第3話 これは事故だ。決してわざとなんかじゃない(真顔)
「…あのさ、この前の“話”なんだけど…」
ドア越しに響く彼女の声が揺れる蝋燭の火のように掠れて聞こえてくる。
——この前、その言葉の矛先に向けられた確かな感情は、俺と彼女だけが知っている他の誰にも共有していない出来事だった。
告白。
今週の月曜日のことだった。俺は勇気を振り絞って彼女に自分の気持ちを伝えた。
けれど返ってきた答えは「ごめん」だった。
「……あの時はちゃんと伝えられなくて。だから、今のうちに言わせて」
彼女の声は少し震えていたが、それは冷たい拒絶の響きではなく、誠実でまっすぐな響きだった。
「私ね……今は“勉強”と“自分の力”のことで精一杯なの。だから、その……」
心臓が跳ねる。俺の耳から、そして“そこ”からも同時に響いてくる彼女の体温が、理性を粉砕するように伝わってくる。
「でも……嬉しかったよ。ちゃんと気持ちは届いてる。だから——ありがとう」
彼女の靴音が、ドアの前から離れていく。これほどまでに“ありがとう”という言葉を惨めに感じてしまうことが今までの人生にあっただろうか?もはや痛みを通り越して“熱い”。どう形容していいかわからないが、ショックのあまり寝込んでしまった今の俺の体には傷口に塗る塩のように沁みてしまう。
——終わった。そう、思った。
だが、終わらせられるはずがなかった。
なぜなら、俺は未だに“魂付与”を解除できずにいたからだ。
焦燥と羞恥で手元の思考が絡まり、能力の分配を切る手順を何度もシミュレートするが、思うように集中できない。
なにせ対象が悪すぎる。世界一集中できない場所に、自分の“意識”を置いてしまっているのだから。
「落ち着け俺……切るだけだ。ただ、切るだけでいい……!」
能力の理屈を、もう一度心の中で確認する。
——俺の能力「ギフトステップ=魂付与」には、いくつかの制約と構造的なルールが存在する。
まず最初に挙げられるのは「リンク距離」。これは俺の魂と対象を繋ぐ意識回路の有効範囲を意味しており、その最大値は半径およそ一キロメートルだ。リンクした対象がこの圏内に存在する限り、俺はその物体を“もう一つの視点”として扱うことができる。距離が近ければ近いほど対象の意識精度は増し、物理的な情報の鮮明さや伝達速度も格段に上昇する。逆に対象が離れるにつれて解像度は荒くなり、場合によってはノイズのような情報の欠落や錯覚が発生することもある。また、同時に複数の対象をリンクしている場合には回線の帯域が分散されるため、一つ一つの視点は粗くなる。特に複雑な構造を持つ対象や精緻な感覚を要求される場合には、この制約は致命的な負荷となり得る。
次に「筆界特定」と呼ばれる作業。これは魂を宿す対象を決める際に、対象物の境界を明確に“線引き”しなければならないというルールだ。人間の感覚は曖昧なもので、「机全体」や「地面」といった大雑把な対象を指定すると、魂は分散して不安定になり、まともにリンクを維持できない。だからこそ、天板だけを切り取るとか、石像なら胴体部分だけ、といった形で“容量と範囲”を限定しなければならない。上限値は最大で一立方メートル。それを超えると意識の回路が飽和し、暴走する危険すらある。曖昧なもの——水や空気といった流動体を対象にする場合には、より精密なイメージによって「この範囲だけ」という仮想の境界線を引かねばならない。
この制約こそが、俺にとって最大の落とし穴となった。
なぜなら俺は——最悪の「イメージ」をしてしまったからだ。
本来であれば、“彼女が部屋の前に来たことに動転し無意識で能力が発動してしまった”としても、対象はドアのノブとか、机の角とか、部屋の中のペンや本に向かうはずだった。だがその時、俺の意識は大きく揺らいでいた。
ドア一枚隔てた向こう側に、彼女がいる。声をかけてくれている。わざわざ俺を気遣って、飲み物まで持ってきてくれている。その事実が胸を熱くし、「ありがとう」と伝えたい気持ちが、俺の理性を越えて強すぎる衝動となってしまった。気づけば俺は、無意識のうちに“彼女そのもの”にリンクしようとしていたのだ。
しかし「人間」という曖昧で複雑すぎる存在は、俺の能力では直接リンクできない。正確に言えば、すでに魂が宿っている存在——人間や動物への付与は無機物に比べて圧倒的に負荷が大きく、コントロールそのものが難しい。俺の力量では、彼女全体を対象にすることなど到底できず、よほど対象先の性格や人間性を理解している状態でなければこちらから相手に対して正確な情報を“共有する”ことすら難しい。結果、能力はその内部で“最も境界線が単純で、負荷に耐えうる小さな対象”を探し出し、そこに接続を成立させてしまった。
——三崎あかりの下着。
布という単純な輪郭。容量制限にも余裕があり、曖昧さはほぼゼロ。筆界特定の条件をこれ以上なく満たした“理想的な対象”。俺が彼女を意識してしまったその瞬間、能力は彼女の一部を“最適解”として判定し、そこにピンポイントで魂を宿してしまった。(今何を言っているのか自分でもよくわかっていない)
……事故だ。間違いなく。望んだわけじゃない。
だが、システムとしてはあまりにも合理的すぎる誤作動であり、能力の特性を知れば知るほど“起こるべくして起こった”必然の結果であることが理解できてしまう。(ということにしておく)
本来ならば目を閉じ、深呼吸し、意識を切り離せばそれで終わる。リンク解除は難しい操作ではない。
だが、今の俺にそれができない。心臓が破裂するほど暴れ、血管の一本一本が焼けるように熱を帯び、頭の中は真っ白に上書きされていく。冷静に解除手順を思い出そうとすればするほど、逆に“そこ”から流れ込む生々しい情報に意識が攫われていく。
……まるで俺自身が、あの布切れそのものに変わってしまったかのような感覚。
理性と自尊心を削り取る、最悪にして最高のリンク。
「やべぇ……! これ、このまま行ったら……」
俺は冷や汗を流しながらも動けないまま、魂の一部を“そこ”に残し続けてしまった。
そして。
「……じゃ、帰るね」
そう呟いた三崎あかりは、静かに廊下を歩き、そして学園寮へと帰っていった。
……俺を引き連れたまま。
足取りに合わせて、俺の意識も移動する。
いや、“移動させられている”といったほうが正しい。
まるで彼女の後ろをついて歩くみたいに、俺の魂は繋ぎ止められたまま彼女の寮へ向かってしまっていた。
(おいおいおいおい……! マジでどうすんだこれ!? 解除すれば気配でバレる。しなければこのまま彼女の生活圏にまで……!)
もはや選択肢はどちらに転んでも地獄。
俺の「ギフトステップ=魂付与」が、史上最悪の形で牙を剥こうとしていた。