第6章 【崩界の針】 4話 『帰るべき場所』
潰セ、潰セ、潰セ、潰セ…………!
変わりなく響くその声は、聞く者を狂わせ殺意を駆り立てる『赤黒い靴』の呪いの声。それは12人目の所有者、ガーネットをも蝕んでいた。しかし、既に数人にその抑えきれない『殺意』をぶつけてきたその女ガーネットは、『ある時期』を境にその声に抗うようになっていた。
ズドンとその足を地面に叩きつけて、その赤い眼の女はへこんだ地面を前に震える男にぽつりと慈悲の言葉を投げかけた。
「早く逃げて。……この子に潰されたくなかったらね」
「ひ、ひぃぃぃぃぃぃ!」
男はすぐさま背を向け、逃げ去る。それを見届けながらガーネットはふうと息を吐き、肩の力を抜く。それはまるで『何かに安心した』かのようにも見えた。落ち着いた様子で、足早に近くの町へと戻ろうとするガーネットにその魔宝『赤黒い靴』は不愉快そうに声をかける。
何デ潰サナイ?アイツハ『敵』……憎イ『敵』……ナノニ、何故、見逃シ続ケル?
「あなたも随分と『潰せ』以外の言葉を話すようになったのね。それで、言いたい事はそれだけ?」
潰セ!アノ時ノヨウニ!潰セ!憎イ奴ラヲ!
「飽きないの?そればっかりで」
ガーネットは喧しそうにその靴の言葉を受け流した。胸の内に残るくすぶりを噛み殺しながら。
「私には『大切なもの』があるの。それを守る為、私はもう『殺さない』と決めたの。まあ、あなたには分からないでしょうけど」
彼女の言葉は酷く『赤黒い靴』を不快にさせた。『ある時期』、それから10年近くもの間ガーネットは『殺さない』という誓いを守り続けている。『赤黒い靴』に見せられ続ける『憎い人間』の幻惑に耐え、その言葉に耐えながら。
その『殺意』を晴らす事にのみ『存在理由』を見出している『赤黒い靴』にとって、それは煩わしいことだった。いつからか靴は『潰セ』という呪いのメッセージ以外の言葉も吐くようになっていた。
『大切ナモノ』……アノ娘ノ事?
「何?あなたもそういう事分かるの?」
ガーネットは意外そうに足元の靴に視線を送った。靴からいつも歪んだ『殺意』を感じ取っていたガーネットはこの時、靴からまた違った複雑な感情の揺れ動きを感じ取った気がした。
知ラナイ……ソンナ事……
「そう……」
次第にガーネットは気づき始めていた。この呪われた『魔宝』、『十三呪宝』の一角に『選ばれた』この『赤黒い靴』にも人間らしい『感情』というものが存在する事を。今はまだその呪いに意識を蝕まれないようにするのに精一杯だったが、ガーネットはいつの日かこの靴も植えつけられたその呪いから解放される時が来るのではないか、そう思い始めていた。
「……帰りましょう。あなたも汚れを落として欲しいでしょ?」
……フン。……力ヲ貸シタノダカラ、ソレ位シテモラッテ当然
『敵』との交戦で、返り血こそ浴びなかったものの、泥まみれになった『赤黒い靴』。未だにその『殺意』を抑えきれない『赤黒い靴』も、毎日綺麗に磨いてもらう事に関しては悪い感情を抱いていなかった。
これほどに多くの年月を共に過ごし、これほどに多くの言葉を交わした所有者は『赤黒い靴』にとって初めての存在だった。自分の『殺意』に答えないその憎たらしい女、ガーネット。憎くてたまらない彼女が、『赤黒い靴』の中で『大切なもの』になりつつあることを靴はまだ知らなかった。
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「う~ん、何処から話せばいいのやら……いや、何から話せばいいのやら、かな?ねぇ、ロザちゃん?」
エインの言葉はロザには届いていなかった。震える肩を抱えながらただただロザは蹲る。例えその耳が、語られる過去に傾けられていなくとも、エインは語るのをやめるつもりはない。
「う~ん、じゃあ……『見た方』が早いだろうけど……今の状態じゃ意味無いね。じゃあ、語ろうかな。君の母親を殺した『あの男』の話を……」
エインは語る。『あの男』の名を。ロザの母の命を奪った張本人、そしてロザの命さえも脅かしかねない男の名を。
「その男は『悪食王百鬼撰』、人々の記憶の果てへと消えたとある国の忘れ形見。いずれは『全ての魔宝の力を習得し得る』、近い未来『最強』になり得る『十三呪宝』、『悪食王―蠅―』の所有者……」
『赤黒い靴』が、ずっと封じ込めてきた忌まわしい過去。それは、その男『悪食王百鬼撰』との出会いから始まる。
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ガーネット!……ガーネット!
