紫陽花のママへ
梅雨も終わり、夏の日差しが降り注ぐようになっても紫陽花が湿った日陰でひっそりと咲いている姿を目にすることがある。僕は、それを見るとふとお帰りと言いたくなる。
最盛期には、そのぽってりとした青や赤の花を見ようと多くの人が訪れた名刹は、セミの声とあふれるばかりの緑に包まれる。僕は仏花の花束とカップ酒を持って人通りの少ない夕暮れの坂を登った。
その坂道の両脇も葉だけになった紫陽花が、勢い良く茂っていた。もう夏の盛りなのだ。
坂道の途中で人が一人通れる程度の細いわき道に入ると、その道の両脇に茂った草々が脛をくすぐる程ににあふれている。この細い道は結構急な登りでもあるせいか、ここの管理人も手入れをするのが厄介なのかもしれない。
その道を登りきったところに小さい墓地が整備されていた。ここは紫陽花の咲く坂道の一番上にある寺院が管理している所で、この墓地の一番端からは海を見下ろす事が出来た。遠く眼下の浜辺には人々がゴマ粒の様ではあるが、遊んでいるのが良く分かった。波の上には、サーフィンを楽しむ人の姿や僅かな風を捉えてのろのろ走るウィンドサーフィンやディンギーやさえみえる。皆夏の今日をいう日を最後まで楽しんでいるのだろう。
僕は、野カンゾウが咲く細道を右に左にと迷路に迷ったネズミのようにうろうろした後にやっと目的の墓標を見つけた。それは夕日を浴びて佇んでいた。一つのまだ新しい墓石だ。
小さな居酒屋「紫陽花」のママが死んだのは、こんな風に厚い昨年の夏の日の事だ。僕の立場といえば時折一杯の酒肴に与る常連の一人に過ぎなかった。彼女は70歳を過ぎても元気に独りで店を切り盛りしていたが、買い物に出た先で突然倒れたのだという。口伝えに聴いただけだから、それしか分からない。暑い西日が射す中、僕は墓地の入り口近くで汲んだ手桶の水を花立に注いだ。
「今年も暑いね。もう夏だよ」誰も居ない墓地で僕は墓石に語りかけた
もう訪れる人のいないこの高台には、本当はあと6人の男性が来る予定だった。本当に常連と言えたのはこのママと同い年くらいのその好々爺の面々で、良く飲み、良く笑っていた。ママが逝ってしまった時は、身寄りのないママの墓を各々が身銭を出しあって、
海の見えるここに建てて、毎年ここに来ることを約束したものだった。
しかし、一年足らずの間にひとりまたひとりと、ママの後を追うように居なくなってしまった。まるで、一つの鎹が抜け落ちて崩壊してゆく建物のようだった。
僕は、墓の周りを掃除し、枯れた花を捨てて代わりに持参した仏花を生けた、本当はママらしい紫陽花を活けたかったのであるが、季節柄咲いているはずもなかった。
紫陽花、まるで本当に紫陽花のような人だと好々爺の面々はみな口をそろえて言っていた。鮮やかで、日々色を変えてゆく花、彼らは皆一度はママの恋人であった事があった
らしい、いわば、6人が皆恋敵同士みたいなものだ、でも不思議と彼女は誰とでもきちんと付くあってしまったらしい、
「まぁ、それが手練手管ってものだよ」好々爺の誰かが言っていた。
「俺達は、すっかり彼女の掌の上で踊っていたのだけど、彼女たらまったく俺達にそんなことを感じさせないんだな」
僕は、そんな彼らの昔話を居酒屋の片隅で聞いては、話の流れに追従していたものだった。ただそれだけの筈だったのに、何時の間にかその老人達と顔を合わせると飲むようになってしまった。といっても、僕の方から何か話題を出すという訳ではなくて、何時も聞き手に過ぎなかったのだけど。同じ話ばかりなのにも関わらず、彼らの話が上手なのか不思議と何度聞いても飽きがこなかった。
一年ってあっという間だね、ママ。あなたはそれを知っているかのように、日々鮮やかだったような気がするよ。
「もし」と僕が墓の前で手を合わせていると独りの白髪の老人が声をかけてきた。僕と同じく水桶を持っている。そして彼女の名前の墓であるかどうかをたずねてきた。
「あ、これは、お知り合いの方で?」僕は、立ち上がってお辞儀をした。なんとなくそういう気風のある人だった。
「ええ」と老人は答えた。
「昔の友人に過ぎませんが」老人は、そっと墓の前にしゃがみこんだ
「間に合いませんでしたが、遠い昔の約束でしてね。」そして、手桶の中から黄色い花束をそっと取り出してそれを僕の花と一緒に活けた。いや、花束と思ったのは、あまりにもありえないと僕の思考が拒否をしたからだ。そこにあるのは、鮮やかな黄色い紫陽花。
「・・・」僕は固唾を飲み込んでいた。多分、誰だってそうなるだろう。そして、この老人だってそれを知っている筈だ。僕は説明を待った。
「遺伝子操作で作ったのです」背をむけたまま老人は言った。
「彼女は、生きている間は多くの色に染ってみたいって言っていたものです。恋もまたしかりってね」
「私は、そうは生きられない。常に一つの色にしか染まれなかった、彼女がね、もし黄色い紫陽花が作れるのなら見せて欲しいと言ってね。やっと約束が果たせました」
そして、老人は、ふっと立ち上がって空になった水桶を持った。だがその瞬間、老人はまるで霞が風に吹かれでもしたかのように消えてしまった。
まるで夢のように思えた。しかし、黄色い紫陽花だけはまだそこに存在していた。僕だけなにか置いてけぼりをくらったかのように、呆然とし。それから、深く考えるのをやめた。こんなことだってあるだろう。
なんたって、僕の知っているあの店はまるで以前から無かったかのように、そこにあるものといえば、紫陽花が周りに咲き乱れていた古いお稲荷さんだけだったのだから。
化かされたのかどうかは知らないけれど記憶の中では、あの不思議な楽しい時間
は確かに存在していた。人は思い出を作る為に生きているのではないけれど、こんな些細な時間が、これほどまでに僕の記憶の中で強く息づくとは思いもしなかった。
好々爺達の入れ知恵のせいという訳ではないが何故かお盆の入りにはママ達の為に迎え火を焚いて15日には送り火を焚く癖がついてしまった。するとその間だけ、不思議な事に僕の家の傍にある小さな紫陽花が一つだけ季節外れな花を咲かせるんだ。
「やぁ、帰ってきたよ。」とでも言いたげにね。そして僕は、
「おかえり」とその小さな紫陽花に挨拶をするのさ。