僕は君を婚約破棄させてでも君を手に入れたい
シャルロッテ公爵令嬢は稀代の善人だった。この世に女神がいるというのならまぎれもなく彼女を指すのであろう。彼女はその優しさで人々に尽くすことに喜びを覚える生まれながらの聖人であった。その心根の優しさがある男の人生をがらりと変えてしまうのだった。
ロベルトは王国騎士だった。彼が騎士になったのはなにも国を守りたいだとかそんな大層な理由ではなかった。彼は人生に刺激を求めていたのだ。命がやりとりされる戦場こそ彼の生きる場所。平凡な日常なんてあくびが出るくらいには退屈だった。彼は周りとの差異に気づき、自分を出すことを恐れた。このまま何事もなければ彼はおそらくひとかどの軍人として名誉とともに墓の中に横たわっていたのだろう。
そんな二人は運命のいたずらによって出会ってしまった。出会ってしまったのだ。
この出会いが国を揺るがした。無垢なるイヴに出会った蛇が林檎をそそのかしたように、清純なシャルロッテにロベルトが惹かれてしまったのは必然だった。
「なにかお困りですか?」
先に声を掛けたのはロベルトだった。彼は短く切りそろえた金髪に、蒼い瞳と一見して爽やかな好青年だった。彼は自分の容姿にひどく自信があったので、女性に声を掛けることなど造作もない。かといって誰彼かまわず声をかけることなどない。むしろ彼にとっては声を掛けること自体があまりないことだった。大抵は女性の方から声を掛けられるし、逆にうんざりしていたくらいだった。彼はきっちりした青の隊服に身を包み、自国アーノルドの誉れある騎士である身分を明らかにしていた。女性ならだれもが尊敬のまなざしを向ける、最難関の職業だ。
彼が声を掛けたのは何もきまぐれからではない。きまぐれで声を掛けるほど彼は暇ではない。彼が声を掛けたのはシャルロッテ公爵令嬢の乗っていた馬車に王家の紋が入っており、彼の属する王国の頂点に君臨する王族の関係者が、車輪をはずして立ち往生していたからであり、彼はこれでも王国に従属する騎士であったので見て見ぬふりなどできずに仕方なく声を掛けたにすぎなかった。
「え、ええ。車輪が外れてしまったようで」
御者が車輪を点検している横にしゃがみこんでいたシャルロッテはその肩先までの亜麻色のセミロングヘアに、薄茶色の瞳をもつ地味な女性だった。彼女は大勢の中では埋没して消えてしまいそうな儚い存在であった。こんな出会いでもなければロベルトは彼女を見つけることすらできなかっただろう。彼女は慈愛に溢れていたので、立ち往生する馬車の中でただ待っていることなどできずに、自分のドレスが汚れることもいとわず車輪の点検を手伝っていたのだった。
「それはそれは、もしよろしければお手伝いしましょう」
男手が足りていないのは見るからに明らかだった。持ち上がらない馬車に四苦八苦している御者と、その手前でおろおろしている令嬢を見て、ロベルトは人のいい笑顔を向けた。彼はこういうとき相手がどうしてほしいかなんて推量はできないけれど経験則でわかった。あきらかに彼が手伝う流れであったのだから。
ロベルトは鍛え抜かれた騎士であったので、軽々と車体を持ち上げ、その持ち上がった隙に御者は車輪をはめなおした。あれだけ時間がかかっていたのが嘘みたいに簡単に物事が終わる。シャルロッテは尊敬のまなざしを向けた。まるで正義のヒーローかのようだ。
だがしかし、ロベルトは正義のヒーローなどではなかった。どちらかといえばダークヒーローの方がしっくりくるくらいだった。王国を守る騎士だというのに彼にとってはこの世界など滅びようが滅びまいがどちらでもいいくらいだったのだ。
「ありがとうございます! あなたってすごい!! どうしてそんなにスマートに問題を解決できてしまうのかしら!」
シャルロッテは感動していたので本心から彼を讃えた。なにしろここで彼女はうろうろしていることしかできなかったのだ。尽くしたがり屋の彼女は自分のふがいなさになさけなくなっており、その心根の優しさは急にふって降りてきたこのヒーローに少しでも報いたいという思いに変わったのだ。
しかし、この言葉がロベルトに想像以上に深く刺さってしまい、事態は変わった。彼はとかく無関心で生きてきたというのに、シャルロッテの存在を認識してしまったのだ。今まで欲しいものなど特になかったというのに初めて手に入れたいと思うものができてしまった。これは彼にとっての幸福でもあり悲劇でもあった。なぜならシャルロッテ公爵令嬢はすでに王太子の婚約者であったのだ。
「……私はロベルト・ワイズリーと申します。可憐なお嬢さん、貴女のお名前をお伺いしても?」
「私はシャルロッテ・ハリストンですわ。親切なお方、貴方の善行に深く感謝したしますわ」
シャルロッテは綺麗なカーテシーをきめた。彼女らしい折り目正しい動きだった。足先まできちんと整えられた姿は凛としていてどこに出しても恥ずかしくない淑女の姿だった。ロベルトは頭の中でシャルロッテの価値を計算した。今まで出会った中で最高の女性だった!
