第二話 ブラッディメアリー
カラン カラン
本日最後の客がドアを押し開けて、ドアベルが終業の音を鳴らした。
多くの客で賑わった店内も今はすっかり静まり返っている。
「はー、疲れた!」
先ほどまでにこやかな笑顔で客を見送っていた店主が、バーカウンターに手をかけその場に座り込む。
カウンターの中に消えたその姿を横目に、もう一人の従業員によって入口の鍵がカチャリとかけられた。
「霞さん、床に座らないでください」
「もう疲れたんだもん。歩きたくない」
「締め作業やるんでしょ」
床を掃き、グラスを磨き、戸棚を閉める。
本日最後の仕事をこなしながら、段々と仕事用の雰囲気や表情が彼らから消え去っていった。エプロンを外し、ベストを脱ぐころには完全にオフモードの顔つきになる。
パッと店内を照らすライトが落とされた。
残る灯りは、営業中には灯されなかったカウンター奥の一つのみ。そこには上階へ続く階段が続いている。
コツコツ靴音を響かせ、二人は隠されていた階段を上っていく。
行き止まりにある扉を開ければそこには――居住スペースが広がっていた。
店主、いや「霞」と呼ばれた彼女は、真っ先にリビングへと進み、そのままゴロリと板張りの床に寝転がる。
「ハルくーん、晩御飯なにがいいー?」
のんびりと響く呼びかけを聞いたのか聞いていないのか、従業員からハルという名の同居人に姿を変えた男性は廊下の途中にある扉を開けた。
ピッピと何かを操作する電子音の後に、ハルはリビングへと足を進める。
がし、と容赦なく、寝転がる霞の襟首を掴んで引きずっていく。
「待って待って、服伸びる、伸びるって」
ずりずり脱衣所へと連行された霞は、抵抗空しく中へ放りこまれる。いつものことなのだろう、手慣れた様子で一仕事終えたハルは、満足そうな顔をして脱衣所の扉を閉めた。
「ハル君、お風呂あがったわよ」
しばらくして、風呂場から流れ出る湯気と共に霞が姿を現した。彼女の後ろで、いつのまにかハルが回していた洗濯機が音を立てている。
夕飯のために台所に立っていたハルが顔を上げ、髪がしっとり濡れた霞を見咎めた。
「髪、早く乾かしてください」
「そんなに急がなくたっていいじゃない」
そうは言っても、少しずつ冷えていく髪はそのうち彼女自身の体温も奪っていくだろう。
霞が肩にかけていたタオルを奪い、ハルはその大きな手のひらを使ってワシワシと髪の毛を拭いてやる。ある程度やって満足したのか、彼は夕飯の支度を霞に任せ浴室へと消えていった。
シャワーを使う水音とキッチンからの炊事の音が混ざりあう。下の階で穏やかなジャズを流していた時から、まださほど時間は流れていない。
上下を仕切る階段が、音の違う二つの空間を同じ建物の中に共存させていた。
入浴も食事も済み、ようやく慌ただしい生活音が息をひそめはじめた。紙をめくる音、ペンの走る音、衣擦れの音、硬い物同士が軽くぶつかり合う音。そんな音が耳に飛び込むようになってくる。
「ねえ、ハル君」
「……なんですか」
今日一日の営業の帳簿とにらめっこをしていた霞が、ハルの方を見ることなく声をかける。扉を開けたままハルが引っ込んだ自室から、間延びした声が聞こえた。
ガチャリと何か硬い金属を置く音が響き、彼がリビングへと顔を見せる。
「これ、明日の依頼内容まとめたやつね。地図だけ見ておいて」
「はい」
無造作にテーブルの上に広げた紙束の中から、霞は端の留められた数枚を掴み上げた。持っていた赤ペンで、内一枚に描かれた地図を大きく丸で囲む。
これは、どこかの建物の構造図なのだろうか。地図の中では堅苦しい名前がそれぞれの部屋に割り振られて記載されていた。部屋の名前のいくつかにひらがなで上書きの赤を入れ、霞はそれをハルへと手渡す。
