3.女の誘いを拒絶するマン
ステーキ料理にワインを添えた豪華なディナーを終え、食後のコーヒーが供された。
サイフォンで上質の豆から淹れた一杯は素晴らしい程に香りが良く、ほっと落ち着ける時間を楽しむことが出来た。
(こんなデート、したこと無かったな……)
祐一との二年間、色々なところで色々な夕食を経験してきたが、今宵厳輔がプロデュースした最高のディナーはまるで次元が違った。
厳輔はもしかしたら、この夜の食事をそうとは考えていないかも知れない。しかし瑠遊の中ではもう立派なデートだった。
極上のジャグジーバスで冷え切った心身を癒し、その後に待ち受けていたステーキとワインは荒んでいた感情を落ち着かせてくれた。
オフィスではいつも眉間に皺を寄せている仏頂面の厳輔も、缶ビールを数本空けた今は心なしか表情が和らいでいる様に見える。
祐一の浮気の現場を見てしまい、何もかもがどうでも良くなる程のダメージを受けていた所為か、厳輔からのもてなしは瑠遊の胸の奥深くにまで心地良く響いていた。
もし万が一、この後ベッドに誘われたとしても、全く嫌な気分ではなかった。
ところがコーヒーを堪能し終えたところで、また予想外の展開が瑠遊を出迎えた。
カップをシンクに片付けた厳輔はテーブルで差し向かいに座り直し、毎度の渋い表情で瑠遊の顔を真正面から睨みつけてきた。
「ほな改めて訊きましょか……何であんなところでずぶ濡れになったまま、ぼーっとしてはったんですか?」
「あ、そ、そうですね……」
そうだった――そもそも厳輔が瑠遊を自室に呼び入れたのは、彼女が冷たい雨の中で濡れそぼっていたからだった。
瑠遊は先程までの浮かれた気分が一瞬で消え去り、何となく背筋が凍える様な緊張感を覚えた。
「えと、その、実は……」
もう駄目だ、これ以上隠し通すのはここまで優しくしてくれた厳輔に対し、余りにも失礼だ。
ここはもう素直に全て白状しよう。
瑠遊は漸く腹を括って、祐一と他の女性がラブホテルに消えてゆく現場を目撃してしまったことを告げた。
「その彼氏さんは、杉坂祐一さん……営業課の方でしたかね」
「あ、はい、そうです……」
瑠遊はまるで消え入るかの様な調子で、声のトーンを落とした。
これに対して厳輔は、やれやれとかぶりを振った。
「主任、歳お幾つでしたっけ?」
「はい? あ、えと、26、です」
すると厳輔は更に不機嫌そうにますます渋い顔になり、遂には丸太の様な豪腕を組んで低く唸った。
オフィスでの彼が復活した様な気がした。
「なら、少々キツいこというても宜しいですね……主任、さっきもいいましたけど、週明けには大事なプレゼンがあるんですよね。せやったら、精々自棄酒か女風程度で済ませるぐらいの判断はして貰わんと。恋に恋するJKやないんですから」
中々厳しい小言が降ってきた。
瑠遊は肩身が狭くなる思いでつい、顔を伏せた。が、どういう訳か決して嫌な気分ではなかった。
言葉は荒っぽいが、このひとは自分のことを心配してくれているんだと思うと、逆に少し嬉しい気持ちが湧いてきた。
少なくとも、祐一は今まで瑠遊のことを思い遣って説教してくれたことなど、ただの一度も無かった。
これは矢張り、年齢や経験の差なのだろうか。
確か厳輔は瑠遊よりも三つ年上、ということはまだ三十代手前ということになるのだが、それにしても二十代とは思えない程のどっしりした落ち着きぶりだった。
「それで喉とかに変な違和感ありませんか? 短時間とはいうても、結構体冷えてたでしょ」
「あ……えっと、今のところは、大丈夫、です」
瑠遊は喉元を軽く押さえてみたが、特に唾液や呼吸が引っかかる様な感触は無い。この調子なら恐らく、大丈夫だろう。
