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夢中の鳥

作者: 水無瀬 非想
掲載日:2026/08/04

 この世界には鳥という概念が存在しない。

 この世界の人間は全員、鳥の存在を知らない。

 だけど俺は知っている。俺だけが─知っているのだ。

 この世界の人間はみな、鳥を見たことがなかった。空を飛ぶための翼が生えていることも、餌を食べるためや、毛づくろいをするために付いているクチバシも、見るどころか知りもしない。

 実際俺もこの世界で鳥が飛んでいるところは見たことがなかった。だけど、とにかく想像できるのだ。全身は羽毛で覆われていて、クチバシがあって前足は翼でできていて。

 知っている、やっぱり俺だけが知っている。どこの誰に聞いても知らないと言う。だから、俺にしかわからないのだ。──だから、だから、だから。


 今俺が見つけたからには──絶対に捕まえてみんなに見せてやらなければならないんだ。




 俺が初めて鳥を見つけたのは、つい数時間前の事だった。

 俺はいつも通り、鳥を探すために村から離れ、果てしなく高い木々が並ぶ森を目を凝らしながら彷徨っていた。

 足元は枯れ葉に紛れて変な虫がせこせこと這っていて、そいつ等の(ブツ)の匂いなのか糞尿の強烈な匂いが鼻を突き刺した。

 気分が悪くなりながらも、これは鳥を見つけるための試練なんだとそう考えると、簡単に受け入れられた。というより、そんなことを考えなくとも進んでいただろう。理屈はわからないが。


 歩いていると、気づけば眼の前はゆるやかな斜面になっていて、少し進んだところに何やら黒い物体が倒れているのが見えた。

 近づくにつれて甘ったるいような、生臭いような匂いが強く鼻を突き刺してきて全身がぶるっと震える。めまいがするような、目の上の方が暗転するような感覚。さっきの虫の匂いの方がまだマシのように感じられた。腐ったチーズの匂い、生ゴミの匂い、アンモニアの匂い、並べれば切りがない。全部が混じっているような、はたまた交互に強まっていくような。

 遂に目の前まで近づくと、それが熊の死体だったという事に気がつく。熊だったのか、と俺は口を抑えながら眉間に皺を寄せて眺める。だけど、見る限りどこにも傷は無かった。とにかく、寿命だろうと結論付けて、すぐにその場から離れた。


 気分が悪くなっていた俺は、しばらく木に凭れて三角座りをしていた。

 ついさっきまで朝だったはずが、見れば日が落ちてきている。

 潮時か、と腰を起こしてため息を吐く。夜の森は何が出るかわからない。いいや、むしろ夜の森こそ鳥は現れるのかもしれないが。まあそれはまた今度─夜、森に入る用の準備をしてからとしよう。そう一歩前へ足を踏み込んだその時だった。


 「ヒューン」という鳴き声が上空から森に、俺の心に、体に響く。その瞬間、全身の筋肉が鼓動するように大きく跳ねた。

 「まさか...!」と思わず口に出すと、心臓がじんと熱くなる感覚がした。まるで『きっとそうだ』と心がそう答えたようだった。

 鳥以外のなにものでもない、甲高い笛のような音。そしてなにより、その音を脳が直感的に鳥だと理解したのだ。

 俺は咄嗟に赤くなっている上空を見上げた。しかし、そこに姿はない。だが、確かに俺は聞いた。初めて鳴き声を聞いたのだ。きっと幻聴なんかではない。


 耳が、目が、筋肉が、脳が、心が、強く答えたのだ。


 しかし、なぜだろう。その鳴き声を聞いた途端、微かに恐怖も感じた。いや、もしかしたら──恐怖で全身が跳ねた可能性すらあった。それに、妙な聞き馴染みも。それを感じてすぐ、全身に鳥肌が立つ。

