6.すっとぼけるマン
翌週、月曜日。
瑠遊はこの日最大のイベントであるクライアント先へのプレゼンを無事に終え、やっと緊張の糸をほぐすことが出来た。
インターネット経由で会議アプリを駆使したプレゼンは、瑠遊の明瞭で的確な説明と、チームメンバーに依る効果的なサポートのお陰で滞りなく進み、クライアント先も十分に満足した上で最後まで駆け抜けることが出来た。
十分な手応えがある。
これはきっと次の受注に繋がるだろう。
大きな達成感を得た瑠遊は、ひとつの山を乗り越えた様な気がした。
先週末、彼女は確かに祐一の裏切り――他の女とラブホテルにしけこむ現場を目にしてしまい、精神的に酷い苦痛を浴びてしまったものの、それも今では相当に和らいでいた。
チームメンバーであり部下でもある厳輔からの気遣いと慰め、そして今日の大成功。
これらが積み重なり、祐一との間に生じた溝や悲しみが、自分の中で少しずつ小さなものになりつつあるのが実感出来た。
ところが、そんな瑠遊の立ち直りに水を差す事態が生じた。
プレゼンを終えて、オフィスの一角に設置されている休憩エリアにひとりで足を運んだ瑠遊に、背後から露骨に苛立った声が投げかけられてきた。
祐一だった。
「おい、ちょっと良いか」
その表情には明らかに、怒りの念が滲んでいる。
瑠遊は心臓が高鳴ると同時に、凄まじい程の嫌悪感を覚えた。
何故この男に、こんな眼差しを向けられなければならないのか。寧ろ瑠遊の方こそ、彼を問い詰める権利があるのではないのか。
しかし祐一は瑠遊の想いをまるで無視するかの如く、猛然と詰め寄ってきた。
「お前、何で週末、俺に連絡寄越さなかったんだ? いや、んなこたぁどうでも良いか……それよりお前、俺にいうことは無いのか?」
祐一は今にもキレて怒鳴りつけそうな勢いだった。
実際これまで彼は、少しでも気に入らないことがあると、何かと瑠遊を怒鳴りつけてきた。そんなことは日常茶飯事だったが、瑠遊は毎回自分が悪いのだと己を戒め、いつでも祐一に頭を下げてきた。
しかし、今回は違う。明らかに祐一にも非がある。なのに何故ここまで責められなければならないのか。
瑠遊は祐一と付き合い始めてから、彼に対して腹を立てるということはほとんど無かったのだが、今回ばかりはどうにも抑えがたい程の怒りの念が込み上げてきていた。
「いうことって、何? はっきりいってよ」
「は? お前、自分が何したか分かってんのか? お前先週……俺の知らない男の部屋に行ってただろう?」
この時、瑠遊はごくりと息を呑んだ。
何故祐一がそのことを知っているのか。だが、それを知ったとして、祐一に瑠遊を責める資格があるのか。
一体この男はどういうつもりで、こんなにも偉そうに上から目線で責めてくるのだろうか。
そして瑠遊は、同時に思った。
どうして自分は今まで、こんな男に一途に尽くしてきたのだろうか、と。
もう何もかもが馬鹿馬鹿しく思えてきた。これまでの二年間、あんなに楽しいと思っていた日々は何だったのだろうか、と。
「一体、何を、いってるの……?」
「はぁ? お前、しらばっくれる気か? いっとくがな、俺の同僚が見てたんだよ。お前が、他所の男のマンションにのこのこついて行くところをな!」
瑠遊は信じられない思いだった。
先週までは確かに恋人だった筈のこの男は、その同じ日に、別の女をラブホテルに連れ込んでいたのだ。なのにどうして、目の前の男はここまで一方的に瑠遊を責めることが出来るのか。
一体どんな思いであの日、瑠遊は己の悲しみに耐えようとしていたのか。そんな気持ちを、二年間恋人として傍にあり続けた筈の男がどうして、踏みにじることが出来るのか。
瑠遊は、涙が溢れてきてしまった。
何故自分は、この男の本性を今まで見抜けなかったのか。どうしてあんなに、馬鹿の様に尽くしてきてしまったのか。
悔しさと怒りが募ってきた。それは祐一に対してというよりも、己の愚かさに対するものだったのかも知れない。
「はっ……泣いて詫びようってか? いっとくがな、俺が受けた心の傷はそんなもんじゃ……」
と、そこまで祐一がいいかけた時だった。
不意にふたりの横合いから、渋みのある野太い声が飛んできた。
「あぁ主任。こちらでしたか。お話が済みましたら、小会議室の方にお越し頂いて宜しいですか?」
厳輔だった。
彼は素知らぬ風で、そしてふたりのやり取りに何の興味も無いといった調子で、それでいて妙に迫力のある佇まいで休憩エリアの出入り口に陣取っていた。
思わぬ邪魔者の登場に狼狽えたのか、ここで祐一はバツが悪そうな顔つきでそそくさと逃げる様に姿を消そうとした。
しかし厳輔は、あぁそういえばと急に何かを思い出した様子でタブレットを取り出し、何かの動画を再生し始めた。
「えぇと、営業課の杉坂さんでしたっけ……何か、ヤバいことになってますよ。この動画、もう御覧になられました? あっちこっちに出回ってて、エラい騒ぎになってますよ」
その瞬間、祐一は愕然とした顔で厳輔が提示するタブレットの画面を凝視した。
そこには、彼ともうひとりの女性が、ラブホテルに入ってゆく様が映し出されていたのである。瑠遊も、まさかの思いで同じ様にこの動画を凝視した。
「こちらの女性……確か同じ営業課の宮永聡子さん、でしたかね。またエラいひとに手ぇ出してしまいましたなぁ」
曰く、この宮永聡子なる女子社員は取引先某社の社長の息子と婚約しているらしく、既に結納まで済ませているとの由。
厳輔がその旨を説明すると、祐一はそんな馬鹿なと半ば絶叫する様な勢いで大きくかぶりを振った。
「いや、俺、そんなこと、知らない……聞いてないって!」
「まぁ杉坂さんご本人が知ってる知らないは、どうでも良いでしょう。今大事なのは、近いうちに上からお呼びが……」
などと厳輔がそこまでいいかけた時、更に別の人物が現れた。
人事部の部長だった。
「杉坂君、来たまえ。専務がお呼びだ」
人事部長の面には静かな怒りの念が張り付いている。
もうこれは、間違い無い。
祐一が絶対に手を出してはならない女性に手を出した事実が、会社の上の方にまで知られてしまったのだ。そのことへの鉄槌が今まさに、下されようとしているのだろう。
こうして祐一は人事部長と、その他数名のお偉方に伴われる格好で休憩エリアを出ていった。
一方で瑠遊は、或る事実を思い出していた。
「笠貫さん……さっきの動画って何だか、その、防犯カメラの映像っぽくなかったですか?」
先週末の土曜の朝、厳輔は祐一の浮気現場であるラブホテル周辺に、防犯カメラが増設されていた事実を何故か知っていた。
その事実と、先程の動画――このふたつが、瑠遊の頭の中で完璧な形で繋がっていた。
「さぁ? 誰がどうやって撮影したのかまでは、俺にも分かりません」
厳輔は相変わらずの不機嫌そうな能面ではあったが、その口元はうっすらと笑みの様な形に歪んでいる様にも思えた。