蓮の実
朝方に降った雨は、すっかり止んだものの、未だ雲は重そうに上空に腰を据えていた。行き交う人々は、畳んだ傘を手にして人の流れの中を泳いでいる。
左右に軒を連ねる店は、観光地の裏通りという事もあり、どれもこじんまりとしたレストランや甘味処が多いが、そろそろ昼という事もあって、有名なお店には雑誌やデバイスを手にした人々の列が出来ている。
僕は、降りた駅の構内にある立ち食い蕎麦を食べたばかりという事もあって、有名処のお店には並ぶ必要の無い身の上だった。尤もいっぱいなのはお腹だけで、懐はお寒い状態だ。ここいらのお店でのお昼のランチの値段は、かけそば換算で10杯は食べることができるような店ばかりだ。
でも、お腹さえ満足なら空腹で並んでいる人々より心に余裕があると言うもので、何時になったらあの人たちは食べる事ができるのかなと思いながら、長い傘を杖の様にして濡れた道路こつこつと突付きながら商店街を抜けた場所にある名刹に僕は向かっていた。
決して大きい名刹という訳ではないが、そこの弁財天がどうも僕以外の人々にとってお金の面でご利益があるという事、そして大きな池と四季折々の花が何かしらあるというので足を運ぶ人も少なく無い。
僕は、池とその中にある小島の間にかかっている赤い欄干の小さな太鼓橋を渡った。その小島からは池をぐるりと見渡せるのである。島の周囲には多くの木々が植えられていて、淵と木々の間が狭い遊歩道になっている。しかし、多くの人は島の中央にある赤い色をした祠に用があるので、この狭い道を巡って見る人は少ない。
しかし、池一面に大きな葉を広げる蓮を見ても分かるように盛夏の時機には、辺り一面に蓮の花が広がっているのである。今では、その時季も過ぎているので、遅れて咲いたものが、ぽつんぽつんと池の上で咲いているだけである。むしろ、目立つのは蜂巣の形をした蓮の花托の方だ。
僕は、島をぶらぶら散歩するような振りをしながら、木の陰になっいて人目のつかない場所を目指した。しかし、僕の大事な場所には先客が居てどうにも近寄り難い、なんと言っても喧嘩の真っ最中らしくて大きな怒鳴り声が飛び交っているのだ。
誰だって、近くに寄りたくない。やがて、馬鹿野郎の雄たけびが聞こえたかと思うと、その声に相応しそうな体格の良い男が飛び出して出て行った。話でも聞かれたかと僕の方を睨む様に一瞥したのが、なんとも怖かった。
当然残っているのは、泣いている女性である。僕は、その女性が去ってくれるのを待ちながら、島を何週もうろうろした。その場所は、僕にとっては目を付けていた処なのだから、早く出ていってくれよという思いも虚しく伝わる事が無かった。
仕方なく、そっと僕は女性の近くに寄った。ピンク掛かったワンンピースを着て白い帽子を被り細い柄の傘を握りしめたその女性は、白いレースのハンカチを目に当てながら下を向いていた。
女性の方は見ないように、見ないようにと気を使いつつ僕は、池の淵ぎりぎりに立つと、傘の先っぽを持って握り手の方を池の方に差し出して、花托の首根っこに引っ掛けた
そして手元に引き寄せて花托をもぎ取った。で、女性が驚いた様に僕を見たので、僕は人差し指を自分の口に当てた。そして、更に3個の花托を手にした。遠くにはもっと花托があるけれど、流石にこの池を泳ぐ訳にはいかない。
僕はその花托の一つを二つに割って、中にあるまだ若く青いどんぐりに似た種を取り出すと、その青い皮を剥いて、女性に差し出してみた。
「結構いけますよ」
女性は、顔を上げて涙で目の周りをぼんやりと黒くしてしまった目で僕を見た。当たり前だけど、かなり胡散臭そうに見ている目だ。崩れた化粧を除けば、可愛らしい顔だ。
こんな女性を泣かせるなんて勿体ないことをするなと僕は思った。
「食べる事できるのですか?」初めて訊く声はハスキー掛かっていた。
