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彼の人の、香 - いくえさんと、超絶イケメン

作者: 東曌
掲載日:2026/09/07

ここは、東京西新井団地


【第一章:老眼鏡の向こう側と、楽園の香り】


西日が、台所の古い木目のテーブルに、細長いオレンジ色の線を引いている。


いくえは、老眼鏡を鼻の頭にのせたまま、小さくため息をついた。スマートフォンの画面にある文字が、どうにもかすんで見えにくい。


指先で画面を広げようとして、間違って広告のバナーを叩いてしまい、画面がチカチカと切り替わる。通販サイトで「CICAサプリ」という文字を見つけたのだけれど、その詳細を読む前に目が疲れ、画面を閉じてしまった。


「やあねえ、本当に。もう、ババアのひとりごとよ」


言葉にしてしまうと、それは部屋の隅の埃のように、頼りなく床に落ちた。今年で六十になった。


還暦、という響きには、どこか新しく生まれ変わるようなおめでたさがあるけれど、現実はそれほどドラマチックではない。老眼、物忘れ、たるみ。


鏡の中にいる自分は、少しずつ「かつてのいくえ」から遠ざかっているような、そんな心細さが、夕暮れのスープが冷めていくように静かに胸に広がっていた。


そんなある日の午後、いくえは商店街の裏通りに、新しくできた小さなお店を見つけた。


間口の狭いその店の前には、素焼きの鉢に植えられた、見たこともない丸い葉っぱの緑の草が静かに揺れている。


ガラスの扉を開けると、カラン、と乾いた真鍮の鈴が鳴った。その瞬間、いくえの鼻腔をくすぐったのは、今まで嗅いだこともないような、圧倒的に高貴でみずみずしい花の香りだった。


甘いガーデニアやジャスミンが咲き誇る、まるでお城の庭園に迷い込んだかのような――


それは、憧れの「GUCCIグッチフローラ」の香水だった。


「いらっしゃいませ」奥から出てきた青年を見て、いくえは息の根が止まりそうになった。


背が高く、驚くほど整った、涼しげで切れ味のある目元をしている。


少し長めの黒髪は6:4できれいに分けられ、柔らかな天然パーマの毛先が、彼の動くたびに耳元で優しく揺れている。


その佇まいは、数年前に夢中になった中国の若手俳優、王星越ワン・シンユエの面影をどこか宿している。


そして何よりいくえの目を釘付けにしたのは、その圧倒的な着こなしだった。


インナーにはシンプルな黒のTシャツ。


その上に羽織っているのは、どこかストリートの尖った空気感をまとった「alexanderwangアレキサンダーワン」の黒いジャケットだ。カチッとしすぎない、絶妙なモードのラインが、彼のスタイルの良さをこれでもかと引き立てている。


さらに下半身には、無駄な装飾をいっさい削ぎ落とした「junhashimoto」の細身のデニム。


色は、まるで春の空を切り取ったような、透明感のあるベイビーブルーだ。そのデニムは、彼の驚くほど長くてまっすぐな足のラインを美しくなぞるようにフィットしている。


黒と、洗練されたベイビーブルー。


そして、彼が動くたびに、6:4分けの天パの毛先からふわりと放たれるグッチの香。


その完璧な暴力を前にして、いくえは心臓のミトコンドリアが一斉に爆発しそうになるのを感じた。


「あの、ここは……」


「アーユルヴェーダと、世界のハーブを扱う小さなお店です。お茶を淹れますね」


青年は「シン」と名乗った。


彼の声は、低く、穏やかで、まるで古いチェロの音色のように店内に響く。


彼が淹れてくれた温かいお茶からは、少し香ばしく、けれどどこか土の匂いがするような、


不思議な安心感が漂っていた。シンは、いくえのとりとめのない話を、遮ることなく静かに聞いていた。その美しい目が、時折、優しく細められる。


いくえさんは、自身のおかれている、状態を語った。

そして、シンくんから

「いくえさん、それは、あなたのせいではありませんよ」と、返答された。


シンは、アレキサンダーワンのジャケットの襟元にそっと手を添え、ゆっくりと頷いた。


「インドの古い知恵、アーユルヴェーダでは、人間の体は自然そのものだと考えます。


今のいくえさんは、体の中に少し『重さ』と『乾燥』が同時にやってきているだけです。


昔の人は、そういう時、植物の力を借りて、体に『ひき算』と『たし算』をしてあげたのです。


余分な糖をブロックするサラシアでひき算を、そして脳とお肌のコラーゲンを爆発的に増やすツボ草(CICA)でたし算をする。

ロマンがあるでしょう?」シンのその低く美しい声で、グッチの香りに包まれながら「ロマン」と言われた瞬間、いくえの胸の奥で、何かがカチリと音を立てて弾けた。

「私、それ、やってみるわ」



【第二章:台所の調合師と、大暴走のSNS】


その日の夜、いくえの家には、不思議な活気が満ちていた。


シンに勧められたユーグレナ、DHA・EPA、5-ALA、そしてネットで即ポチした、ハトムギやコラーゲンも入った「CICAサプリ」のボトルが、台所の棚にきれいに並んでいる。


シンに教わった『奇跡の調合』のバランスを思い出しながら、いくえは夜の食後に、静かにサプリメントを口に含んだ。


翌朝、不思議なことに、いつもよりほんの少しだけ、足が軽い気がした。


気のせいかもしれないけれど、それでもいい。


いくえは、あの商店街の裏通りにある、ガラスの扉を思い出すだけで、なんだか心が弾むのを感じていた。そして、いくえの「毎日通う日々」が始まった――のだが、奇跡はいくえの体だけに留まらなかった。


