からすうり
蚊の羽音や遠くで飛び交うロケット花火の音に疲れ果て、ようやく深い眠りに入り込んだ頃だったと思う。僕はいつのまにか沢山の煙に巻かれて必死に助けを呼んでいた。自分の部屋なのに、周りが真っ暗でどこをどう逃げたらいいのか分からない、這いつくばって必死に動き回っても直ぐに何かにぶつかって出口が見えない、焦りながら右往左往としている間にとうとう息が苦しくなってきた。そしてもうだめだ、と思った時にはたと目蓋が開いた。だからといって視界がいきなり開けたわけではない、暑さの余りに蹴り飛ばしたタオルケットが僕の顔にまとわり付いていて息苦しいし、何も見えないからだ。<酷い夢だ>そう思いながら寝転んだまま、タオルケットを掴んでそのまま部屋のどこかに放り投げた。そしてやっと視界が戻ると、お月さんが、ベランダで大きな葉巻を咥えで煙をぷふぁーと吐き出していた。その煙が夜風に煽られて部屋の中に全部入ってきた。どうやらそれが悪夢の元凶みたいだった。
「そんな所で煙草なんか吸うから変な夢をみたじゃないか」僕は、ぶすっと言ってまた横になった。寝ついてから未だ一時間くらいしか経っていないから、頭の中が霞んでいる感じがする。ここ数日は、苛つくことばかりが続く上、ただでさえ寝苦しい夜に、深夜になっても河川敷で騒ぎ続ける若者達に悩まされ寝付けない日が続けていたから、こうしてのんびりとくつろいでいる奴がいると、羨ましさも手伝ってついつい言葉も荒くなってしまう。そんな僕の居苛立ちさえも無視するかのように、お月さんは葉巻の煙でひとつ輪を飛ばしてみせた。
「からすうり」お月さんは、独り言の様にぽつんと言った。「ここまで伸びてきていたのに切ったんだね」
「俺じゃないよ」僕は、横になりながら答えた。その烏瓜はアパートの下から生えていて、雨どいを伝いながら上にどんどん伸びてゆき僕のベランダの周りに蔓延っていたのだった。これといって何もないアパートのベランダだったが、丁度白い花を夕方に咲かせるので、深夜にはすばらしく綺麗にみえたものだった。何も無い寂しいベランダだったので突然やってきたその花を見ているだけで結構安らいだものだった。
「大家が、邪魔だからって下の方で切ってしまったんだ」
「ふうん」お月さんは、鼻を鳴らした。
「あれはあれで、夜になるとちょっと妖艶な感じの花を咲かせるからよかったんだけどね、まぁ確かに邪魔といえば邪魔だろうし」まるで白い大きなヒドラの様な花、夜中を徘徊する小さな物達を捕まえて食べてしまいそうな花。実際はそんな食虫植物みたいな真似はしない、あの花は、夜に飛び交う蛾をおびき寄せ、そして受粉する機会を待っているだけだ。しかし、それも今は無い。下の方で根元だけ切られたので序所に葉は枯れ初めているし、花もしおれてきていた。完全に枯れたところで下から引きずり落とすつもりだろう。
「俺は寝るから」僕は、再び横になって目を閉じた。
「悪夢を見るかもよ」お月さんは何気なく僕に言った。煙草なんか吸って夢見を悪くしたのはお前じゃないかと言いたいのを我慢して、そのままどっぷりと眠るつもりが、またもや冷や汗をどっぷり流してまた目を覚ました、時計を見れば30分ぐらいしか経っていない。お月さんは、既に空の定位置に戻ってあくびなどをかいていた。お月さんがあんな事を言うから、きっと悪い夢を見たんだとぶつぶつ想いながら再び横になった。しかし、結局その夜は悪夢にうなされては飛び起きることを3回ほど繰り返す羽目になり、明け方の僕の目は寝不足で腫れぼったくなっていた。
「久々に悪夢らしい悪夢ってものを見たよ」僕はあくる晩に遊びに来たお月さんにぼやいた。「でもさなんで悪夢を見るって分かったんだよ。」そんなぼやき事を言うその合間でさえ欠伸は出るし、意識だけが船を漕いで別の宇宙に行ってしまいそうだった。お月さんは、そうだろうなぁって頷いて小さなサボテンみたいな植物が入った植木鉢を僕に見せた。
「発明家のお気に入りの植物なんだけどね」とお月さんは、ちょこんとその植物をつついた。するとそれは、ちょっとだけ動いたように見えた。
「何、その発明家ってのは?」僕はお月さんの顔はさぞや広いだろうとは思っていたが、全くどんな知り合いなのだろうと気になった。