「失礼ですが、これからどちらに向かわれるので? どうやらこの車輪は経年劣化で外れやすくなっているようですからまた外れるかもしれませんし、何かあったら大変でしょうからよろしければお供しましょう」
流れるように紡いだ言葉は一見してかなりの善人だった。性善説を信じて疑わないシャルロッテは感動した。自分よりも献身的な精神を持つ相手に出会えることなど彼女にとってはそもそもほとんどない。なぜならば彼女こそが誰よりも献身的だからだ。彼女は彼の優しさに惹かれた。
長い旅で馬を御することに疲れているだろう御者に代わり、軽々と馬車を動かしてみせるロベルトに御者も目を剥いた。ロベルトは慣れた手つきで手綱をとり、この王家の馬車を彼女の道案内をもとに彼女の邸宅まで送り届けた。
「シャルロッテ・ハリストン! お前と婚約破棄する!」
この国の王太子は、赤い髪に金の瞳を持ち、その傲慢さは王譲りだった。彼の横には彼の若き恋人アーリンが控えており、シャルロッテ・ハリストンの悪行の数々を涙を浮かべて断罪していた。まるで悲劇のヒロインかのようだ。
一方慈愛に溢れたシャルロッテ公爵令嬢は身の覚えのない罪状で婚約破棄を告げられたというのに受け入れるつもりでいた。彼女は二人が愛し合っており、結ばれたいがゆえに自分を排除しようとしているのだとわかっていた、それでいて二人の幸せのために自分が身を引こうと心から思えたのだ。
「承知しました。お二人の幸せを心から祈っております」
その言葉は本心からのものだった。彼女は世界人類の幸福の為ならば自己犠牲を厭わない性分だった。だがしかし引け目のあったアーリンはこの言葉がぐさりと心臓に刺さった。彼女は罪悪感を感じないほど悪人でもなかったのだ。
一方ロベルトは究極的に罪悪感を感じない人間であった。この断罪劇はロベルトによって仕組まれていたのだ。傷心で卒業パーティを出て行こうとするシャルロッテ公爵令嬢の手を、会場警備に訪れていたロベルトがとった。
「実は……初めてお会いした時からあなたのことを愛していました」
まるで歯の浮くようなセリフも見目麗しいロベルトが紡ぐと実にしっくりくる。彼は会場警備の白い隊服に金の髪と青の瞳が映え、とても王子様らしかった。なおかつ彼の生まれも貴族であり、シャルロッテ公爵令嬢の相手として必要十分ですらあったのだ。
「まあ……」
シャルロッテ公爵令嬢の薄茶色の瞳は大きく見開かれ、そこからは堪えがたい大粒の涙がこぼれた。その溢れ出す感情の渦に、ロベルトはぞくりとした。シャルロッテの哀しみはロベルトの心を打った。
「愛しています。貴女を」
畳みかけるロベルトはシャルロッテ公爵令嬢が押しに弱いタイプの女性だと見抜いていた。彼は彼で彼女を手に入れたくて仕方がなかったのだ。何のために平民のアーリンを男爵家にお膳立てしたというのだろう。
「ロベルト様……」
シャルロッテとロベルトはあの初めての出会いから何度も偶然ばったり出会い、仲良く話を交わす仲になっていた。卒業パーティの護衛として会場に入り込めたのも、シャルロッテ公爵令嬢に卒業パーティの日時をそれとなくきいていたからだ。
「私なら貴女を幸せにできると誓います」
騎士の誓いは絶対だ。彼はシャルロッテに人生を捧げる覚悟はとうに出来ていた。この残虐な方法をもってしてでも彼女を手に入れたかった。彼は愛に狂ったのだ。
「私で……よろしければ」
シャルロッテの瞳にはまだ涙が光っていた。彼女の自尊心は危ういくらいに低下していたのだ。その涙の筋をロベルトは優しくぬぐい、その頬にキスをおとした。
シャルロッテはロベルトと結ばれた。二人を繋いだ運命の赤い糸はかくも強固なものであったのだ。それこそあの、人のこころが理解できないロベルトの世界を覆してしまうくらいに。シャルロッテはロベルトに愛された。彼女はその慈愛でロベルトの異常性を全肯定した。彼女の献身欲は満たされ、ロベルトは初めてありのままの自分を受け入れる存在に巡り合えたのだ。
一方、真実の愛を見出したと述べた王太子とアーリンの関係は思わしくなかった。アーリンは略奪愛の呵責にさいなまれ、したくもない王妃教育に音をあげた。そしてなんとまあ、浮気をする男は浮気を繰り返すものである。王太子の心はアーリンから離れた。国民からの非難は日に日に強まり、王太子はその色欲に身を滅ぼされ、最終的に廃嫡されたのだ。
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