8.祈りたいウーマン
ここ数日、瑠遊はやけに周囲の空気がそわそわしていることに気付いた。
原因は恐らく、祐一のことだろう。
(あたしと祐一が付き合ってたの、知ってるひと結構沢山居たからなぁ……)
株式会社カネツークリエイティブでは社内恋愛は禁止していないものの、同部署内では余り良い目では見られない。逆にいえば、部署が違えば然程にどうこういわれることはない。
但し今回は、場合が場合だった。
祐一が浮気をして、ラブホテルに同部署の女子社員を連れ込んだ。
それだけでも嫌悪される事態であるのに、その女子社員が取引先某社の社長の息子と婚約しており、結納までをも済ませていた仲だというから、事が非常に大きくなってしまった。
祐一は専務から相当厳しい処分を下された上に、社内に於いても、平気で浮気するクズ野郎という見方が定着してしまった。
勿論、瑠遊との二年に亘る恋人としての関係も解消された。
そしてつい先日、祐一は依願退職という形で会社を去っていったのだが、事実上の懲戒解雇だった。
それからというもの、一部の社員らは瑠遊に対して恐ろしく気を遣い始めた。
ふたりの関係を知っていた社員の全員が、あんな最低の男と別れることが出来て良かったと祝福してくれる一方で、失恋であることには違いが無い為、まるで腫物を扱う様な態度で接し始めたのである。
例外は瑠遊のチームメンバーだけで、彼ら彼女らは瑠遊がもう綺麗さっぱりと気分的にも清算したことを理解してくれている様子で、必要以上に気を遣う様なことはしなくなっていた。
(ま……あたしもひとを見る目が無さ過ぎたのが悪かったんだけどね……)
最近では、そんな風に余裕を持って自らを振り返ることも出来る様になっていた。
流石に二年間もの時間をあんな男の為に費やしてしまったのは痛いといえば痛いのだが、これもまた経験だと思えば、全くの無駄だったという程でもない。
(それに……)
瑠遊は拡張用ディスプレイの隙間から、少し離れた位置でデバッグ作業に従事している巨漢の精悍な横顔をちらりと盗み見た。
厳輔は今日も今日とて、しかめっ面だ。
あのイケメンがほんの少しでも気を緩めて笑顔を見せてくれようものなら、社内の女子の多くが彼に猛烈アタックを仕掛けるんじゃないかと思える程の素晴らしい顔立ちなのだが、兎に角あの眉間に皺を寄せる強面が余りにインパクトが強過ぎた。
しかし瑠遊は、あの渋面は作った表情に過ぎないことを知っている。
祐一の浮気現場を目撃して自暴自棄になっていたあの夜、厳輔は余り表情を変えなかったものの、心の底から癒される程の優しさを見せてくれた。
あんな姿を見せられたら、惚れてしまわない方がおかしい。
(あ、ダメダメ、何考えてるの……あ、あたしは上司なんだから……部下にそんな、こっちの想いを勝手に押し付けるなんて、そんなこと……)
思わず内心で大きく首を振る瑠遊。
とはいえ、矢張りあの夜に見せてくれた思い遣りの数々は、今でも忘れることが出来ない。
祐一からの裏切りは確かに彼女の心をずたずたに引き裂いたが、同時に厳輔の本当の姿の一端を知る切っ掛けにもなったことを思えば、全てが全て悪いことばかりでも無かった。
少なくとも今では、そう思える様になってきていた。
(それにしても、笠貫さんって……付き合ってるひと、居ないのかしら?)
恐らく、居ないとは思う。でなければ、会社の上司であるという接点しか持たない異性を、簡単に自室へと招き入れることなどしないだろう。
それにあの夜、瑠遊が厳輔の自宅室内を見た限りでは女性の気配は微塵にも感じられなかった。
全てが良い意味で男臭く、女性の存在を思わせるものは何ひとつ置かれていなかった様に思う。しかも厳輔本人が、自宅にコンドームは置いていないと明言していた。
嘘か本当かは分からないが、仮に事実だとすれば、女性を連れ込むこと自体が滅多に無いということになるだろう。
(笠貫さん……ホント、謎の多いひとだなぁ)
と、そこまで思いかけてすぐにまた、頭をぶんぶんと振った。今は仕事中なのだ。部下のひとりを異性だと意識して集中を乱すのは、チームリーダーとして宜しくない。
(あぁもう、何やってんのよあたし……集中集中!)
そうしてやっと、目の前の作業に意識を向けた瑠遊。
ところが、そんな彼女の決意を嘲笑うかの様に、莉奈がチェック資料を手にして瑠遊のデスクに近づいてきて思わぬひと言を放った。
「これチェックお願いしますー……あー、ところで主任! 笠貫さんの歓迎会って、まだやってなかったですよね?」
業務の隙間にいきなりそんな台詞を割り込ませてきた莉奈。
瑠遊は飲みかけていたペットボトルのお茶を危うく噴き出しそうになった。
しかしここで変にキョドっては要らぬ注目を集めてしまう。何とか平静を装いつつ乾いた笑いを返した。
「あ? あ、あぁそういえば、まだだったかしら。そもそも飲み会自体しばらくやってなかったし、笠貫さんの歓迎会も兼ねて一度どこかでやっておきたいわね」
などと必死に誤魔化しながら、その場を何とか繕った瑠遊。
心臓がどきどきしているのがバレやしないかと、気が気ではなかった。
「あー、それなら俺、適当に店探しときますよー。いつにします?」
そこにいきなり、泰治が手を挙げて遠くの席から割り込んできた。こういう話題には恐ろしく反応が良い若手だ。一体あの地獄耳はどこで養ったのだろう。
「そうね……笠貫さんにいつが良いか、希望日とか訊いといて貰える?」
「はぁ~い。お任せ下さーい」
やけに元気な声でにこにこ笑いながら、莉奈は自デスクへと戻っていった。
他のチームメンバーも、久々に酒宴の席だと嬉しそうに顔を見合わせていた。
ところが当の厳輔は聞こえていなかったのか、或いは聞こえていても無視を決め込んでいるのか、全く興味が無さそうな雰囲気でひたすらに作業に没頭している様子だった。
(飲み会とか、別に、嫌じゃ、ないよね……?)
彼は確か、安物の缶ビールをごくごく飲んでいた筈だ。であれば、アルコール自体が嫌いな訳ではなさそうだが、問題は飲み会という席を好むかどうかであろう。
こればかりは訊いてみなければ分からない。
(藤崎さん……上手くやってね……!)
どういう訳か瑠遊は半ば祈る様な気持ちで、機嫌良さそうに厳輔のデスクへと歩を寄せてゆく莉奈をじっと見つめていた。