「それはおいおい分かるとしてだ、接木の要領で、あの枯れかけたカラスウリの蔓を斜に切ってこの植物に接木してごらん。」お月さんは僕の質問に答えることなくそれを僕に差し出した。
「別種の植物どうしじゃ着かないよ、せめて瓜科の植物じゃないと」僕は、それを受け取り、朦朧としながら反論した。
「これは、どんな植物とも相性がいいんだよ」お月さんは、にっこりと微笑んだ。その笑みに負けた気がしたというか僕は自分で考えることができない程に弱っていた。
「うん」と僕は返事をしてその植物をベランダにおくと。手すりに絡まったまま、まだかろうじて生き永らえながら、白い花を付けているカラスウリの蔓を丁寧にナイフで斜に切り、その植物にもちいさな切れ目を入れて、カラスウリの蔓をそこに差し込んだ。あとは紐で縛るだけと思ったらたちまち、その植物の切れ目が勝手に塞がってカラスウリの蔓を取り込んでしまった。
「これはなに?」僕は、後ろに居るお月さんを振り返った。するとお月さんはいつの間にか黒いサングラスを掛けて、煙草の煙をたゆらせている。まるで、古い映画のギャングみたいだ。
「これ、かけてみるかい」お月さんは、僕の驚きを気にも留めずにかけていたサングラスを僕に渡した。
「なにか見えるの?」と言いながら僕は、そのサングラスを受け取ってかけてみた。すると、部屋の中で赤いセロハンみたいなものがふわりふわりと浮いているのが見えた。それがいくつもふわりふわりとあっちにいったりこっちにいったりしている。気持ち悪そうにもみえるが、うすっぺらな風船みたいで面白くも感じる
「なにこれ、ここに居るものなの?」
「居るといっていいのか、わるいのか。まぁ、これが夢魔だよ。」
「でも見えるってことは、ここに居るのだよね」目がねを外すと相変わらず汚い僕の部屋にもどった
「それが微妙でね、まぁ通常はあっちの宇宙とこっちの宇宙を行ったりきたりの状態にあるんだ。だから、そこに或るというより、ある可能性が高いだけなんだとさ」
「そんなのが何故見えるの?」
「さぁ、俺が作ったわけじゃないしね」
「で、このカラスウリの花が、夜になるとこの夢魔を絡め獲るのだよ」
「うーん、この怪しげな花の形は、ドリームキャッチャーの周りの枠が無いものにも見えないこともないが」
と、枯れかけている花はいつの間にか生気を帯びて花を大きく咲かせていた。
「天井の電気を消してさ、眼鏡を使って花を見てごらん」
とお月さんは自分で天井の明かりを消した。部屋のあちこちにいる夢魔達は、まるで何かに惹かれるように白い花の傍に行っては、一瞬にして小さく砕けてその花の中に取り込まれていった。部屋には、まだ無関心そうな夢魔達もうろうろしていたが、あれよあれよと言う間に怪しげな浮遊体は姿を消してしまった。
「どうだい、居なくなっただろう」とお月さんは小声で言った
「うん」と僕は唾を飲み込んだ
「夏になると、夢魔が増えるからね。あまりカラスウリは切ってしまわないほうがいいのさ、秋の楽しみも減るしね」お月さんはそう言うと、じゃあまたねと光りの帯を流しながら空に帰って行った。
そうして僕の部屋のベランダでは、夏の間にカラスウリがちょっとした日よけになってくれた、むしろこの効果の方が大きかったみたいで、日中といえどもそれ程暑くはならなかった。
やがて、秋になったとき、カラスウリは見事な程に赤い実をつけた。夢魔の色…とお月さんは言った。いや、それは純然たる秋の色だと僕は思った。一つの実を割ってみると、中から可愛らしいハート型の種が沢山でてきた。来年は、ベランダで植えてみようかなと僕は言った。
「それは良い考えだね」とお月さんが頷いた。
乾かしたその種をしげしげと見つめると思うことがある。今思えば夢魔は、当時妙に荒んでいた僕の心そのものではなかっただろうか?
白い花は、それを捕まえ、そして僕の目を楽しませることで、少しづつ心を和らげてくれたのではないだろうか?種は、荒ぶる心が浄化された結果の形のようにもみえた。
来年、また白く淫靡な花を見ることができればいいなと僕は、小さな種を大事に箱にしまった。忘れないように箱の蓋に白い花の絵を書いて。