ところが厳輔は、念には念を入れときましょうとかぶりを振った。
「今日はもう遅いし、寒いんで泊まってって下さい。客室をご用意します」
「え……い、良いんですか」
と、ここで瑠遊は、はっとなって急にもじもじし始めた。独身男性の部屋に泊めて貰うということは、つまりそういう展開が待っているのだと解釈した。
しかし厳輔はこの時、何かに気付いた様子で瑠遊を真正面からじぃっと凝視してきた。
「主任、ちょっと立って貰えますか?」
一体何事だろうと内心で小首を捻りながら、瑠遊はゆっくり立ち上がった。余りにじろじろ見られている為、少し気恥ずかしくなってきてしまった。
そんな瑠遊に対して厳輔は、
「あー……これは宜しゅうないですね」
と自らも立ち上がって、別室に足を向けた。
「主任、お仕事頑張りはるのも結構ですが、ご自身のケアもちゃんとしとかんと」
この後厳輔は、客室にエアコンを入れて快適な温度に調整し、更にはリラックス効果のあるアロマを焚いて心地良い睡眠条件を整えてくれた。
が、寝るのはまだ早いといいながら、彼はベッド脇のフロアーにマッサージ用のマットを敷いた。
「うつ伏せんなって下さい。軽く施術します」
「笠貫さん……そんなことも出来るんですか?」
驚いて目を白黒させてしまった瑠遊に、厳輔は良いから早く寝転べと相変わらずの渋い表情。
瑠遊は大きな枕に頬を横たえる格好でうつ伏せになった。
この後、信じられない程の極上の快感が彼女の全身を優しく包み込んだ。
厳輔が疲労したマッサージは、プロの整体師かと思える程に的確で、柔らかく、そして心地良さを伴う軽い痛みで瑠遊の体をほぐしていった。
が、最後の最後でちょっとした地獄が待っていた。足つぼマッサージに取り掛かった厳輔だが、その激痛が中々容赦無かった。
「あ、あ、あ、あ……あいたたたたた……」
「もうちょいで終わりですから我慢して下さい……せやけど主任、筋肉から内臓から、もう全部ボロボロですがな。早死にしますよ」
呆れ返った厳輔の声。
だがそれすらも、瑠遊の心に沁み入った。ここまで自分のことを心配して色々してくれたのは、恐らく母親ぐらいだっただろう。
と思うと、ふと別の感慨が湧いてきた。
今の厳輔はまさに、お母さんだ。見た目はワイルドなイケメンマッチョだが、その世話の焼きっぷりは実家の母親然とし過ぎていた。
「はい、終了です。今日はもうこのまま、ゆっくり休んで下さい。喉渇いたら、そこのちっこい冷蔵庫に色々入ってますんで適当に飲んで貰って良いですよ。ほな、お休みなさい」
それだけいい残して客室を出て行こうとした厳輔。
すると瑠遊は、思わず反射的立ち上がって呼び止めてしまった。
何事かと不思議そうに首を傾げている厳輔に、瑠遊は耳元まで真っ赤になるのを自覚しながら、それでも何とか小声で搾り出した。
「あ、あの……もし、笠貫さんがお望みなら……その……今夜、あたしと……」
「え? いや、何いうてはるんですか。しませんよ、俺は」
厳輔は心外だとばかりに、再びあの渋い顔を向けてきた。
「そもそもゴムなんて置いてませんし、変な病気うつされたら困ります」
「は? え?」
まさかの返答に戸惑う瑠遊。しかし厳輔はまるで容赦無かった。
「そんな浮気する様な彼氏さんと、お付き合いしてはるんでしょ? そんなひと、他所でどんな女とヤりまくってんのか知れたもんやおまへん。そんなひとと主任がヤってるってことはですよ。主任も何気に病気持ちの可能性あるってことやないですか。んなひととゴム無しで出来まっかいな。ほな、お休みなさい」
凄まじく辛辣な台詞を残して厳輔は室を辞していった。
瑠遊は返す言葉も無く、ただ乾いた笑いだけを漏らしてしばし立ち尽くすしか無かった。