月待宵
「月待宵」
女性は、ホテルの一室から外を眺めていた。荒涼とした大地の上に流れる冷たくも澄んだ空気を通して月の明かりが、草木の無い乾いた土地を照らしていた。<疲れた>言葉に出ない愚痴が、ため息になって出てきた。日々続けられる多くのカリキュラムは講師でさえ、同じ講義を何度となく行ってきたことからくる気だるさを放ちながら講堂に集まった人々に教鞭を振い、そして一日の終わりは必ず親睦会が開かれた。ここに集まった人々は誰もが明後日には、この惑星を離れて旅立ってゆく、彼女もまたその一人だった。
「ねぇ、私、貴方の代わりに遠い惑星の土地を踏むんだよ」ぼそりと、彼女はベッド脇の小さいテーブルに置いた写真立てに向かって言った
本当なら、この写真の中の男とは違う奴と結婚するつもりでいた。付き合いも長く、相性だって悪くはなかった。しかし、たったひとつの出会いが私を狂わせた。この写真の中の男を愛してしまい、この男の夢さえも愛してしまった。そして結果は、沢山の友人からの非難の嵐とかつての恋人からの恨みの言葉に翻弄されただけだった。しかし、気が付けば新しい恋人は宇宙の塵になってしまい、彼女は一人ぼっちになってしまった。
「もうこれで見納めか」寂しいような、しかし全てを捨てて新たな人生に向かう新鮮な風も心の中に吹いてきた
「そういや、あいつ元気かな」いつもぼんやりとしている友人の顔を彼女は思い浮かべた
若い頃に、恋人っぽい付き合いもしたが、歯車が合わないような感じで半年と持たなかった、にもかかわらず腐れ縁というのだろうか、事或る語とになんとなく会いたくなっては愚痴を言っていたものだ。あいつは、それを聞く一方でも特に意見も言わずひたすら聞いてくれたっけ。そうだな、電話をしてみよう明日の朝にでも…
ベランダに置かれた薄の銀い穂は秋風を孕むと、その風の中に多くの種子を散らせた。風に乗ってどこへ行くのだろう、ふとそんな思いが脳裏を掠めていった。騒々しかった夏の夜はいつの間にか過去のものとなり、秋の夜は思いの他静かに過ぎてゆく。僕は、中秋月餅を食べつつお茶をすすった。その月餅の中に入っている塩卵の黄身と甘い餡の相性が良くて、飽きのこない味がする。半分に切ると黒い餡の中に黄身が月の様に浮かびあがって見えるのであるのも趣がある。その塩卵の黄身の分だけ普通の月餅より値段が張るのであるが、季節ものとあれば、期間限定と同じでどうしても心が動いてしまってついつい買ってきてしまった。
僕がその月餅を口に入れた時、まるでそれを見透かしたかのように電話が鳴った。口の中でそれを咀嚼しながら受話器をとると懐かしい声が流れてきた。遠い昔に別れた女だが、時折思い出したように電話がかかってくる変な奴だった。昔、僕がある事故で記憶に障害が残っていたときも、その声は忘れていないほどの印象的な声、確か以前に電話があった時は結構気に入った男が出来たので付き合っているんだとか、自慢していた事を思い出した。
「元気?」女性にしては太めの声が耳の中でここちよく響いた。
「ん、ちょっと待って」僕は、もぐもぐを口の中の物を必死になって胃の中に送り込み、お茶でそれを完全に流し込んだ
「食事中だった?後で掛け直そうか」食べている音が聞こえたのだろう。
「いや、月餅を食ってたんだ。特大のね」僕は、自慢げに答えた
「相変わらず食い意地が張っているな…」と彼女は一呼吸置いた。その間に余計なお世話と言おうとしたら、彼女の言葉が続いた。
「実は私、深宇宙にでるんだ。」と彼女は単刀直入に言った。思わぬ彼女の言葉に僕は一瞬どう返事をすればいいのか分からなくなった
「ひょっとして例の播種船とかいうやつ?」しばらくして出てきた言葉はそんなものだった。