「ええ、甘みかかっていて美味しいですよ。」僕は、差し出したその実を食べてみせた。「でもちょっと青臭いかも」
女性は、僕が食べるのを興味深く見ていた。それから、覚悟を決めるように言った。
「頂いてよろしいかしら?」僕は、青い実を一つそのまま渡した。
「皮を剥いて中の白い部分を食べるといいですよ皮はちょっと渋くてね」
女性は、白く細い手でしばらくその実を見ていたがやがて、細く整った爪先でその皮を剥いて、中の実を小さくかじってから、口の中で何度も歯を合わせて味わっていた。
「あら本当に甘い」と頷いてから唾と一緒に大げさにそれを飲み込んだ。その白い喉が揺れるように動いた。で、その喉にはちょっと膨れた箇所があって・・・喉仏であると分かった。
「不思議な甘さね」美人な彼は、そう言った。
「結構いけるでしょ」と僕は、さてどう退散したものかと考えた。その感じを悟ったのかどうか知らないけれど、彼はハスキーだけど綺麗な声で言った
「ねぇ、ナンパなの?」僕は、首を横に振った。これを採りに来ただけだからと蓮の実を見せた。
「うん、止めた方がいいわ、私、男だから」ふうんそうなんだ、と僕は答えた。
「でも下手な女性より綺麗だから間違えそうだよ」僕の頭の中には、大酒のみの箒乗りの顔が浮かんだ少なくても彼女もこういう格好をすれば案外綺麗な方じゃないかなと思ってみたが、日頃の行いを思えば思うほど、頭の中のイメージは一升瓶を持っている姿になってしまう。
「ありがとう、みんなそう言ってくれるけどやっぱり男だからね」男とは思えないほどの小さななで肩を彼は小さく持ち上げて笑ってみせた。気が付けば八重歯にもなっているし、片えくぼもできた。下手をするとベットインするまで気が付かないだろうなと思った。ふと目の片隅に光のような物が見えた。
蓮の葉の上で今朝の雨の忘れ形見が風にゆられて煌きながらゆらゆらと踊っている。厚い雲の切れ間から日差しが入ってきたようだった。
僕がその水玉にふと目をやったのを、彼もまた追っていた。ひさかたの、雨も降らぬか、蓮葉に、溜まれる水の、玉に似たる見むふと彼は和歌を口にした。
「でも、水は多すぎると葉を揺らして池に落ちてしまうし少ないと、真ん中に溜まっていて、存在感が無いものよね、丁度いい玉になんかそうそうなれやしない」
「でも少しつづ入れると言うのもありかな」
「だめだめ、出来ないもの。想いが溜まってしまうとダムが決壊したみたいに、なっちゃうもの、さて出直さないと、ね。化粧崩れていない?」
「相当」と僕は自分の目の周りに円を描くように指した。彼は、鏡をバッグから出すと。
「ひどーい」と悲鳴に似た声を上げた
「ぜんぜん綺麗じゃない」僕は、しっかり直さないと、美女が台無しと言った。そろそろ帰るタイミングだろう
「ね、貴方は私と同じじゃないよね?」と彼が言うので僕は、頷いた。
「そうよね、ありがとう。蓮の実」
「いえ、こっそり実を採っているんで、その口止め料のつもりですよ・・・そういや晴れてきましたね」僕は空を見上げた。
「本当、もっともこっちは未だ雨だけど」彼は、自分の胸を指して言った。
「きっと、晴れますよ」
「だと、いいけど」
木立から出ると、さっきの大きな男が両手に団子を持って走りながら戻って来た。
背中越しに大男の「ごめん」という小さい声がした。僕は、何も無かったかのように、大事に蓮の実だけを持って橋を渡り、そして喧騒の中に溶け込んでいった。
夏も終わりだな。これか更に気温が上がってきそうだったが、手の中の物は、秋が来ていることを知らせていた。
そして僕の部屋では、フラれたことを酒の肴にして飲もうと箒乗りが夜にやってくる事になっていた。蓮の実もまた、その酔っ払いに食べられてしまうのだけど、ほんのりとした甘みは、ほんの少しだけど彼女を幸せにする気分を与えるような力があるように思えた