か分かったらしい
「趣味も性格も悪そうね」ムーン・サンシャインは、一瞬ゴキブリ型メモリを指先で小突いてから、手に取った。
「ああ、みんなから好かれているよ」俺は、にこにこしながら答えた。実際ネットの中では友人は多い。どいつもこいつもオフで会いたくは無さそうな奴らばかりだが…。女は、鞄から小型のパソコンを取り出して、早々にメモリをそれに挿入した。
「暗号のパスワードは?」
女は、眉をひそめて言った。その表情がどことなくセクシーに見える。ふと俺はこの女と行為に及ぶシーンを頭に浮かべていた。
「暗号は?」女は再度俺に尋ねた
「アップル…A,P,P,L,Eだ」俺は、美しい空想を壊され不機嫌な声で答えた。
女はキーボードでパスワードを打ち込んだ。目が爛々と輝いている。細く白い指先が
ピアノでも弾くように滑らからにそして正確にキーボードの上で踊った。生唾を飲み込む音と伴に白い喉がかすかに震えた。やがてそのの動きが止まった。
「いいわ、上出来。」
「だろ?」俺は、自信満々に仰け反って言った。
「報酬は、マネーチップで金500を2枚ね」と2枚のカードを丁寧に机の上に重ねて置いた俺は、それを無造作にポケットに入れた
「確かめないの?」
「今はいい、あんたは、これから俺と食事をする。その時の支払いに使う、それで分かる」
「当然奢りね。しかしその格好で?」
「ここは夜の街だぜ。あんたの方が異様だ。」俺は、席を立ってドアを開けた。
「どうぞ、ムーン・サンシャイン」
「ありがとう」すれ違う女の短い髪からスパイシーな香りが鼻孔を突いた。俺は店の出口まで女の後ろを歩き、店のドアも開けてやった。
「ビルの外で待っていてくれ、直ぐに行く」女の背を見送ってから、俺はハルにもう一枚のカードを渡した。彼への報酬だ。
「あの女の名は分かったかい?」
「ダメだった。あの眼鏡のせいで、人相データベースで一致するものが見つからなかった。カメラで撮ると、顔がまっ黒に写ってね。結構手慣れた女性みたいだね」
「そんなことだろうと思ったよ」
「俺、あの女と食事をしてから帰るな」
「ああ、分かった」ハルは、眠そうに答えた。「たいがいにしろよ」
*
同じ趣味人が集まるクラブと違い、俺がムーン・サンシャインを連れて行ったのは、無趣味なやつらが集まるようなごくごく普通の居酒屋だった。俺のお気に入りのなかなか小奇麗な店内には、便座の形はしているが丁度尻の形に沈み込むような低反発クッションが入った白い椅子と、男が四つん這いになった形状にデザインされた白いテーブルが置かれている。
そして、白檀の香りが部屋全体に漂い、エキゾチックな絵や置物が店内を飾っていた。 俺達は、そんなテーブルの一つに座った。直ぐに、女性の給仕がやってきた。兎の耳が無いバニーガールの姿ってところだ。
「ブルー・マンドラゴラ」俺は、何時もの奴をメニューも見ずに注文した。
「お勧めは?」と女が訊いた。
「強いなら、レッド・ドラゴン、弱いならペーパー・ムーン普通ならビール、それ以外はメニューにある。」
「じゃあ、レッド・ドラゴンを」と女は笑みを見せて言った。「食べ物は任せるわ」
店の中は、繁盛していて、あちこちで会話が聞こえる。どれもこれも、ハンドル名で呼び合っている。そんな事はここだけの話じゃあない、どこだってそうだ。俺は、お手軽そうな酒肴を数品注文した。
生まれた時に付けられた名を、明かす馬鹿はこの国にはそうは居ない。魔法使いが登場するおとぎ話のようだが、本名はそのまま自分の情報を捕まえられるきっかけを魔女に与える。下手をすれば、永遠に相手の言いなりになってしまうような地獄さえ待っているからだ。
俺は軽薄馬鹿みたいに、人畜無害なネット上に流れているドラマの話とかをしてやった。ドラマは嫌いだ、いや、人の作った物語が嫌いだ。それを鑑賞する為に俺の時間や、生活パターンを合わせるなんて最悪極まりない。しかし、話題作りには必要だ。たとえば、ナンパとかの道具にはなるから見て記憶する。
「な、ムーン・サンシャイン。」俺はほろ酔いになりながら言った。
「一目惚れしたみたいなんだ」
「なら、早く頭を冷やす事ねアレックス」彼女は、きつい酒を3杯飲んで、より冷たくなった感じを受けた。
「何を狙っているか分からないけれど、私は止めた方が良いわよ」
「でも、俺は止めない」俺は、じっと彼女の顔を見つめた。
「無理よ、それに今夜は大事な荷物持ちだしね。」彼女は、壁の時計を見た、アンティークな鳩時計がそこで動いていた。
「時間だわ」と彼女は立ち上がった
「待ってくれ、また逢えないか?」
「あのね…」とムーン・サンシャインは俺の顔をじっと見た。そして耳元で囁く様に言った
「危険なビジネスの関係に色恋が入る余地は無いわよ。それにあんたは趣味じゃない」白く冷たい掌が俺の頬を撫でた。
「僕、ご馳走さま。これでお別れよ」振られた、ま、どのみちそんな事は慣れているが。
「分かった、駅まで送る」
俺は、手に入れたばかりのカードで支払いを済ませ夜の雑踏の中を黙ったまま駅まで歩いた。彼女は改札の向こうに消え、俺は修道院に戻った。おやという声をだしてハルが眠りかけた目を開けた。
「こっちで寝るよ」と言うと、ハルは鍵を俺に渡した。何も言わないのが彼の唯一の親切のつもりだ。 部屋では、毎度の様に椅子を並べてそれをベッドにして寝た。しかし、どうにもあの女の事が気になった。
本気で一目ぼれしたと言うような事ではない、誘ったのは、ネットダイブの精神的な高揚状態が続き、添い寝する相手が欲しかったに過ぎないのだから、それよりは、むしろ危険な匂いが肌で感じられたからだ。いや、どうでもいいことだと俺は考えを改めて目閉じた。考えすぎだ。どうせもう顔を合わせる事は無いだろう。