「そうだよ」彼女の声以外に何も聞こえない、一人で居るのだろうか。
「二人でかい?」当然それは今の彼ということなのだが、そんな言葉を吐きながらもどこかに嫉妬心みたいのが湧いてきた自分が情けなかった。
「ううん」と彼女は否定した。「一人で行く、以前あんたに話した奴とは別れたんだ。」あくまで冷静そうに話す声は、彼女の決心の強さのせいだろう
「そうかい…」僕はなんと言うべきか困ってしまった。
「奴は嫌いじゃなかったのだけどさ」と彼女は、自分から話し出した。
「優しかったし、ウマが合ったし、でもそれなのにもっと好きが男ができちゃってね。そんな事もあるのだなって、自分でも不思議だったよ。奴とは結婚まで考えていたというのに、不思議なくらいの心変わりだったよ。なのに、新しい男がこれまた不思議なくらいあっさり死んでしまってさ、知っているかい?半年前の宇宙船の事故?それに乗っていたのさ。で、暫くあれこれ考えたんだ。そして死んだそいつの夢を追ってみたいと思ったのさ、遥か未知の惑星に行ってみたい。そこで何をするかは分からないけれど、とにかく行ってみたいって奴は良く言っていたからね。ひょっとしたら、その未知の世界に行けないかもしれない、あるいはそこで全く違う男性と所帯を持つことになるかもしれない、でも同じ夢を追っている間はきっとあの人の人生と自分の人生を重ねられるように思えるのさ、ま、早い話が自己満足のためだけどね」
「なにか、大変だったんだね。」どれほどの思いを彼女がしてきたたかは、僕には知る術もない、ただありきたりの言葉を言うしかなかった。
「ああ、大変だったさ。前の彼絡みの人間関係はボロボロになるし、新しい彼の知人関係は私が死んだ原因みたいにいちゃもんを言ってくるし。まぁ地球にはもう居場所がなくなったみたいだったもん。でも、実際にこれに参加してみれば、宇宙に出るためのカリキュラムで、寝ている間以外はずっと勉強だよ。生まれて初めてまじめに勉強をしたって感じがするよ。教えられる勉強じゃなくて、自分から学ぼうって思ったのも初めてだったしね」
「勉強なんて、聞きたくもない言葉だよ」僕のボロボロの記憶の中でも、そんな熱心に勉強した記憶なんてなさそうだ
「いや、以外と知りたい事があると勉強も面白いものだよ。それにさ、こうして忙しさに追われていれば、嫌なことも忘れられるしね」
「勉強が面白いなんて、お前が言うとうそ臭いなぁ」
「本当だよ。」
「分かった、分かった、で何時発つの?」
「明日さ…」
「また、急な…それにしても何時もお前は一人で突っ走る性質だからなぁ」僕は、遠い昔に付き合っていた頃を思い出した。そういやあの頃も、デートをすっぽかしてでも、好きな場所に一人で出かけてばかりいたっけな。
「別に説教を垂れられる為に電話したんじゃないよ、高い金だして国際電話かけてんだし」彼女は、ふっとそこで一瞬言葉を詰めた。
「実はね、本当はちょっとしたお願いがあって電話をしたんだ」
「え?」
いまさらお願いと言われるとなにか遺言とかの凄く重要なことを頼まれそうな気がして、思わず聞一言もき逃すまいと正座をしてしまった。
「いや、大したことじゃないのだがね、あちこちの反対を押して宇宙に出てしまうんでな、見送りがおらんのだ。親にも勘当されてしまったしね。これはちと寂しい状況なんだな」しかしその声が、それほどに哀しそうに聞こえないのは何故なのだろう。と不思議に思いながらも、おいおい、今から国外に出て来いとは言わないよなと僕は自分の懐の寒さを切実に感じるとともに、その一言だけは言うなと願っていた。
「そこで、悪いが。天下茶屋当たりで私の乗った宇宙船を見送ってくれまいか?」まぁ、それぐらいなら行けるが、何でだろう?と僕は受話器を持ったまま首をかしげた
