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5.和食提供マン

 もうすっかり目が冴えてしまった瑠遊は、一旦落ち着こうと思い、洗面室で顔を洗おうと考えた。

 ひょっとすると、厳輔はもう寝ているかも知れない。であれば、余り大きな音を立てるのは迷惑だろうから、なるべく静かに移動すべきだろう。

 瑠遊は極力扉の開閉や廊下を歩く際の足音に気を配りつつ、そろそろと洗面室を目指そうとした。

 が、途中でその足が止まった。

 リビングダイニングの方から声が聞こえてきたからだ。

 何故か強烈な好奇心に駆られた彼女は、息を潜めてそっと覗き込んでみた。するとそこに、スマートフォンで誰かと話している厳輔の大きな体があった。


「あぁ、いや、今日はやめとく。上司が泊まりに来てんねん」


 厳輔の声は随分とはっきりしている。結構な本数の缶ビールを飲んでいた筈だが、酔っている様な声音ではなかった。

 そういえば食事の後、彼は瑠遊に極上ともいえるマッサージを施してくれた。もうあの時点で彼の仲のアルコールは全部抜けてしまっていたのかも知れない。

 そんなことを思いながら、それでも瑠遊の耳は厳輔の声から離れることが出来なかった。


「はぁ? いやいや、んなもん出来る訳ないやろ。雨に濡れて体キンキンに冷えとったのに……そうでのうても彼氏の浮気現場なんて見てしもうて気ぃ滅入っとんのやで。おまけに酒も入って冷静な判断出来んようになっとんのに、そんな寝込み襲う様な真似出来るか」


 自分は弱っている女性の心の隙間を衝く様な真似はしない、と厳輔は若干苛立たしげな調子で、電話の向こうの相手に鋭くいい放っていた。


「まぁ俺なんかが手ぇ出さんでも、うちの上司はごっつい美人でな。スタイルもエエし、一旦このひとやと決めたらとことん尽くすタイプやろうな。そのうちまたエエ男捕まえるよって、俺がどうこういう必要なんてあらへんわ」


 厳輔にベタ褒めされ、瑠遊は顔から火が出る勢いで頬が上気するのが分かった。


(御免、和佳子……やっぱり笠貫さん、めっちゃ良いひとだった……)


 そして瑠遊は廊下の壁に背を押し当て、両掌で口元を覆った。

 涙が出そうになった。

 病気云々は単に、口実に過ぎなかったのだ。

 後になって瑠遊が後悔しない様に、厳輔は敢えて辛辣に突き放してきたのだろう。下手に優しい言葉で拒絶しようものなら、あの時の瑠遊はそれでも抱かれたいとしつこく迫ったかも知れない。

 しかし厳輔は、即物的で具体的な理論で拒絶した。それも、瑠遊が諦めざるを得ない程の真っ当な理論で。


(笠貫さん……もっと早く、出会いたかったなぁ……)


 どうして、人生とはこう上手くいかないものなのだろうか。

 瑠遊は内心で盛大な溜息を漏らしながら、洗面室へと足を運んだ。


◆ ◇ ◆


 翌朝になって、瑠遊は美味そうな匂いに釣られる格好でリビングダイニングへと顔を覗かせた。


「あ、お、おはよう、ございます」

「あぁ、おはようございます。体の調子はどないですか?」


 厳輔は瑠遊の顔を見るなり、自身の喉元に手を当てる仕草を示した。風邪はひいていないかと訊いているのだろう。

 瑠遊は二度三度、軽く咳払いしてみた。特に痛みも違和感も無い。これも全て、厳輔の手厚い措置ともてなしのお陰だろう。


「えっと、大丈夫です……それで、その、昨晩は本当に色々とご迷惑をおかけしました」

「ん? あぁ、そんなんはもう気にせんで下さい。それより飯出来たんで、お召し上がり下さい」


 厳輔はまるで何事も無かったかの様に、いつもの無感情な能面スタイルで瑠遊に朝食を勧めてきた。この日、彼が用意してくれたのはあっさりした和食系のメニューだった。

 鮭の切り身の塩焼き、味噌汁、海鮮サラダ等々。いずれも瑠遊が普段、朝から口にすることは無い献立だったのだが、素晴らしい程に食欲をそそる味付けで、白米が進む勢いが止まらなくなった。

 何となく実家で母親が用意してくれそうな品々と味付けだった。

 それにしても、と瑠遊は思う。

 家事全般に強く、高級タワーマンションに住む程の財力があり、しかも他人を思い遣る心まで持ち合わせている高身長のイケメンなマッチョダンディ。

 もうそれだけで世の女性が放っておかない要素満載だった。

 が、社内で見せるあの不機嫌そうな仏頂面が、いい寄ろうとする女性を片っ端から排除している様にも思えてしまう。もしかすると、あの不機嫌な態度は悪い虫が寄ってこない様にする為の演技なのだろうか。

 つい、そんなことを考えてしまった。

 そんな瑠遊に対し、厳輔は何かを思い出した様な顔つきで視線を向けてきた。


「あぁそうや……主任、食いながらで良いんで教えて下さい」

「え? あ、はい、何でしょう?」


 瑠遊は神妙な面持ちで問いかけてくる厳輔に、きょとんとした顔を返した。

「昨日の今日でこんなこと訊くのは心苦しいんですが、彼氏さんが浮気してた現場ってのは、具体的にはどの辺なのか覚えてますか?」

 何故、そんなことを訊いてくるのか――確かに疑問は湧いたが、しかし厳輔の人柄を鑑みるに、彼は単なる好奇心だけで問いただしてくる様な人物ではない。

 少なくとも瑠遊は、その様に理解している。ならばこの問いかけにも何か意味がある筈だ。

 ここはなるべく正確に答える必要があるだろう。

 瑠遊は必死に記憶を辿り、大体の位置を思い出して厳輔に伝えた。

 すると厳輔はわざわざタブレットを取り出し、インターネットの地図情報を画面に表示させて瑠遊の前に提示した。


「あ、そうです……大体、この辺です」


 しかし何故、そんなことを訊くのか。矢張りどうしても気になった瑠遊は逆に訊き返してみた。

 これに対し厳輔は、思わぬ返答を口にした。


「この辺って確か、ちょっと前にスリやらひったくりやらが増えて、防犯カメラがそこら中に増設されとったんですよ」


 一瞬瑠遊は、厳輔の言葉の意味が理解出来なかった。しかしこの時の厳輔は、随分と何かを考え込んでいる様子だった。

 何か、思い当たる節があるのだろうか。

 食事の手を止めてまで深く思考する厳輔の端正な顔立ちを、瑠遊はただただ不思議に思い、じっと見つめることしか出来なかった。

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