 身体が危機を感じているはずなのに、それとは相反して足が前に踏み出した。

 だけど、足を踏み込んだ後はどういうわけか、恐怖も鳥肌も消えて、心が踊る感情だけが残った。

 一歩、また一歩、踏み出す足が軽く、地面に踏み込む足が遅れる。

 近づきたい、捕まえたい。それが無理だとしても、一目見るだけでいい。

 終わりが見えない森を、暗中模索でとにかく突き進んだ。


 一度うつむいて額の汗を拭う。すぐに顔を上げると眼の前を一直線に動く影が見えた。はっとして上空を見上げると、そこには白い羽毛を帯びたものが。

 その瞬間、森を切り抜けて目に光が差した。「あぁ」と声が漏れて、肩の力が抜けた。

 やっと見つけた。やっと、どれくらい時間を掛けただろう。莫大な時間のようにも、ついさっきの事のようにも感じられた。

 でも、これでやっと確証が得られた。──この世界に鳥は存在するのだと。


 逆光に揺れる鳥が眩しくて、輝いていて。それでもと、瞼を少し閉じて手を伸ばした。

 やっぱり、全身は羽毛で覆われていて、空を飛ぶための翼が生えていて、餌を食べるためや毛づくろいをするためのクチバシが付いていて。

 見つけた、やっぱり俺は見つけられた。どこの誰も見つけられなかったものを。だから、俺にしかわからないのだ。──だから、だから、だから。


 今俺が見つけたからには──絶対に捕まえてみんなに見せてやらなければならないんだ。


 俺は強く地面を踏み込んだ。手を伸ばしたまま、力強く空を飛ぶように踏み込んだ。

 届く。きっと届く。捕まえてみせる、絶対に。

 宙を舞う感覚は肌で感じられた。風が背中を押す感覚がして、下からは上昇気流が足を押し上げた。

 鳥は、もう目の前だ。手で包み込めそうだった。両手で皿を作るように組んで、鳥に重ねて包み込んだ──はずだった。

 目を見開いた。包んだはずが、鳥は手よりずいぶん上にいた。全く届いていなかったのだ。そんな、と理解を拒むのも束の間。そんな暇は無かった。

 地面に足が着かず、下降感がいつまでも止まなかった、そろそろ地面に足が付いても良い頃なのに。首を出来るだけ後ろに捻ると、俺は目を疑った。さっきまで俺が踏んでいた地面が、今は俺の眼の前にある。

 その瞬間、理解した。俺はたった今──崖から転落したのだと。




 「────はっ...!!」


 片足が後ろへ竦む感覚に目を見開いた。耳鳴りが耳を占拠していて、温かい冷や汗が吹き出ている。いいや──冷や汗だけじゃない。『これは...』と声が出たが、絞ったような声で完全に喉が潰れていた。

 鼻の周辺を埋め尽くす糞尿の匂いと、腐ったナニカの匂いはついさっきのと酷く酷似していた─様な気がする。

 倒れたまま視線を体に落とすと、さっきまで着ていた服とは全く違う服装だった。いや違う。さっきまで着ていた服が思い出せない──というより知らないのか。

 わからない、さっきまでの記憶が、景色が、思考が。だが、絶対にさっきとは違うことはわかる。理屈は─わからない。

 腹部に血が付いている。その事実に気がついた瞬間、体が灼熱に覆われる。


「──ッ!!」


 起きてから身体に妙な気だるさがあった。体が動かせない─というより、動かそうと思わなかった。それはきっと、本当に体を動かそうと思わなかったからなんじゃない。身体が、脳が、体を動かすことを拒否していたからなんだろう。

 関節がピリピリと痺れる感覚が怖い。動かしたら痺れが痛みに変わって爆発しそうだ。

 腹部がズキズキと裂ける感覚が怖い。動かしたら腹部が裂けて引きちぎれそうだ。

 脛がガンガンと響く感覚が怖い。動かさなくてもわかる、骨が割れているんだ。

 反射で全身に力が入る。それがより一層強烈な痛みを呼び、意識と相反して力が抜ける。

 温かい涙がこめかみと頬の間を流れた。視界が滲んで前が見えない。涙を拭おうにも手は動かせない。

 首を起こす筋力が限界を迎え、地面に後頭部がついた。すると、空を映す視界の端に黒い何かがぼやけて見えた。黒い方へ首を力ずくで捻る。

 あと少し──あと少し。

 耳鳴りが遠のいてきて、何か低いエンジン音の様なものが聞こえてきたのと同時に、視界に黒い正体が現れた。

 俺は「ああ...」と掠れた呻き声ともとれる声を漏らした。思えば本当に馬鹿みたいだ。寝ぼけていたんだろうな、きっと。そう心の中でぼやいた。

 少し滲んだ視界に、縦長い物体がたくさん建っていた。黒く見えていたのは多分光の問題だろう。白やグレー、ベージュの色で、高いものもあれば低いものもある。


 全て思い出した。こんなボロボロになる前のことも。

 日章旗が風に靡いていたあの日、俺らの─いや、世界の戦いは始まった。郵便受けに届いていた赤い紙を見たときは、何も感じず、ただ涙を流した。戦場に着けば、すぐに数人死んだ。また一人。一分経てば五人は消えている、そんな感覚だった。だから、とにかく一度離れて体制を立て直そうと、移動しようとした。だけど、そこからぷつりと記憶が無くなっていた。最後に感じたのは、強烈な風と火薬の匂いだけだった。


「なんでわざわざ起こしたんだよ...」


 喉が押しつぶされるような感覚。堪えきれない怒りが、悲しみが、視界を染め上げた。寝ぼけたままで死にたかった。馬鹿なままで居たかった。痛みなんて忘れたかった。


 耳鳴りが完全に止んで、低い音が爆撃機のプロペラの音だとわかった。本当に嫌な聞き馴染みだ。

 爆撃機が近づいてくるのを悟ると、俺は静かに目を閉じた。

 上空、俺の足から一○メートル先くらいに近づいた爆撃機が、一度だけ鳴いた。


「ヒューン」

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