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1.雨中の仏頂面マン

 涙が、止まらない。

 降りしきる冷たい雨の中、若峰瑠遊(わかみねるう)は周囲から好奇の視線を浴びながら、ひとり夜の街を徘徊していた。

 ほんの十数分前、瑠遊は絶対に見たくなかった光景を目にしてしまった。

 二年間、共に愛を育んできた恋人の杉坂祐一(すぎさかゆういち)が、彼の同僚である女子社員とラブホテルに消えてゆく姿を目撃したのである。

 あんなに信じていたのに、どうして――瑠遊は脱力の余り、手にしていた傘を落としてしまったことにも気づかぬまま、その場から慌てて駆け出していた。

 どこをどう歩いたのか、それすらも覚えていない。

 ただ兎に角、あの場から離れたかった。少しでもあの記憶を消し去りたかった。

 しかし時が経てば絶つ程、祐一が突き付けてきた恐ろしい現実が生々しい記憶となって蘇ってくる。

 祐一と過ごした楽しい日々、彼の為に尽くしてきた毎日、愛するひとが喜ぶなら何だってやってきた努力の積み重ね。それらが全て、一瞬にして崩れ去った。

 何が悪かったのか。

 どこで間違えてしまったのか。

 頭の中で疑念と後悔と悲しさが渦を巻いて、もうまともな思考が出来なくなっていた。

 ただ兎に角、どこかへ消えたかった。全てを投げ出して、何もかもお仕舞いにしたかった。二度とこの街へは戻ってきたくないという衝動だけが、心の奥底から突き上げてきた。


(もう……どうなっても良いや……あたしなんて……)


 そんなことを思い始めて、ふと足が止まった。

 全身を打ち続けていた冷たい雨粒が、いつの間にか途絶えていた。

 否、正確には何かが上から覆い被さって、瑠遊の濡れそぼった冷たい体を涙雨から守ってくれていた。

 何だろうと思い、ふと視線を巡らせると――すぐ後ろに、分厚い胸板があった。そのまま、のろのろと目線を上に上げてゆくと、そこで動きが止まった。

 驚きと恥ずかしさが一気に込み上げてきた。


「あ……笠貫さん……?」


 つい一週間程前、瑠遊の勤め先である株式会社カネツークリエイティブに中途採用で入社してきた巨漢が、彼女の頭上に大きな傘を掲げて佇んでいた。

 その男の名は、笠貫厳輔(かさぬきげんすけ)

 190cmを超える頑健な体躯と、その鍛え抜かれた鋼の様な筋肉は、入社直後から社内で大いに噂となっていた。

 顔立ちも良く、多くの女子社員が心ときめかせるイケメンではあったが、ほとんどいつも眉間に皺を寄せている強面と、渋みのある低い声音で抑揚の無い喋り方をするところから、常に近寄り難い雰囲気を醸している人物だった。

 その厳輔が、全身ずぶ濡れの瑠遊の為に、背後から大きな傘を差しかけて、彼女を身も心も冷え切らせる酷薄な雨から守ってくれていたのである。

 厳輔は三つ年上だが、瑠遊と同じ第一ソフト開発課に配属され、主任である瑠遊と同じチームで基本設計からコーディングまでを受け持つ一般社員として働いている。

 つまり彼は瑠遊の部下であり、会社の序列でいえば後輩に当たる訳だ。

 その厳輔に、恥ずかしいところを見られてしまった。幾ら失恋直後の、精神的に打ちのめされた状態だったとはいえ、雨の中ろくに傘も差さず、周囲から奇異の目で見られながら徘徊しているところを助けられてしまったのである。

 瑠遊は顔から火が出る程の羞恥を覚えた。

 何といって弁明すれば良いのか、まるで頭が廻らなかった。

 そんな瑠遊に対し、厳輔はいつもの能面の如き無表情さで、相変わらず眉間に皺を寄せたまま低く問いかけてきた。


「主任、こんな街中で何のクールダウンですか? 幾ら何でも、それは拙いんとちゃいますか?」

「……え?」


 自分でも驚くぐらいに間抜けな声だった。それぐらい厳輔からの問いかけは完全に想定外、明後日の方向にすっ飛んでいきそうな内容だった。


「何ぼ金曜の夜やからいうて、ちょっと羽目外し過ぎでしょう。大体、そんなずぶ濡れで電車に乗ったら、他のお客さんの迷惑です。ご自宅はどこら辺ですか?」


 どうしてこんな雨の中、失恋直後だというのに、母親からされる様な説教を喰らっているのか、自分でもよく分からなかった。

 しかし厳輔の声には妙な迫力があり、有無をいわさぬプレッシャーの様なものが重く圧し掛かってくる。下手ないい訳は出来ない様な気がしてならなかった。


「タクなんか呼んでも、そんなずぶ濡れやったら絶対乗車拒否されますよ。何考えてはるんですか」

「あ、ご、御免なさい……っていうか、笠貫さん、大阪のひとだったの?」


 これまでは抑揚の無い声で、最小限の言葉を発するところしか見たことが無かった瑠遊。

 しかし今、厳輔が放っているのは間違い無く関西弁だった。それが妙に新鮮に思えてしまった。


「んなこたぁ、どうでも宜しい。主任、分かってます? 週明けはクライアント先でプレゼンですよ。今ここで風邪なんかひいてしもたら、どないリカバリーするんですか」


 あ、そうだった。

 瑠遊は思わずはっとした顔で再度、厳輔の端正な顔立ちを見上げた。

 確かに、ここで風邪なんか引いて体調を崩してしまったら、会社の、チームの皆に迷惑をかけてしまう。

 そんな瑠遊の反応に、厳輔は小さな溜息を漏らしながらやれやれとかぶりを振った。


「んで、ご自宅はどちらですか? 近いんですか? 歩いて帰れる距離ですか?」

「え、いえ、その、えっと……電車で、15分ぐらいの、ところです……」


 その瑠遊の応えを聞いて、厳輔は更に不機嫌そうな様子で鼻先に皺を寄せた。かなり、いや、相当怒っている様に思えてならなかった。


「それやったらもう、うち来て下さい。主任にはちょっと、色々ご自覚頂く必要があります」


 そういうや否や、厳輔は瑠遊の手を引いて歩き出した。

 彼が目指そうとしている先は、駅前に屹立している超高層タワーマンションだった。


(え……こんな良いとこに住んでるの?)


 瑠遊は思わず、愕然と見上げてしまった。

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