渡された彼は指でそのひらがなをなぞり、何度か呟くように読み上げた。発音と文字が合っていることを耳で確認し、霞の手が傍らに立つハルの頭をいい子いい子と撫でる。
「上手に読めるようになったわね、ハル君」
「こっちも、読めますよ」
「え、本当? いつのまにお勉強したの」
仏頂面を少し自信で紅潮させ、ハルは一ページ前の文章を指でなぞり、声を発する。
その内容は、おおよそ一般家庭で出てくるようなものではなかった。
「○○株式会社、そう……? 記念パーティにおける新規ビジネスない、ようの入手」
「創業、ね。上手上手。ここも内容って読んで大丈夫よ。合ってるわ」
「パーティの中で、秘密を聞き出してくればいいんですよね」
「そう!大正解」
にこっと笑った霞が書類をもう一度手にする。バーテンダーという手元を魅せる職業で綺麗に手入れされた彼女の指が紙を捲った。
言葉を発するため、一つ息を吸い込む。途端、明らかに彼女を包む空気が変わる。
「私とハル君の二人だもの。今回もいけるわね」
「霞さんと一緒なら」
「そうね。私の可愛いワンちゃん一人でも十分できると思うけど。貴方のやる気の出方が違うものね」
霞が彼を愛おしみ慈しむ思いが、彼の頭を撫でる指先から溢れている。しかしそれと同時に、ハル自身の持ち得る語彙では言い表せない感情を、ハルは感じていた。
ハルは社会のことは良く分からない。
このバーの中を除いては、薄暗く人の住むべきではない所でしかハルは生きてこなかった。もうすぐ成人を迎えるというのに、読み書きひとつまともに習わなかったハルの世界は、今や彼を拾ってくれた霞で全て満たされている。
霞の願いがハルの願いで、霞の喜びがハルの喜びだ。
霞のやりたいことなら何でも手伝うし、もし霞を傷つけるような者が居るのであれば、ハルが良く知る怒りの感情が湧いて出てくる。
霞の放つ強者の風格を感じているのも確かだ。はたから見れば、霞はただのか弱いバーテンダーだろう。しかし、纏うものが違う。ハルには分かる。光と影が混ざる夜の街で生きてきた経験が霞を形作っている。
だからこそ、ハルはこの人を幸せにしようと思ったのだ。自分とは違って、まだ光の世界に帰れるこの人を。
「どうしたの? ボーッとして」
「……いいえ。霞さんは、パーティで出るお酒に夢中にならないでくださいね」
「まあ、ハル君ったら。大丈夫よ、自分へのご褒美を用意するもの」
くすくす笑いながら霞がハルの頭から手を下ろし、依頼書へと指を滑らせた。
好奇心に満ち溢れた笑みが、彼女の顔を華やかに彩る。
「これが一番の目標、その次がこれ。ここまでいったら、私は店の棚にある四十年物のボトルを開けるわ」
「じゃあ、行く前にオープナーを用意しておきましょう。今回は霞さんが聞き出すんだから、取りこぼしなんてないはずだし」
「ハル君はいつも私を買い被りすぎよ。……さて、じゃあ成功の前祝いでもしておく?」
「お酒が飲みたいだけでしょう」
霞が立ち上がり、うきうきとした様子でキッチンへと歩いて行った。呆れの混ざったハルの声も意に介さず、アルコールの瓶を手に取る。
グラスを二つ並べ氷を目一杯入れると、片方にウオッカを注ぎ入れた。
双方を染め上げるように真っ赤なトマトジュースが満たされる。
アルコールが入った方に塩や胡椒、ウスターソースなどを混ぜて、二杯のドリンクが調理台へと肩を並べた。
キッチンに立ったままの霞が手招きをし、ハルにトマトジュースのみのグラスを手渡す。
「ブラッディメアリー。意味は分かるわね」
「霞さんに、教わりましたから」
「良い子ね。――では、乾杯」
夜は街の全てを包み込んで更けていく
キッチンの小さな照明に照らされた二人を残して