「日本の上空を通るなら、きっとここからだって見えるぞ。ちょっと空気は悪いけど」窓の外には見事なお月さんが見えている。
「ムードの無え奴だな」と彼女は、電話の向こうで蔑んだというか、やや凄味のある声色を出した。
「見送られる側も、相手がどこにいるか分からんと寂しいだろうよ」
「分かったよ。分かった。行くよ。」その声に思わずおびえて僕は頷いた。
「サンキュー、シャトルにさぁ、何か有名人が乗りこむみたいでね。富士山で大きなイルミネーションが輝くみたいだよ。凄い大馬鹿な企画だよなぁ、と思っていたのだけどさ、よく考えれば、その辺にあんたがいるかなぁって分かるのじゃないかと思ったわけさ」
「はいはい。お饅頭を供えて無事を拝んであげる」
「わたしゃ、十五夜か」笑いながら声が耳の中で響いた。でも本当にこの声が聞けなくなるのだなと思うと寂しくなった。
「もしさ、追いつけたら。」僕は唐突に話題を変えた。
決して彼女の後を追うことも無いだろうし、あったとしても、宇宙に浮かぶ居住ステーションから深宇宙に出る宇宙船が出発するのは何十年後だろう。
したがって、これが今生の別れになるのは事実だ。ただ、なんとなくそれを認めたくなかった。
「おじゃましてもいいかな?」
「うん、ステキな旦那と子供を見せてあげるよ」
「あいよ、ご馳走さまだい」僕は、月をふと振り返った。「明日は、十五夜だねぇ」
「こっちは、まだ朝だなぁ」彼女のはあくびを交えて答えた。緊張でずっと眠れないのだろうなと思った。
「そうだ、天下茶屋で思いだした」僕は、彼女を起こすような勢いで言った
「いきなりなんだよ?」
「お前さぁ、黄色い花、待宵草を月見草って言っていたよな」
「いまさらなんだよ、月見草は黄色い奴だろうよ?」彼女の声はややトーンがあがり気味だった、何か指摘をすると負けず嫌いの彼女だけに反論も凄いのだ。
「蕎麦だって、黄色い卵が乗って月見蕎麦だろう」
「なんでそこで蕎麦が出てくるんだ、月見草は月見草、待宵草は待宵草。別な花だよ。本当の月見草は白いんだ」
「うーーん、一つお利巧になったか。」彼女は小さく笑った。
「後で図鑑でみてみるが。お前に教えられると思うと妙に悔しいな」彼女の電話の向こうでキーボードを叩く音がした。本当に調べているみたいだ。
「ま、小麦も草花も沢山の種があるから。覚えておくよ。後で子供達に教えて自慢するさ、あ、本当だ。以外な奴に一本取られたな」
彼女の声は、本当に悔しそうだった。
「そうか、向こうに着いたら早々に農作業をすることになるんだね。それなら、俺が今からお月さんを拝んで宜しくって頼んでおくよ」
「気が早いねぇ、鬼どころか閻魔さんが笑うよ」
「いや、十三夜が晴れると小麦が豊作になるという言い伝えがあるんだ。丁度いい天気だし、月見には持ってこいだしね」
「おっと、こっちの行く先には月が無いらしいぞ。困った」
「その時は、貸してあげるよ」僕は、天空に浮かぶ月を眺めて言った。その時ぽこんと誰かが僕の頭を小突いた。お月さんが、ちょっと動いた気がした。
「ありがと。じゃ。元気でな」
「ああ、明日」受話器をそっと下ろすと、また静かな夜に戻った。コオロギが鳴いている。
富士山を正面に河口湖を眼下に見る事のできる天下茶屋の前に僕はいた。昔、僕が来たときには老朽化が甚だしくて、そこで芋饅頭を作って売っていた老夫婦は、立て替えないとねぇとぼやいていたものだった。にもかかわらず、未だに建物はまだ古いままだった。遥か遠い昔に開通した御坂トンネルが出来て以来、交通としての要所としての意味を失ったこの峠の茶屋は、ひとつの観光スポットとして寂れた山道の中、ここだけが不思議なほど賑わっていたものだ。しかし茶屋も閉まったこの時間、通る車は当然居ない。古めかしい二階建ての茶屋の前を走る林道の谷側に詰まれた石垣の上にぽつんと座った僕は、月光を浴びた富士と河口湖をぼんやりと見ていた。レンタカーも押し黙り、静かに燃料電池を消費しながら何かのセンサーが動いている証拠のようにダッシュボードの上で何か赤い灯りが時折点滅を繰り返す。
