4.覆水盆に返らないウーマン
ベッドに潜り込んだ瑠遊だが、しかし中々寝付けなかった。
厳輔に拒否されたことに多少のショックを受けたことも事実だが、それ以上に矢張り、酔いが醒めてきたところで祐一の裏切りに心が掻き乱される思いが込み上げてきたのである。
誰かにこの想いを吐露したい。
そう考えた時、大学時代からの親友で、今は証券会社に勤めている飯伏和佳子に色々と話を聞いて貰おうと思った。
この時間なら、彼女はまだ起きている筈だ。
瑠遊はスマートフォンを手に取った。
「……はいもしもし。瑠遊? どしたん?」
「あ、和佳子、御免ね、こんな時間に」
瑠遊は和佳子の声を聞いた途端に、いおうと思っていた台詞が出てこなくなった。
心に受けた傷を余すところなくひとに話すというのは、これ程までに勇気が要ることなのか。
ところが和佳子は暫く声が出ないままとなってしまった瑠遊に、心配げな調子でひと言投げかけてきた。
「ねぇ、何かあった?」
以前から、この親友は何かと鋭い。
黙り込んでしまった瑠遊の困惑と悲しみを、即座に察知したのかも知れない。
彼女になら何でも話せる――瑠遊は自分から電話をかけておきながら何も話さないのは和佳子に対しても失礼だと己を戒め、幾らか気合を入れ直した。
「えっと、その、驚かないで、欲しいんだけど……」
瑠遊は祐一の浮気現場を目撃したこと、そして雨の中全身ずぶ濡れになっていたところを会社の部下に当たる人物に救われ、今はそのひとの部屋で夜を過ごしていることを全て正直に話した。
和佳子は電話回線の向こうで暫し、息を潜める様な調子で瑠遊の言葉に集中していた様だが、瑠遊がひと通りの説明を終えると、盛大な溜息を漏らしていた。
「はぁ……やっぱりあいつ、やらかしたか」
「え? やっぱりって?」
和佳子からの思わぬ反応に、寧ろ瑠遊の方が驚き慌ててしまった。やっぱりとは、どういうことなのか。
「ほら、最初にあんた、うちにあの男を紹介したことがあったじゃん。正直いうとね、うちあの時から、何か嫌~な予感してたんだよね」
曰く、瑠遊が祐一を和佳子に紹介した際、祐一は好色そうな目つきで和佳子をじろじろ無遠慮に見つめてきていたというのである。
普通、彼女の前で、その親友である女に対してそんな態度を取るだろうか。
その時点で和佳子は、この男はヤバいと思う様になっていたのだという。
「でもあんた、あいつにベタ惚れだったじゃん? だからうちも敢えて何もいわないでおこうって思ったんだけど……こんなことになるなら、最初にズバっといっておいてあげるべきだったかもね」
通話回線の向こうで、和佳子は後悔するかの様に何度も大きな吐息を漏らしていた。
一方、瑠遊は言葉を失っていた。
既に前兆は二年前から現れていたというのに、自分は何ひとつ気付けていなかったというのか。
何と馬鹿な、何と愚かな。恋は盲目といわれるが、まさに自分がその落とし穴に陥っていたというのか。
瑠遊は大好きな祐一の為に色々と尽くしてきた。彼がやりたいということには全て付き合って来たし、沢山お金を出してやったりもしてきた。
自分でやりたいことや時間を犠牲にしてきたし、自分に費やしたいお金を全部祐一に捧げたりもした。
それらは全て徒労だったというのだろうか。
「けどさ、ものは考えようだよ。二年もかかっちゃったけど、あいつの本性が知れたんだし、これであんたも目が覚めたんじゃない?」
「あ……うん、そ、そうね……」
瑠遊は自分が情けなかった。己のひとを見る目の無さが元凶のひとつとなっているのに、この夜、自分は一体何をしていたのだろう。
「あ、それでさ。その笠貫さんってひと、どんなひと? 瑠遊から見て、良いカンジのひと? っていうか、今そのひとの部屋に居るんでしょ? ってことはさぁ、その……」
「あ、違う違う。笠貫さんとは全然、そんな関係にはなってないから」
妙に期待する様な調子の和佳子に、瑠遊は苦笑交じりに慌てて否定した。そして先程、病気伝染の可能性を理由に拒絶されたことを冗談交じりに伝えると、和佳子は微妙な声音で、また違うトーンの溜息を漏らした。
「え、マジ? いやちょっと、そのひとも結構、アレだよね……オンナが勇気出してんのに、普通そんな断り方する? うちならキレちゃうかな」
「あははは……でも、色々お世話してくれたり、あたしに気を遣ってくれたりしてて、悪いひとじゃないのは間違いないと思う」
瑠遊は慌てて厳輔をフォローした。
対する和佳子は、残念だけど厳輔も余り期待出来ないかも、と辛辣な評価を下してきた。
「まぁでもさ……ちょっとは、すっきりした? 月曜からまた修羅場迎えることになるかもだけど、兎に角今はゆっくり休みなよ。人間、何するにも体力は必要なんだしさ」
「あ、うん、そうだね……今日は、ありがと。あたしの愚痴とか色々、聞いてくれて」
和佳子は気にするなと豪快に笑いながら、回線を切った。
一方、瑠遊はほっとひと息入れた。先程までと比べると、随分心が軽くなった様な気がする。矢張り持つべきものは友か。
そんなことを考えながら、和佳子が厳輔の放言に、自分ならキレるといっていたことを思い出した。
が、ここで瑠遊はよくよく冷静になって己の発言を振り返り、そして一気に顔が青ざめてきた。
(え、ちょっと待って……あたしが笠貫さんを誘ったのって……アレってもしかして、パワハラ? セクハラになっちゃう?)
瑠遊は年下とはいえ、厳輔から見れば上司に当たる。そんな彼女が肉体関係を迫る、或いは仄めかす様な言動を見せるということは、コンプライアンスに当てはめればハラスメントに繋がる可能性があることに、今更ながら思い当たった。
(あー! ヤバいヤバいヤバい! あたし、やらかしちゃったかも!)
今度は急に顔が火照ってきた。恥ずかしさと焦りが同時に襲い掛かってきた。厳輔があんな辛辣な台詞で拒絶したのも、今なら分かる様な気がしてきた。
だが覆水盆に返らず、だ。口に出してしまったことは、今更取り消すことは出来ない。
これはもう、明日の朝一にでも謝罪しておかなければならないだろう。
瑠遊は頭を抱えながら、ベッドの中でひとり縮こまっていた。