いくえの肌のツヤが日に日によくなり、老眼鏡を使わずにスマホをサクサク操作する姿を見た商店街のシニア仲間たちが、黙っているはずがなかった


「ちょっといくえ、そのツヤなんなのよ! 整形!?」


八百屋のサチコ、ブティックのキヨミ、純喫茶のマスターの奥さんであるフミエが詰め寄る。


いくえが観念して「裏通りのハーブ屋さんよ。


ワン・シンユエそっくりのシンさんって子がいてね、グッチの香りがして……」と白状したその翌日、商店街に激震が走った。


裏通りの静かだったハーブサロンは、またたく間に近所のマダムたちで超満員になった。


「いやだっ、本当にアレキサンダーワン着てる!」


「あのベイビーブルーのデニムの足の長さ、何等身よ!?」


熟年女性たちの熱狂は現実世界に留まらず、

SNSの世界へと大暴走を始めた。


それまで「今日の夕飯は肉じゃが」

くらいしか呟かなかったサチコたちのX(旧Twitter)やInstagramが、


一晩で『シンさん推し活アカウント』へと変貌を遂げたのだ。




@サチコ_ハーブ活: 「今日もシンさんのサロンへ。6:4天パが揺れるたびにグッチフローラ香って召された。サラシアサプリで炭水化物ひき算中! #アーユルヴェーダ #シンさんしか勝たん」




@キヨミ_モード部: 「シンさんのjunhashimotoデニムの穿きこなし、天才のそれ。アレキサンダーワンの黒ジャケ裏地から香る微かなフローラルにババア一同即死。CICAサプリ3ヶ月セット追いポチしました。 #推し活 #美肌ループ」




それから、マダムたちは毎日サロンに通い詰め、


「シンさんにアグニ(消化の火)の調子を報告する権利」をかけて、お互いのSNSのいいね数を競い合う始末。商店街のLINEグループは、シンの写真(隠し撮りは厳禁なので、シンが微笑んでくれた手元などの概念写真)のスタンプで毎日1000件以上の通知が飛び交った。



【第三章:ババアたちのラプソディ】


三ヶ月が経ち、ボトルが空になる頃。商店街の光景は一変していた。


かつて「もうババアだから」と腰をさすっていたマダムたちが、みんな一様に内側からぽうっと灯りがともったような透明感のある肌になり、背筋をピンと伸ばして、シャキシャキとした足取りで歩いている。


物忘れが減ったせいで、商店街の総菜屋の計算ミスをサチコが秒速で指摘し、老眼が治ったキヨミはスマホでシンのファンアートをデジタルで描きこなすまでになった。


「みんな、今日もアグニは燃えてる?」


いくえが声をかけると、


「バッチリよ!」


「ユーグレナと5-ALAでミトコンドリア大爆発よ!」と、元気な声が返ってくる。


その日の午後、いくえはマダムたちの代表として、裏通りの店へと向かった。ガラスの扉を開けると、カラン、と鈴が鳴る。


シンは、今日もあのベイビーブルーのデニムを穿き、アレキサンダーワンの黒ジャケットのポケットに手を入れ、窓辺に立っていた。


西日が、シンの6:4分けの髪の輪郭を黄金色に染め、極上のグッチフローラの香りが部屋を優しく満たしている。


「シンさん! 商店街のみんな、サプリのおかげで本当に元気になって、もはや毎日がフェス状態よ!」


大興奮で報告するいくえさんを、シンはゆっくりと振り返り、ふっと妖艶に、けれど心から嬉しそうに微笑みながら見つめた。


「ふふ、嬉しいですね、

いくえさん。でも、それは僕の力ではありません。あなたたちが、自分の体という自然を愛し、眠っていた細胞の発電所を自分たちの熱量で呼び覚ました結果です」


シンは一歩近づき、その綺麗な手で温かいゴツコラ茶をいくえに手渡した。


その瞬間、彼のジャケットの裏地から、甘く切ないフローラルの香りがひときわ強く香る。


「特に、いくえさん。


あなたが最初に僕を信じて、毎日通ってくれたから、この街に美しいひき算とたし算の輪が広がった。


僕にとって、あなたが一番の特別な『調合師』ですよ」あの低音ボイスで耳元でそう囁かれた瞬間、いくえの脳内ミトコンドリアは完全にキャパシティを超え、一瞬、本当に気絶しそうになった。


店を出た夕暮れ時、いくえはスマホを開いた。画面には、シニア仲間たちからの



「いくえさん、今日のシンさんどうだった!?」


「香水、何系のフローラルだった!?」


という怒涛の通知。


いくえは老眼鏡をかけないまま、ピチピチになった指先で、軽快にSNSの投稿ボタンを叩いた。


『やあねえ、みんな。これはね、ただのババアのひとりごと。


でもね、私たちの5000年のロマンと推し活は、もう誰にも止められないのよ。


さあ、明日もみんなで、あの楽園へ通いましょう?』


いくえの投稿に、秒速で100件の「いいね」と、商店街中のマダムたちからの熱狂的なコメントが並んでいく。


夕日に照らされた商店街を、いくえはまるでランウェイを歩くトップモデルのような、誇らしげで美しい足取りで帰っていくのだった。

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