「何?呼んだ?」
ぽつりと床に置かれた『赤黒い靴』は苛立ちを込めた声を、別の靴に履き替えて料理中のガーネットの背中に投げかけた。
フザケルナ……何故娘に磨カセタ!
「え?何?」
『赤黒い靴』の文句の原因は、買い物に出かけたガーネットの娘、ロザにあった。「手伝いがしたい!」と駄々を捏ねるロザに、ガーネットは『赤黒い靴』の靴磨きを任せた。それがどうも気に食わなかったらしい。
アイツハ下手糞スギル!ホラ、マダ磨キ残シガ!
「あなた、結構細かいのねぇ。でもロザは危なっかしすぎて料理やら掃除やらは任せられないし……」
ガーネット……『魔宝』ノ方ガ、ヨッポド危ナイト思ワナイノ……?
「……は!?あ、あなた!ロザに変な事吹き込まなかったでしょうね!?」
親子揃ッテ間抜ケ……不憫。アンナ間抜ケナ娘、ソソノカス気ニモナラナイ……
「人の娘に間抜けって何よ?泥水に沈めるわよ?」
……親バカ
いつからか下らない話をしていた魔宝とその所有者。その関係は呪いで結ばれた忌むべき関係ではなく、互いをからかい罵り楽しんでいる悪友のようにも見えた。そんな奇妙な関係を築いていた所有者はふとその所有する魔宝に話しかける。
「ねぇ、あなた……変わったわよね?」
……何ガ?
「大分丸くなったというか……毒気が抜けたというか?」
……間抜ケ親子ニ振リ回サレテタラ……嫌デモ気ガ抜ケル。
「あれ?私達の事、やっぱり嫌い?」
ガーネットが横顔を向けて投げかけたその何気ない言葉に対し、『赤黒い靴』は言葉を詰まらせた。「嫌い」、その一言を発する事に疑問を覚えた。私は本当に彼女を、その娘を嫌っているのか?愚問である。『赤黒い靴』の本能、それは『全てが憎い』。
私ハ……
自らの内にある『殺意』。それは朽ちる事のない永劫の呪い。朽ちる筈など無いのだ。しかし、何故かその呪いはきしきしと悲鳴を上げていた。
……嫌イデハナイ
「……そう」
もしかしたら、もしかしたら、私は……『幸せ』なのだろうか?下らない言い合いをガーネットとして、間の抜けたその娘を眺め、ガーネットの親バカ話に付き合う。
彼女に磨かれる時に感じる、心が洗われるような感覚……もしかしたら、それは私の『呪い』を洗い流しているのだろうか?
