第一話 誘い
また死ぬ思いをさせられるのかという怒りと、わけもわからず誘われた怒り。
そのふたつの怒りが重なり合い、今にも爆発しそうだ。
ましてやぶつかってこられた人の命令など。
「なぜわたしなのですか」
「私はそなたがいい。ただそれだけだ」
「さっき会ったばかりですよね?」
「そうだな」
もううんざりだ。知らない人の言うことを聞くのは。
「もう帰ってください」
呉家は呉州を束ねる一族。
その長女がいなくなると、呉州でちょっとした問題が起こる。呉州の人にはもっと食べさせてやりたい。
なのに、食べさせることすら叶わなくなる。
でもここで承諾せねば街の人に迷惑をかけることになってしまう。それだけは避けたい、なんとしてでも。
「行きます」
「そうか、感謝する」
「その…詳しい理由をお聞かせ願いますか?」
鐘善はにっこりと頷き、理由を教えてくれる。
理由を聞き終わったあと、識夏はようやく納得できた。
少し長くなるがこの男は鐘州を束ねる父を補佐しており、本格的に父を支えたいと官吏を目指しているらしい。
この国には女はなくてはならないらしく、男装してでもなんとか女を行かせたいらしい。
願わくば、制度を変えてほしいとのこと。
そんな大切な役目を背負うとなると、責任が生じる。
自分の身が危うくなることは避けてきたが、この男の必死の様子に徐々に泣けていき、協力することにした。
今ではもう、前が見えないくらい泣いている。
「そんなに泣けるか?」
「はい…。あなまさまは今、必死に頑張っているのですね…。どうしましょう…涙が止まりません…」
「そんなにか」
「はい…」
さっきから同じことを何回も繰り返しているふたりだが、鐘善が茶器を置くと、ようやく本題に戻る。
「それで…想国九つの州があるのはもちろん知っているよな?」
「もちろん」
想国は九つの州で成っている。
北に位置する楚州、東北に位置する華州。東に位置する呉州、東南に位置する全州、南に位置する左州。西南に位置する趙州、西に位置する林州、西北に位置する賀州、北に位置する鐘州。
以上、四方八家。
宗家は全州を束ねている全家である。
「ならよかった。全州で蒼雲閣の入学試験が始まる。なので、鐘 黄善のフリをして入ってもらいたい」
鐘 黄善ー鐘善の弟だ。
なぜ自分を選んだのかは知らないが、とりあえず協力する。
何か得があるかもしれないので。
「かしこまりしました、鐘善さま。協力いたします」
「ありがとう」
鐘善が礼を言ってくれる。礼を言ってくれるのは嬉しいが、これからどうやって生活していこうか考えるので必死だった。
***
「なぜあの女にしたのですか。かしこくて礼儀が成っている者なら探せば誰でもいるはず」
家に帰ってからというもの、鐘善の護衛がこればかり聞いてくる。
鐘善の護衛は藜という男がしている。藜は昔から、鐘善を慕いし鐘家に来たという。
「誰でもいいわけなかろう。鐘家は今、存亡の聞きに陥っている。あのバカな男のせいで。だから蘇せるのだ。そなたが憧れた鐘家を。協力してくれ、藜」
「かしこまりましました」
藜は信頼できる護衛だ。
家でいるときも、そうでないときも必ず置いている。藜だけは自分で選んだ。自分の護衛をしてほしいと。
自分で選んだだけのことはあり、藜はきちんと護衛をしてくれている。
選んでよかったと思う。ー藜だけは。
「いつものことだ。そなたに迷惑をかける。…すまない」
言葉が足りぬせいか、他の者にはいつも誤解されてしまう。
「いいえ、迷惑など。若に信頼していただくほど、幸せなことはございませんよ。精いっぱいお手伝いいたします、若。大好きです!」
いきなり告白され戸惑うが、気持ちとしては嬉しい。
自分という情けない生きものを好きと言ってくれているのだから、それ相応の何かは返さなければならないと思った。
「あ、あの〜…雰囲気をぶっ壊すのかもしれませんが〜若に縁談が届いております。若に相応しい方だけを推薦しましたので、ご覧ください」
「またか…」
「はい、またです。若はモテますので」
「このどこがモテる」
「どこもかしこもです。なんなら、男も入っていますが見ますか?」
「ああ…っは?!男?!冗談だろ!」
「いえ、冗談では…」
と言い、藜は巻物を広げる。どうかしている。男が男に縁談を送るなど…
確かに自分は女らしい顔つきをしているが、どう考えても男だとひと目でわかる。
一般世間はどうなっているのか。
「おや?この人、美貌をお持ちでいらっしゃる。どこのご令嬢でしょう。若、ご存知ですか?」
絵というのは偽ることもできる。得に令嬢ならば相当の賄賂を送り、ありのままの自分より遥かに美しい自分に仕立ててもらうことも不可能ではない。こればかりは会ってみないとわからない。
「その女は…」
巻物に描かれていた女は、今日会った女性ー呉 識夏だ。
まさに天命。そう感じた鐘善であった。