ここには有名な太宰の文学碑がある。「富士には月見草が良く似合う」と富嶽百景の一文が彫られている碑だ。昔、それで月見草を調べた事があったので、その花のことを彼女に偉そうに言えたのだ。果たして太宰が待宵草の事を月見草と思ったのか、あるいは本当にその花を知っていたのかは僕の知るところではない、しかしこうして月光に浮き上がった山の姿にはきっとどんな花でも似合うように思えた。
かつては、その花の姿を見たくて、そしてどれほどにこの山に似合うのだろうかと。何度かここをたずねたことはあったが、かすれた記憶に残っているののは、霧や雨の為に富士を見ることができなかった思い出だけだ。あるいは、今宵初めてここで富士を見ることができたのかもしれない。
僕は蒼白く輝く満月の下で氷の様に聳え立つ富士を見ていた。荘厳とか、森厳とか言えば言えるが、僕はどちらかといえば悲壮感を自分の内に感じていた。一人また夢を追って僕の知らない世界に行こうとしているのだ。だが、僕といえばいまだに短い人生の中を足踏みをしている。しかも見送ろうとする女性に僕は未だに恋慕してる。
やがて、星も見えないほどに月の明かりに満たされた深夜の空を、一つの光点が過ぎる姿が見えた。富士山の頂上が意味も無く煌々と明るくなった。アメリカの宇宙基地から飛び立ったデルタ翼のシャトルは、まもなく通常のターボジェットからラムジェットに推進力を切り替えるのだろう。その光景は、決して珍しいものではない、ただ、そのシャトルの中に知っている人がいる場合はやっぱり別だ。
富士山の頂上にけったいなイルミネーションをを照らさせる発端になった有名人ではないが、今こうやって同じものを見ているのかなと思うとそれが、一瞬であれ一つの絆のように思えた。あっちからは見えることが無いのを承知で思わず、手を振った。頑張れ。そして永遠にさようなら。
光点はやがて山の端に消えて行き、富士山の明かりも消え再び青白い富士山が宵闇に戻った。暫く僕は、道路脇にある石段の上に腰掛て満開となった待宵草をみつめた。黄色く月の色に染まった花。
「行ってしまったね」突然後ろからお月さんが声をかけた。
「ああ、行ってしまったよ。」僕は、声だけでだれだか分かっていたので、振り向きもせずに答えた
「寂しくなるね」お月さんはまた言った。僕は、頷いた。結局なんだかんだと、自分にとっては半身のように思えた女性だったのだから。
「朝まで、月見草を見ているといいよ」とお月さんは言い残して空に帰っていった。淡い色の本当の月見草は、僕の前で大きく咲いていた。
本来なら、この場所には無いはずの月見草。太宰もまた、待宵草を月見草と詠んだのだろうか。それはそれでいい。今は、そんなことはどうでもいい。
僕からしたたり落ちる哀しみを受け取るように、やがて朝露が花の中に溜り静かに地面に落ちた。
お月さんは、姿を消し太陽が明け方を告げると月見草は一夜の命を終えた。
「月夜の中に漂う哀しみを」…どこかでお月さんの声がした
「月見草はすくい続けて朝にはその重みに耐えかねて枯れてしまうんだ」
僕は、ゆっくりと東雲色の空を見ながら立ち上がった。
目を閉じるとまた涙がにじみ出た。レンタカーに乗り込み、スタートスイッチを押すと、ラジオが鳴り出した。
DJが元気よさそうに、声を高らかにして挨拶をした。
朝は何時も新しいものを感じさせる。しかし、今の僕にとっては所詮、夜の続きでしかない、僕はアクセルを踏んで峠を下り始めた。