自らの過ちを咎められた事もない靴にとって、『殺意』に抗い続け、靴の呪いを咎める彼女は始めて出会った特別な存在であったのだ。
しかし、感情など一時の物に過ぎず、時は無情にもその感情を流しさる。靴の『殺意』がほんの少しの間だけ薄れたように……抱き始めていたその感情さえもすぐに消え去る事になる。
*************
「君は覚えていない……いや、『忘れさせられた』んだよ」
エインは俯くロザの目の前に立ち、パチンと指を鳴らす。それはかけられた『呪い』を解く為の合図。
「……あ」
その音はロザの封じられた記憶を目覚めさせる。
血、血、血、血……
目の前に散乱する夥しい量の血液、伸ばされたまま動きを止めた真っ赤な手、憐みの目で見下ろすその男、そして振り下ろされようとする禍々しきその刃……
『消してやろう……この記憶。それが拙者のせめてもの贖罪……!』
ロザは知っていた。母の命を奪ったその男の姿を。
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その出会いは『偶然』であり『必然』。それはある日の夕暮時。奇妙な装束に身を包んだ長髪の男は誰の目もない町の外でガーネットと向き合っていた。その腰にぶら下げた一振りの刀から放たれる禍々しい邪気に、ガーネットは身震いした。
「ふむ、拙者の相棒の『マリス』を感じ取り出てきたか。これは探す手間が省けた」
「……懲りずにまた『刺客』を送ってきたのね。それも今度は結構な……」
『赤黒い靴』が感じ取った強大な邪気。今までも、『赤黒い靴』を狙う『刺客』が町に迫る度にガーネットは身近な人間や町の人々に危害を加えられないように、町の外で刺客を迎え撃っていた。今回もそれと同様に町の外で刺客を待ち伏せしていたが、今回は少し様子が違った。
「刺客……?勘違いするな。拙者、最早仕える者を失っておる故、今は誰にも従わぬ。それともお主の目には拙者が何処ぞやの犬と映るか?……誠に不愉快」
「……『門』って男の遣いじゃないの?」
「……成程、気に食わん男の名が出たな。あのような下種と同類と思われるとはな」
『赤黒い靴』は感じていた。『この男は危険すぎる』と。それは今までに『赤黒い靴』が感じた事もなかった嫌な感覚だった。
「……あなたは一体?」
「拙者、名乗るほど名など無いが……人からは『悪食王百鬼撰』と呼ばれている」
その男『悪食王百鬼撰』の長髪に覆われていたその片目が露わになる。そこには痛々しい無数の深い傷があり、その目を完全に潰していた。傷口は黒ずんでおり、そこから放たれる不気味な雰囲気は何故かその眼が『何かの意図を持って』潰されたもののように、ガーネットには感じられた。
目の前の男が明らかに今までの『敵』とは『異質』な存在である事は明白だった。
「無駄な話など面倒であろう?お主も互いの『刃』を交えんが為に出てきたのであろう?ならば、すぐに始めよう……拙者の『蠅』が疼いておるわ」
「待って!あなたの目的は?もしも、あなたがこの『赤黒い靴』を狙ってきたのではないのなら……私には闘う理由が無い」
「……『力』……そういうべきであろうか?拙者はただ『強者』を喰らうのみ。『闘う理由』がない?ならば、『闘わない理由』でもあるのか?折角の力、お主は何が為に振るうのか?」
目の前の男は危険。しかし、『魔宝』の呪いに取りつかれた『狂人』にも見えなかった。少なくともガーネットの目にはそう映る。彼女には『闘わない理由』があった。もしも、この事を話せば、目の前の男は理解を示してくれる……ガーネットには何故か根拠のない自信があった。
「私は……」
しかし、そうは思わない者も勿論居たのだ。それは彼女の足元で、徐々にその『殺意』を蘇らせつつある『赤黒い靴』。
潰セ……コイツハ潰サナイト危険……!『殺ス気デ』カカラナイト……殺サレル……!
「……『赤黒い靴』?」
魔宝はより強くその『闇』を感じ取る。悪食王百鬼撰のぶら下げる『刀』の持つ圧倒的な『闇』。『赤黒い靴』は何故か、それを『今すぐ消し去らねばならない』と認識した。
何故か……その理由は靴には分からない。ただ、『何か』が奪われる……そんな曖昧な感情が、その魔宝を動かした。
潰セ潰セ潰セ潰セ潰セ潰セ潰セ潰セ潰セ潰セ潰セ潰セ潰セ潰セ潰セ潰セ潰セ潰セ……!
「う……!やめて…………闘う必要なんて…………!」
徐々にガーネットの脚を伝って、黒い影が這い上がって行く。それを見た悪食王百鬼撰は腰の刀に手を添える。必死でその『殺意』に抗うガーネットは、次に聞こえた『一言』によって、完全に『揺らいだ』。
……娘ヲ奪ワレルゾ!アノ時ノ……オ前ノ『夫』ノヨウニ!
