11.シメはラーメンに限るマン
憲太に連れられて足を運んだ先は、やや薄暗い店内でピアノの生演奏を楽しむことが出来る、雰囲気の良いバーだった。
元々の業態はジャズバーで、腕に覚えのあるアマチュアミュージシャンが集まれば即興でジャズセッションが開かれることもあるらしく、その迫力の演奏を求めて足繁く通うファンも少なくないのだという。
「へぇ……何だか、良いカンジのお店ですね」
「だろ? 俺もそうしょっちゅうって訳じゃないけど、ちょくちょく顔出させて貰ってるんだ」
肩を並べてカウンターのストゥールに腰を下ろす。
憲太は少し強めのマティーニを、そして瑠遊はカルーアミルクをオーダー。
年配のマスターはふたりの為に手早くふたつのカクテルを仕上げ、同時に手元へ並べてくれた。
「それじゃ……久々のふたりの時間に」
妙に意味深な台詞で笑みを湛えながらグラスを掲げた憲太。
何となく胸の奥がざわついた瑠遊だったが、折角お洒落なバーに誘ってくれたのだし、ここは敢えて何もいわず、ただ笑顔でグラスを掲げ返すだけにとどめた。
この時、ピアニストは甘いムードのバラードを奏でている。心地良い音色が、瑠遊の僅かに残った警戒心を全て溶かしてしまいそうな響きを漂わせていた。
「なぁ瑠遊……今夜はずっとお前と一緒に居たいんだが、構わないか?」
「え? で、でも先輩、奥さんとお子さんが待ってらっしゃるんだし、今日はちゃんと帰った方が……」
瑠遊は幾分酔いが回っているものの、まだ理性は残っている。
如何にかつて憧れていた存在だといえども、流石に妻子持ちの男性と夜を過ごすのは拙い。そもそも瑠遊には不倫願望など欠片も無かった。
それなのに、憲太は思いもよらぬ勢いで瑠遊を誘ってくる。
こんなひとだとは思わなかった――瑠遊は憲太から視線を外し、手元のグラスをじっと見つめた。
と、ここでピアノの演奏が途切れた。
演者は疲れたのか、休憩がてらにカウンターへと歩を寄せてくる気配が感じられた。
マスターが黒ビールを注いだグラスを差し出しながら、穏やかに微笑んだ。
「いやぁ、厳さん……今日もうっとりする様な良い調べだったねぇ」
「最近あんま来れてませんでしたからね……また皆さん揃った時にでもセッションやりましょか」
その瞬間、瑠遊は全身を雷にでも撃たれたかの様な衝撃を受けつつ、物凄い勢いでその方角に振り向いた。そして思わず喉の奥であっと叫んでしまった。
「え……か、笠貫さん?」
「あぁ主任、こんばんは。懇親会はもうお開きで、ここで二次会ですか」
間違い無く、厳輔だった。
今宵の彼は会社で見かける幾分ラフなスタイルではなく、黒いレザージャケットとレザーパンツで綺麗に纏め上げたシックな装いで、はだけた胸元から見える逞しい胸板が恐ろしくセクシーだった。
「瑠遊の知り合い?」
憲太が怪訝な表情で顔を寄せてきた。
瑠遊は、厳輔に拙いところを見られたという変な焦燥感を抱きつつ、乾いた笑みを憲太に返した。
「あ、ほら、さっきお話したうちの中途採用の方で、笠貫さん。何でも知ってて、どんな難しいバグでも速攻で解決して下さる物凄いスーパーマンです。最近の難しい案件を綺麗に片付けることが出来たのも、全部あのひとのお陰なんです」
微妙に早口になっている瑠遊。対する憲太は僅かな嫉妬心と、畏怖の念を微妙に混ぜ合わせた様な複雑な表情を厳輔に向けた。
しかし厳輔は瑠遊と憲太のカップルにはまるで興味が無いといわんばかりの様子で、ごくごくと黒ビールを堪能している。
「厳さん、あちらのおふた方とはお知り合いで?」
「あぁ、会社の上司と別部署の課長さんですわ。うちの会社、同部署でのうたら恋愛自由らしいんで、ま、そういうことちゃいますか」
厳輔の応えを聞いて、老齢のマスターは渋みのある端正な顔立ちに成程と苦笑を浮かべている。
が、瑠遊はとんでもないと内心で勢い良くかぶりをふっていた。
(ち、ち、ち、違うんです笠貫さん! あ、あああああ、あたし、今日はそんな、全然……第一先輩は既婚者だし、奥さんもお子さんも居るし……!)
出来れば声を大にしていいたかった瑠遊だが、憲太を前にしては流石に口には出せなかった。
ところがそんな瑠遊の焦りなど知ってか知らずか、憲太は妙に勝ち誇ったドヤ顔で厳輔に声をかけた。
「貴方が噂の超デキる男の笠貫さんですね。瑠遊からお話は聞いていました」
「第三ソフト課の今永課長さんですね。こんな場で何ですけど、どうぞ宜しゅう」
厳輔は半ばまで飲み干した黒ビールのグラスを軽く掲げて挨拶代わりとした様だ。対する憲太も、何故か妙な対抗心の様なものをちらつかせながら、同じくグラスを掲げて返礼。
その間で瑠遊は、もうどうすれば良いのかと頭の中がぐるぐる回ってしまう有様だった。
「さて……ぼちぼち帰りますわ。ちょっとシメにラーメンでも食いたい気分なんで」
いいながら厳輔はカードで支払いを済ませると、傍らに置いてあったギターケースを抱え上げた。
「そういえば今日は、従弟君にギターを教えてあげる日でしたか。しかし厳さんは本当にマルチな御方だ。ピアノにギターまで弾けるなんて、普通の社会人で中々そこまで出来るひとは居ませんよ」
「下手の横好きですわ……ほんなら、失礼します」
最後のひと言は瑠遊と憲太に向けられたものだった。
厳輔は軽い会釈だけを送り、素知らぬ顔で瑠遊の横を通り過ぎてゆく。
瑠遊は内心で、大いに焦った。ここで厳輔を追わなければ、全てが拙い方向に転がってゆくと思えてならなかった。
「あ、あの、先輩……あたしも失礼します。今日は、その、ありがとうございました!」
「え……いや、瑠遊、俺は……」
憲太の声が追い縋ってくるも、瑠遊はカクテル代だとして千円札をカウンターに置いて、そのまま逃げる様な勢いで店を飛び出した。
(か、笠貫さんは……)
そして大通りに出るや、ギターケースを背負った巨漢のイケメンを必死の思いで探した。
(あ……居た!)
黒衣の巨漢はのんびりとした足取りで歩道を歩いている。瑠遊は慌てて駆け寄っていった。
「あ、あの! 笠貫さん!」
「ん? 主任、こんなところで何やってはるんですか?」
厳輔は心底不思議そうな面持ちで振り返り、次いで瑠遊の背後に視線を走らせた。
「今永課長はどうされたんです? まさか、放ったらかし?」
しかし、そのまさかだった。
瑠遊は男女の仲を迫ろうとしていたに違いないかつての憧れの先輩を、あのジャズバーにひとりだけ残したまま厳輔の後を追ってきたのである。
しかし、後悔は無かった。
今は兎に角、厳輔と一緒に居たいという思いが瑠遊の中で強烈な程に自己主張していた。




