2.安物缶ビール愛飲マン
厳輔の自宅は都心の超高層タワーマンションの、最上階だった。
(え……何ナニ、ここ、すっごい夜景が綺麗……)
会社の社長クラスでなければ到底住めないのではと思える程の、物凄い物件だった。
何故まだ20代の中途採用社員が、こんな豪勢な一室に居を構えることが出来るのか。瑠遊にはもう全く理解が及ばなかった。
しかし、玄関扉を入る直前に見た表札プレートには間違い無く、笠貫厳輔の名が刻み込まれていた。
ということは矢張り、ここは彼の自宅なのだ。
そして室内は、その外観の高級感に更に輪をかけた様に広く、豪奢だった。
ウォークインクローゼットなんかが普通に現れ、アイランド式キッチンや50畳近い広さのリビングダイニングなど、もう何もかもが規格外だった。
「さっさと風呂入って、体温めてきて下さい。ボディソープとかシャンプー、リンスはそれなりにエエもん使うてますけど、気に入らんかったら無理に使わんでもエエですよ」
「あ、えぇと、はい……あ、ありがとう、ございます……」
訳も分からないまま、瑠遊は恐ろしく広いバスルームへと案内された。
脱衣所だけでも洋室ひと部屋分ぐらいあるのではないかと思える程の広さがあり、逆に落ち着かない気分だった。
そしていざバスルームに足を踏み入れると、まさかのジャグジーバスが待ち構えていた。
(うっそ……マジ?)
声にならない声で驚きの呻きを漏らしながら、兎に角も冷え切った体を温めさせて貰うことにした。
(あぁ……何か前に、祐一とこんな豪華なホテルに泊まってみたいよね、って話してたっけ)
ふとそんなことを思い出した。
あの浮気さえなければ、いつかはどこかで実現出来ただろうか。
だが今、その憧れを失恋直後に味わうという皮肉な形で、現実のものとして経験している。
人生何がどう転ぶのか分からないなどと、ジャグジーの心地良い泡の衝撃を全身に浴びながら、窓の外に広がる夜の絶景を眺めていた瑠遊。
つい先程まで、あんなにも絶望に瀕していた自身の心が、妙に癒されてゆくのを感じた。
と、ここでふと、我に返った。
よくよく考えれば、瑠遊は今、独身男性の部屋に何の抵抗も無く、すっと足を踏み入れてしまっている。しかも当たり前の様にバスルームを借りて、完全に身も心も裸の状態だ。
失恋で受けた傷心を慰めるという体でベッドに誘われたら、もうそのまま何もいわずに身を委ねてしまうんじゃないかとも思えた。
しかし――何だかもう、どうでも良くなってきた。
祐一から地獄の様な裏切りを受け、そして今、超セレブなタワーマンションの最上階で、極上のイケメンに誘われて、傷ついた心を癒している。
もし厳輔が抱きたいと求めてきたら、応じても良いという気分にさえなり始めていた。
あんなに逞しく、頑健な体のオトコに抱かれるなら、それならそれで良いという気分だった。表情はいつもしかめっ面で険しい顔つきだが、彼は間違い無く最高レベルのイケメンだ。
拒絶すべき要素など、何ひとつ無かった。
そんなことを考えていると、急に体が火照ってくる様な気分だった。
これはただ単にジャグジーバスで体を温めているから、というだけの理由でも無さそうだった。
やがてシャワーで全身を清め、全てがすっきりしたところでドライヤーで髪を乾かし、用意されてあった柔らかい高級バスローブに白い裸体を包み込んだ。
そしてリビングダイニングに戻ると、素晴らしい程の香ばしい匂いが瑠遊の鼻腔を刺激した。
「あ、主任。服は今、洗ってます。乾燥機とアイロンで仕上げますんで、月曜には普通に来ていけますよ」
「どうも、ありがとう、ございます……ところで、その、凄く良い匂いですね」
おずおずとアイランド式キッチンを覗き込むと、厳輔はふたり分のプレートを並べて、そこに美味そうなステーキ料理を盛りつけている最中だった。
「主任、腹減ってるでしょ。さっき帰り際、めっちゃ腹の虫鳴ってましたもんね」
「あ、う……そ、そんな恥ずかしいの、聞かれちゃってたんですね……」
またもや恥ずかし過ぎて顔が真っ赤になってしまった瑠遊だが、厳輔は全く気にする素振りも無く、凄まじい速さで手際良くディナーの準備を進めていった。
「シャトーブリアンとまではいきませんけど、まぁまぁエエ肉使うてます。お口に合えば良いんですけどね」
「え、合う合う。絶対合うに決まってます。あたし、こんな分厚いステーキ、食べたことありませんし」
そんなことをいっているうちに、厳輔はスタイリッシュなデザインのスチール製テーブルに、ふたり分のディナーセットを並べ終えた。
「ワインかビール、何か飲みます?」
「あ、じゃあワインを頂きます」
すると厳輔はワイナリーから、一本の高級そうなワインを取り出した。その銘柄を見て、瑠遊はあっと声を漏らした。
「あ、それボジョレー……」
「今年のはまぁまぁ出来がエエみたいですよ」
などといいながら、厳輔は慣れた手つきでグラスに注いでゆく。一方、彼は自分のドリンクとして何故か安物の缶ビールを持ち出していた。
「あ、シャリ欲しかったら自分で適当にお願いします。そこのジャーでさっき炊いときましたんで」
そんなことをいいながら、厳輔はがつがつと肉を食い始めた。合間に缶ビールをぐいっとひと息。
瑠遊はその余りの色気の無さに、変に笑いが込み上げてきてしまった。
「あれ、お口に合いません?」
「あ、いえ、違うんです。何っていうか、笠貫さんって不思議なひとだなぁって……」
その瞬間、厳輔は僅かに苦笑を滲ませた。
「そういう表現って大体、悪口を上手くいい替えてるだけなんですよね」
「あ、ち、違います。えっと、そういうことじゃなくて」
半分図星だった為、大いに慌てた瑠遊。
しかし、厳輔は気にするなとからりと笑いながら、尚もがつがつと豪快に肉を喰らい、安物のビールをぐいぐい飲み続けた。
女性を連れ込み、最高の料理とワインで良い雰囲気を作りながら、艶やかな言葉を紡いで口説く――そんな場面を想像していただけに、瑠遊は厳輔の何の下心も見えない姿にひたすら可笑しさだけを感じていた。