ドクン……
心臓の音が一瞬高鳴るのをガーネットは聞いた。彼女が犯した『最初の過ち』。愛していた筈の『夫』を『潰した』あの日を思い出す。
その時、ガーネットの目には、目の前の男の姿は……その身に娘を宿す自分に手を伸ばそうとするあの時の『憎き夫』の姿に映った。
「う……ああああああああああ!」
黒い影を全身にまとい、真っ赤に染まったその不気味な目をぎょろりと動かし、ガーネットは目にも止まらぬスピードで走った。その異常なスピードに悪食王百鬼撰は左目を見開く。
「何という速さ……!見事……お主こそ、我が『百鬼』の一柱に相応しい……!」
嬉々としてそのどす黒く濁った刀を抜き放つ百鬼撰。目の前で鋭い蹴りを放つその女を前に、百鬼撰はその魔宝に語りかけた。
「さあ……喰らえ……『悪食王―蠅―』!」
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ロザが見たのは、足を切断され、手を切断され、体中を黒い影に蝕まれた、今まで見た事もない姿の母だった。真っ赤に染まったその瞳で一直線に彼女を見つめる母は、腕の切断面を伸ばし、ロザに向けて声を発する。
「逃……げて……お願い……!」
その赤い瞳からは涙が伝っていた。
何故か家に居ない母が気になって、ロザは彼女を見つけに外に出た。いつも、姿が見えなくなった母は、町の外から帰ってきた事を思い出し、ロザは町の外に出た。その時、奇妙な光を見たロザはその光の方向を目指し走った。
そして、その変わり果てた母の姿を見た。
母をこんな姿に変えたであろうその男は、訳も分からずに目を見開き硬直するロザに気付くと、倒れる母を見下ろし、目を細めた。
「…………娘が居たのか……?」
「お願い…………!あの子には手を出さないで……!お願い……!」
懇願するその声に百鬼撰は、苦い表情を浮かべ、唇を噛んだ。
「何故、言わなかった……何故、拙者の前に出てきた……!」
百鬼撰はロザの方を向く。そして、ぎしりとその傷だらけの目に爪を立てると、震えるロザを見下ろした。
「許せとは言わん……拙者、国を失った時より覚悟は決めておる。例え、何を犠牲にしようとも、あらゆるものを捻じ伏せる圧倒的な力にて、『奴』を打ち滅ぼさん事を誓ったのだ。国を取り戻す為、その力を得る為、お主の母は『蠅』に喰わせてもらう」
百鬼撰が刀を振り上げる。
「『三十一ノ鬼・忘草』」
百鬼撰は禍々しい緑色の光を帯びた刀を振り下ろし、言う。
「消してやろう……この記憶。それが拙者のせめてもの贖罪……!」
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「……そうだ。お母さんは……殺されたんだ。あの人に……」
「そう。彼女は……ガーネットは殺されたんだよ。『悪食王百鬼撰』に……いや、彼も理由もなくガーネットに手をかけた訳じゃない。『赤黒い靴』をガーネットが持っていたから、『赤黒い靴』が戦う意思を見せたから、殺した」
エインが指を鳴らすと同時に流れ込んできた、『赤黒い靴』の記憶。蘇った『消されていた記憶』。エインがどんな魔法を使ったのかは分からない。しかし、『赤黒い靴』から流れ込む悲しげな気配から、その記憶が真実であることをロザは悟った。
「ロザちゃん、君は『魔宝に宿る負の感情』が本当に悪い物と思ってるよね?でも、実際に……『被害者』になった時、同じ事が言えるのかな?」
エインは暗い表情を吹き飛ばして、けたけたと笑う。
「君は百鬼撰が憎くないの?君は『赤黒い靴』が憎くないの?憎いよね?憎くない筈がないよね?だって、訳も分からぬまま君のお母さんを奪ったんだよ?ねぇ、知ってる?『綺麗事』はね、『第三者』しか吐けないんだよ。要は『他人事』だって思わなきゃ、『人を憎むな』とか言えない筈なんだよ」
ロザは黙って話を聞いていた。先程まで流していた涙は枯れ果て、そこには無表情が佇んでいた。『赤黒い靴』は今までにないロザの表情に違和感を覚えた。
……ロザ?
