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『アザンダ伯爵なんて言ってましたー?』
ソファに腰掛けのんびりしているのは魔法師団副団長デュオ。彼がいるのは現在怒号飛び交う魔法士団の中でも群を抜いて殺気立った団長イリアの執務室だった。
イリアは積み上がった報告書を捌きながらアザンダからの手紙を読んでいる最中。大変忙しい。
『まだ読み途中だから待ってて下さい』
『分かったー』と涼しい顔をしている彼はお茶を楽しんでいるが、色々なところに呼ばれたり行ったり来たりと忙しくしている。
先ほども国境付近から魔物討伐を終え帰ってきたばかり。同行した団員たちは疲れ切って倒れ込んでいるとイリアは報告を受けていた。
デュオの体はどうなっているのかと訝しんでいると、仕事をしろと睨まれたものと思ったらしく、彼は収納マントからごそごそと採れたてほやほやの素材を取り出した。
『今日の収穫これねー』
机に並べられたのは新鮮な魔物の角やら皮やら…見慣れた素材ばかりだが、通常のものより大きいうえに魔力の含有量も多い。
国境付近に現れる魔物は日増しに強く倒しにくくなっていてやっかいではあるが、武器や防具を作るための良い素材が取れていた。
素材の大きさから言って今日討伐した魔物もかなりの大物だったのだと分かる。本当になぜ彼は涼しい顔でここにいるのか、イリアの謎は深まるばかり。
『…あぁ、ご苦労様です。これは武器に使えそうね。こっちは…』
イリアは受け取った素材を鍛冶屋と魔法具開発の部署や職人に回すように指示を出し、王に渡す報告書を作成する。
何枚も書類を書きながら、口頭で指示を出す彼女の手はインクで黒くなっていた。
いつもはすぐに片付けられているはずのくず入れには紙や折れたペン先が見え、各所からの報告の量の多さが窺える。書類仕事や会議の合間に中央都市の結界魔法具の管理までしているのだからいつ寝ているのか誰にも分からない。
イリアはふーっと息を吐き出し紙を一枚書類の山に乗せた。
『団長ーちょっと美味しい木の実も拾ったから一緒に食べましょー?』
手が止まったと見るや否や、するりとデュオは声をかける。
次の書類を確認し、少し考えてからイリアはちょうど良いかと休憩を入れることにした。
『アザンダ伯爵は、ルーズの能力の高さになんで今まで野放しにしていたのかと丁寧な抗議文が書かれていたわ。
本当に…同意しかなくて返事が書けなくて困るのよ』
アザンダはルーズを認め支援すると表明した。彼女の"目"があればルーズに危険が迫ればタナーに知らされる。戦場で余計な心配をしなくていいのは有難い。
『うわー綺麗な字が余計に圧がすごー…
でも伯爵が味方なら楽だねー?
魔物と戦わなきゃなのに、汚い人間にも注意しなきゃいけないのはめんどーだもんねー』
軽い口調のデュオにため息が出そうになるが、その通りなのでイリアは小言が出る前に木の実を口に放り込んだ。少し酸味が強いが後から甘さが広がる。噛みごたえがありこれは確かに美味しいと、久々に感じる味を喉に通した。
城内ではルディアシス第一王子とアリナーデ第二王女が度々襲われていたが、ここにきて何故かルーズまでも狙われて始めていた。
公爵令嬢という身分や能力の高さからルディアシスの王子妃候補と噂され始めたせいではないかと推測されるが、本当の理由は分かっていない。
定期的にルーズの元に送られている暗殺者は現在タナーが対処していると王子から知らされている。だが天災が目覚めた後の混乱では護衛を増員したとしてもどうなるか分からない。
そこでアザンダの目が役立つ。ルーズを守りつつ黒幕の正体が分かれば一石二鳥である。
天災のことで頭がいっぱいだというのに、犯人は一体何が目的なのか…
天災が現れたことは、国民には伏せているが貴族には徐々に情報が広がりつつあった。国境付近に領地がある家では変化に気づき国に報告をあげ始め、中央の貴族も城内の慌ただしさに何かを察している。
不安や殺気乱れる雰囲気の中で公爵令嬢を狙うとは明確な目的があるのだろう。王子妃ならともかくルーズは候補かも、しれないというだけ。わざわざそんな曖昧な立場の人間を狙うだろうか。
徐々に眉間に皺がよるイリアにデュオは『おーい』と声をかけた。
