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9.煩悩ウーマン

 出先での合同デバッグを終えた第一ソフト開発課の面々は、定時過ぎになってぞろぞろとオフィスに引き返してきた。


「いやぁ~、めっちゃ緊張しましたねぇ~」


 自デスクに辿り着いたところで、泰治が漸くひと息ついたとばかりに椅子に腰を下ろしながら、大きな吐息を漏らした。


「皆、ご苦労様。今日はもう帰ってゆっくり休んでね」


 瑠遊も若干疲れた色を滲ませつつも、穏やかな笑顔でチームメンバーを労った。


「いやでも、笠貫さんって本当に準備良いですよね。今日は流石に驚きました」


 とは、チーム最年長の倉岡勇喜雄(くらおかゆきお)

 この日、客先のデバッグ環境でこの勇喜雄と莉奈が、衣服を引っ掛けてボタンがちぎれるということが相次いだ。

 そこで厳輔が、何故か持参していた裁縫セットを取り出し、ふたりのボタンをその場で付け直してしまったのである。

 瑠遊や莉奈も出勤用のビジネスバッグには裁縫セットを忍ばせてあるが、厳輔の様に現場へ持ち出す鞄にまでは流石に用意していなかった。


「ホント、笠貫さんボタンの付け方、上手過ぎですよ。あたしがやったら、もっと汚くなっちゃう」


 莉奈がブラウスの袖口をじぃっと眺めてから、厳輔に視線を流した。

 そしてとことこと変なリズムで厳輔のデスクへと歩を寄せ、ぺこりと頭を下げた。


「今日は、どうもありがとうございました! あたしも今度から裁縫セット、持ち歩く様にしますね!」

「あぁ、お気になさらず。まぁあそこのデバッグ環境も大概ですけどね」


 厳輔は相変わらず、にこりともせずに抑揚の無い声で静かに答えた。

 すると勇喜雄が、尚も厳輔のオールマイティぶりに感心する声を続けた。


「笠貫さんって他にどんなことが出来るんです? 家事全般は勿論おひとりで?」


 そんな勇喜雄の問いかけに、厳輔は余り気乗りしない様子で、えぇまぁ、と短く応じた。

 しかし瑠遊は実際、厳輔の自宅マンションを訪れたことがあるから知っている。

 彼はひとり暮らしである上に、料理の腕を始めとする諸々の家事全般は並みの主婦以上の腕前だ。もし彼が結婚したら、妻となる女性は相当に助かるのではないだろうか。

 そんなことを考えながら作業用PCに電源を入れて、今日の最終結果の取りまとめにかかった。

 明日の午前中には報告書を提出しなければならないから、彼女にとっては今日の作業はまだ終わっていないことになる。


「それじゃあ、お先に失礼します」


 勇喜雄が退出してゆくと、その後に泰治や莉奈も続いた。

 ところが厳輔だけは瑠遊と同じ様にPCを立ち上げ、まだ何かの作業を続けようとしていた。


「笠貫さん、まだお帰りになられないんですか?」

「はい。ちょっと気になることがあったんで」


 一体何だろう――瑠遊は内心で小首を傾げながらも、まずは明日の報告書だと頭を切り替えて自らの作業に着手した。

 それから結構な時間が経ち、瑠遊は自分でも納得がゆくレベルでの資料を完成させた。これなら課長承認も一発OKが出るだろう。

 と、ここでふとオフィスの一角に視線を走らせて、驚きのひと声を小さく発した。

 厳輔がまだ居残って、自デスクでディスプレイをじっと凝視していたのである。

 流石にちょっと気になった瑠遊は、自身のPCをシャットダウンしてから厳輔の傍らへと歩を寄せた。


「笠貫さん、まだいらっしゃったんですね」

「主任、これ、どう思われますか?」


 厳輔はモニター上に並ぶ幾つものログデータのうち、その二か所を太い指先で軽く叩いた。


「え? これって……」

「ハートビートです。他所のモジュールで、しかもリセット抑制かかってたから誰も気付かんかったみたいですが、これ恐らく、どっかで無限ループに入ってますよ」


 恐らく、システムログと突き合わせてどのプロセスが吐き出したログなのかを調べれば原因箇所を突き止めることは出来るだろうが、流石にそこまでの情報は貰えていない。

 だからこれ以上の追跡は不可能だが、客先に報告して別途調査して貰った方が良いという。


「これは確かに、拙いですね……今はまだTPだから事無きを得てますけど、もしこのまま正式版としてリリースされて運用に入ったら……」


 瑠遊はごくりと息を呑んだ。

 その傍らで厳輔は手早くログの問題箇所と考えられる原因を列記し、ひとつのファイルとしてまとめて瑠遊のアドレスに転送した。


「先方の連絡先は主任しかご存じないので、明日にでも送っておいて下さい。これを見てどう判断するかは、後は向こうの責任です」


 そうして厳輔は全てのソフトを落とし、PCをシャットダウンした。

 その間、瑠遊は未だ驚きと興奮が冷めやらぬ気分で厳輔の精悍な横顔をじっと見つめていた。


「それにしても……よく、気付きましたね」

「ただ心配性なだけですよ」


 厳輔は然程の感慨も漂わせず、のっそりと立ち上がって通勤鞄を提げた。

 と、ここで瑠遊は何故か慌てた。このまま厳輔を帰してしまうのが、物凄く勿体無い様に思えてならなかったのである。


「あ、あの笠貫さん。もし良かったら、帰りにどこかでご飯、食べて帰りませんか?」

「主任がそれで良ければ、お供しますよ」


 それで良ければとはつまり、俺なんかが一緒で良ければ、という意味合いだろう。

 瑠遊は勿論、と自分でも思いがけない程に勢い良く頷いた。


(あ、でも今度、歓迎会やるんだっけ……)


 ふとそんなことを思い出した瑠遊だったが、もう誘ってしまった後だ。仕事を終えた部下と帰り際に食事に行く程度なら、誰も文句はいわないだろう。


「じゃ、行きましょ。今夜は何食べよっかなぁ……笠貫さんは何が良いです?」

「お任せしますよ。主任のお好きなところ選んで下さい」


 などと言葉を交わしながら、連れ立ってオフィスを出たふたり。

 この時瑠遊は、


(あぁ~……腕とか組めたら良いのになぁ……)


 と、ひとり内心で悶々としていた。

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