「辛いかな?始めての『憎しみ』っていうのは。忘れたいよね?だって、君は『赤黒い靴』を本当に大切に思っていたんだから。『忘れさせてあげようか?このウチが』……」
ぴらりとエインが一枚の魔法札を取りだす。それはロザが見た事もない黒い魔法札。赤い文字で呪文を描いたその魔法札をエインはロザの前に落とした。
「これはね、『帰るべき場所』っていう魔法の魔法札なんだ。ウチが『崩界の針』の力を封じ込めた特製の魔法札さ!これは胸に当てる事で力を発揮するように出来てるんだけど、その効果はとっても凄いんだよねぇ!この魔法の力は……」
ロザはその奇妙な魔法札を手に取る。それだけで、魔法に疎いロザでもその札がとてつもない力を秘めている事を感じ取れた。それほどに、その魔法札からは強い力が発せられている。きっと、確実に、この魔法札はとてつもない魔法を実現するのだろう、ロザはすぐに理解した。そして、エインの口から語られるその力はやはり想像だにせぬものだった。
「『望んだカタチの過去に帰れること』。例えば……君のお母さんが生きている過去とかかな?それだけじゃあない。『死ぬはずだった君の母の運命』も、カタチを変えるのさ。全て……全てが君の思うがままの『理想の過去』に姿を変える。『憎しみ』も『悲しみ』もない、『幸せ』な過去にね。君はここまで得てきた全てを忘れて、幼いころに戻る事ができる。『やり直せるんだよ』!すごい魔法でしょ?」
まるで夢のようなその魔法。しかし、得体の知れない力を持つエインは確かにそれを実現させてくれそうな、そんな夢を与える雰囲気を醸し出していた。
「そんな都合のいい事、ある筈ない?……いや、あるのさ!『過去』は無数に存在する。その内の君の望むものに君を飛ばすのがこの魔法『帰るべき場所』!ウチの魔宝なら、そんな夢のような魔法さえ可能にするのさ!この『崩界の針』ならね!」
胸の時計を自慢げに見せびらかし、しししと笑うエイン。
「さあ、聞かせてよ。さあ、見せてよ。さあ、教えてよ。君の答えを。君の思いを。君の選択を。ウチは『神様』。君達が助けを求める『最後の希望』。救うよ。君が自分で答えを出したのならね」
ロザはくしゃりと魔法札を握りしめる。そして、既に何かを決意したように、その言葉を放った。
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『赤黒い靴』の想い。それは靴自身にすら分からなかった。湧き上がる想いは何?その『殺意』を駆り立てたものは何?
間違っていたのだろうか?所有者に少しでもなびいた事が。だから、こんなにも後悔しているのだろうか?彼女を死なせてしまった事を。だから、ロザに何も伝えられなかったのだろうか?嫌われてしまう事が怖かったから。
この想いは一体何?
それは靴自身にも分からない。他人にとってはなおさらである。しかし、その想いを客観的に見る事ができる人間が居たならば、その答えは出るのかもしれない。
答えは……どこにあるのだろうか?
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「私は……旅を続けます」
「…………え?」
……ロザ?
ロザは今までにない程に決意に満ちた目をしていた。そして、あまりにも迷いのないその答えにエインはきょとんとしていた。
「どうして?」
それは始めてエインが見せた『戸惑いの表情』。
「言ったよね?君は旅を続けるべきじゃない。『赤黒い靴』を受け入れられるの?君を騙して取りいってた、その悪魔を」
『悪魔』。その言葉に『赤黒い靴』はぴくりと反応を示した。それはエインの容赦ない言葉に対する怒りではなく、戸惑い。それは靴自身にも否定できない事実。抑えきれない『殺意』とそれを晴らすだけの力、それを持つ靴は確かに恐ろしい『悪魔』と言えた。
既に自らを否定する事しかできない靴はロザの言葉を恐れた。しかし、聞こえたのは意外な一言。
「靴さんは私を騙してないです。靴さんは『言わなかっただけ』。もしかしたら、嫌な事を忘れたかったのかも知れないし……私を傷つけまいと黙ってただけかも知れない」
エインは唖然としている。靴も同じく唖然としていた。
『赤黒い靴』は覚えている。『あの時』の事を。その上で、開き直り自らの『魔宝』としての役割を果たしていただけ。浅ましく、強欲で、卑怯な歪んだ感情の塊『魔宝』としての役割を。
「君は……どれだけ愉快な頭をしているの?流石に……笑えないな」
「ええ、私は馬鹿ですよ。全部、都合のいいようにしか考えられません。靴さんはきっと、お母さんを、私を守る為に……百鬼撰と闘おうとした。私はそう思いたい」
「百鬼撰だって……きっと事情があったんです。だって、ただ非情なだけの人だったら……あんな悲しそうな表情はしないです」
「きっと、お母さんだってそう言います。……少なくとも……私はそう思います」
『赤黒い靴』は呆れた。何処まで、この娘は……馬鹿なのか。百鬼撰が憎くない筈がない。私が恨めしくない筈がない。あの男も、私も、勝手な思惑でガーネットの命を奪ったのだ。私がガーネットとロザを守ろうとした?そんな筈はない。そんな筈はない。そんな筈はない。
私はただ『殺意』を何かにぶつけたいだけだ。そうだ、それが私、『赤黒い靴』。
悪食王百鬼撰、あの男は魔宝に魅入られた男。その欲望でガーネットを殺した。
何で平気で嘘をつける?自分の感情を裏切れる?