『ルーズちゃんが帰ってきたら木の実一緒に食べよー』
早く帰ってくると良いねーとにこにこしながらお茶を飲んだ。今は余計なことは考えず、帰還を待つべき、と。
まずは、無事に帰ってくることを待つ…
ただ待つだけは難しいが今はできることが少ない。
『そうね…早く帰ってくるといいわね』
そう言ってイリアは木の実をもう一つ口に入れた。
その頃ルーズたちはアザンダがいた街を出てから二つ三つ村や町を回り陽が落ち始めた町で一晩泊まることにしたところだった。
『今日は疲れたー』
ルーズは硬いベッドに勢いよく倒れ込む。
それを後ろから見ていたタナーは内心当たり前だろうと呆れたが優秀なメイドは顔には一切出さずに部屋に不備がないか確認を続けた。
今日行った大きな街はアザンダのところだけだったが、あそこはこの国の要所であり結界には中央都市並みの魔力を注ぐことができる魔法具を使用していた。
普段はあまりに容量が大きいため上限までは入れていないと言っていた人間の前でルーズは目一杯に注いだのだ。
アザンダがその様子を驚愕の顔というより"やばい奴"に遭遇してしまったという顔でルーズを見ていたのをメイドは思い出していた。
結界に魔力を注いだ後も、疲れた様子を見せずに『終わりました』と笑顔のルーズにさらに慄いていたな、と。
その後さらに他の町の結界に魔力を注いだと知ったらアザンダは頭を抱えたことだろう。自分の常識を覆される感覚というのは気分がいいとは限らない。
そばで見ているタナーは、ルーズの魔力について驚異なのは量ではなく回復の速さだと認識している。
ルーズ様は疲れたと言っても小一時間で回復するのよね…
最初は田舎育ちで体力があるんですよーというルーズの言葉に納得していたが、あれはそんなものではない。田舎出身のものが全員あれであってたまるか、と次第に考えを改めた。国への報告書にも回復が異常な速さであると丁寧に書いた。
この回復の速さが元からならば幼少期に魔力を爆発させた回数は常人よりも多かっただろうという事も。
苦労も人一倍だったのかもしれないと思うとタナーはベッドに考えなしにダイブし頭を打ってのたうち回る彼女に優しくしようと思ったりする。
開けた窓から入る風が少し冷えてきた。
『寒くなってきましたね、窓を閉めますよ。
私は食事の用意を聞いてきますのでルーズ様は少しお休みください』
湿った空気に僅かに混じるのは染みついたような古い鉄の匂い。
『ありがとう、ちょっとだけ寝るね』
すでに目が半分になったルーズは赤くなったおでこを冷やしながら布団を被った。
初めて訪れた場所でも警戒心なく即寝れるのも彼女の良いところだとタナーは寝入ったルーズの周りに結界を張って部屋を出た。
『今日は、まともな方々がいるといいのですが…』
メイド服だったタナーが部屋を出た時には村によくいる目立たない服装に変わっていた。動きやすく汚れが目立たない色味の服に。
鉄の匂いを辿り、着いた町外れの場所。そこには1人の男と人らしきものが三つ横たわっていた。旅を始めてから見慣れた光景にタナーはため息を盛大に吐いた。
『また、ですか。何度言ったら分かるのです?
貴方は監視です。やるのは私。分かります?』
男は苦笑いしながら、姿を消した。
『まったく…貴方はただの影。仕事は影からの監視でしょうに。全然護衛メイドの仕事ができないのは困ります』
何もない空間に語りかけると、暖かい風が吹いた。分かったかは分からないが伝わったようだ。
タナーはつまらないと呟くと、彼が片付けたものたちを護送馬車が置いてあるところまで運ぶ。
アリナーデの護衛メイドだったタナーは城で潜伏する影を見つけて攻撃しかけたことがあった。そのために彼らとは顔見知りだ。普段は持ち場が被らず上手くやっていたのに旅の間はどちらが先に敵をやるか水面下で争っていた。
ちなみにルーズの世話がある分この争いはタナーが負け続けている。不満は膨らむばかり。
護送馬車にごみを押し込み今日の任務は完了だろう。
『帰ったら極上マッサージしましょう』
護衛として仕事ができなかった分はメイドで補おうと暗くなった道を足早に戻る。
メイド服に着替えたタナーの頬を撫でる風は冷たく、土混じる自然の匂いがした。