「綺麗事はよしなよ……言ったよね?ウチは『神様』じゃない。そんな聖人様の言うような綺麗事を愛してくれるような立派な存在じゃあ無いんだよ?恨めよ。君から大切なものを奪った運命を。呪えよ。その運命をもたらした敵を」
「……私は恨まない。だって、『魔宝』と一緒に歩くって……そういう事じゃないですか。私は『魔宝』を救いたい。だって、靴さんも人と同じじゃないですか。お喋りしたり、暗い気持ちになったり……同じなんです、皆。それを無視して逃げる事はできません。私は救う為に旅を続けます」
エインの無表情が徐々に黒い影に覆われていく。それは『怒り』。今までは全く見せなかったエインの剥き出しの憎悪。
「君は馬鹿か?いや、馬鹿だ。『何故、何かの為に自分を犠牲にしようとする』?自分の感情を押し殺して、全てを赦すのか!?苦しくないのか!?そこまでするほどに、君は本当に他人を知っているのか!?無知!無知!無知!無知!それは最も忌むべき『罪』!ウチはだから言っている!君は知らな過ぎるんだよ!全てを!人の愚かさを!君は犠牲になるよ!『魔宝』の呪われた運命の!考えろ!よ~く、考えろ!君は本当にそれでいいのか?本当の気持ちを吐いてみなよ!君を咎める者なんてどこにも……」
「ありがとうございます」
思わぬ言葉にエインは口を止めた。ロザは曇りのない、眩しいほどの笑顔で言う。
「エインさんは……私を心配してくれてるんですよね?確かに私も自分が馬鹿だと思います。でも、誰かの犠牲になってるつもりは全くありません。全部を良いように思う事は全く苦しくありません。だって……」
『赤黒い靴』は思う。ああ、ロザはこういう子なんだ、と。私の罪は消えない。私の呪いは消えない。でも、もしも……ロザが、私を信じてくれるのなら……
私も彼女の信じる姿でありたい……と
エインは顔を歪める。その先の彼女の『答え』は、とても単純なものだった。
「そっちの方が幸せじゃないですか!」
エインは歪んだ顔に手を当て、ふるふると震える。そして、その掌をロザに向けると、ぼそりと震える声で最後の『問い掛け』をする。
「それが、君の『答え』か?」
ロザは力強く頷く。
「はい!」
エインはぎりりと歯を鳴らした。
「そうか……」
『赤黒い靴』は身構える。明らかに変化したエインの雰囲気。もしかしたら、何か、この『神』の触れてはいけない部分にロザは触れてしまったのかもしれない。だったら、奴は何かをしかけてくるだろう。その時は私がロザを守らねば……そう思った。
「もういい…………これ以上は無駄なようだ…………」
ゆらりと体を揺らし、エインがその不気味な視線をロザに送る。もはや、眩い笑顔など何処にもなく、その表情はとても子供のようには見えなかった。
パチン!
一瞬、響いた指の音。
それをロザと靴が聞き終わった時には、ロザの目の前にはぎょろりとひん剥かれたエインの瞳があった。
ロザの心音が一度だけ、大きくトクンと響く。
それは『赤黒い靴』が反応する間もなく訪れた一瞬の出来事。
エインは静かに、静かに……その口を開いた。