悪役令嬢の侍女
心臓に深々と突き刺さる刃の感触を他人事のように受け止めながら、ほくそ笑んだ。
狙い通り。但し痛いことには変わりない。殺すぞこのクソ令嬢。まぁ殺されてやるのは私だが。
「ユーリッ!!?」
あぁうるさい。
暗転する寸前の視界の向こうで鬼女のように怒り狂い、暴れる男爵令嬢。
馬鹿め、貴様ごときがお嬢様に敵うものか。誰が調教して傍で見守って来たと思っている。私だ。
「ヒロインは私よ」?「愛されるのは私のはずなのに」?良いか、そういうのを妄言と言うんだ。まぁ教えてやったところで、そのミジンコ以下の脳味噌では理解出来まい。
それに未来の王妃を殺そうとしたのだ、明日の朝日も拝めんだろう。
「ユーリ!ユーリ…!!いやぁっ置いていかないで……!!」
だからうるさい。
概ね理想通りに調教出来たとは思うが、どうにも微妙に育て方を間違ったような気がしないでもない。
まず、どうしてこんなに泣き虫になったのか。鬱陶しいことこの上ない。あと、ドジっ子ぶりはとうとう治らなかった。今時バナナの皮を踏んで転ぶ人間がどこにいるのですかねお嬢様。
「セシル…」
「セシル嬢…ユーリ…」
「リュカリアス様、オルフェス…っユーリが、ユーリが……っ」
だが、まぁ良い。バナナの皮を踏もうがなんだろうが、今はもう支えて助けてくれる殿方がいる。
お嬢様はもう一人ではない。寂しくても、人道を踏み外すような闇に囚われはしないだろう。私がいなくても、立って生きていける。
二人は私が助からないことを既に確信しているのだろう。ならばとっとと事後処理をしろ。何をもたもたしているノロマが。
特にそこの第一王子。お嬢様のそばにいて信頼を受けている私が嫌いだったろう。いつも睨んでいたしな。あぁそれとも、漸くお嬢様の心を射止めて漕ぎ着けた婚約式の舞台を血で汚した私に恨み言か?だが生憎ともう、お嬢様の声も聞こえないから時間の無駄だ。
さようなら、お嬢様。この私が命を賭けてやったのです。精々幸せになって下さい。
私はお嬢様が生まれたその日から傍にいて共に育って来た。世間的な関係性は異なるが乳兄弟のようにとでも言っておこうか。
だが実際は私の方が年上だ。個人的には世話してやってきた感覚の方が強い。本当に手のかかるお嬢様だった。
私は転生者だ。
そしてこの世界は乙女ゲームの世界だ。
何故そんなことがわかるか?愚問だ、そのゲームは前世で勤めていた会社が開発したものだからだ。
私は別部署だった。だがシナリオ担当の同期が意見を求めてきたことがあって、大まかな中身を知っていた。せっかくの休日を削って協力してやったのだから高い酒を奢らせた。
前世で同期が考えたシナリオは実にベタだった。スパルタにダメ出しした。泣かれた。曰く、乙女ゲームはベタな設定だから萌えることもあるという。つまらん。私は格ゲー派だ。
阿呆な部下とブラック上司。フラストレーションをMaxに溜めたまま事故死して転生。お嬢様の誕生日、奇しくも前世を思い出した私は揺り籠に眠る姿を見て決意した。
よし調教しよう。
もちろん八つ当たりに決まっている。だがまぁ良いだろう。
このお嬢様は悪役令嬢だ。悪役でなくしてやるのだから、立派な社会貢献だと感謝されこそすれ責められる謂れはない。
お嬢様、もとい『悪役令嬢セシル・マグノリア』。
愛されたがりの伯爵令嬢。寂しさと嫉妬に狂い人道を踏み外す。ヒロインである男爵令嬢の暗殺未遂で投獄の末路を辿る。
ならば、いいだろう。私が直々に愛してやる。
それに私は男爵令嬢が嫌いだ。そもそも乙女ゲーム自体あまり好きになれなかったが、綺麗事を言って男を籠絡し、女の涙に訴えるところが何より虫唾が走る。お花畑脳でない『悪役令嬢セシル・マグノリア』の方がいくらかマシに思えた。しょうがないだろう、価値観の違いだ。
「ユーリ…」
私の墓の前で今日も泣いているお嬢様を、冷めた目で上から見下ろす。本当にどこで育て方を間違えたのか。めそめそと鬱陶しい。キノコが生える。
ここは王立学園の中庭。お嬢様が読書にお昼寝にと私と過ごしていたお気に入りの木の下に、わざわざ墓を拵えている。
あの王子は何をやっている。馬鹿めが。経費の無駄だ。それ以前に時間の無駄だ。あれから何日経ったと思っている。一年だ。花を添えるな。そこに私はいない。
あと半年も経てば二人は卒業し、晴れて神聖な儀式のもとに新王と王妃になる。こんなことを続けても無意味だ。
「セシル。やはりここにいたか」
「リュカリアス様…」
そこまで渋面しているなら説得すれば良いものを、お嬢様には壊滅的に甘い。いつまでも私にとっては良い迷惑だ。
かたや、絹の金糸のような髪に天空の碧の瞳。かたや、絹の銀糸のような髪に森の緑の瞳。共に十八歳。未来の国王と王妃の逢瀬が何故墓場なのか理解出来ない。
「ちょうど、一年が経つか…」
「はい…」
ゲーム中では攻略対象キャラに設定されていた第一王子、リュカリアス・ヴィルヘルム。やはり何度見ても好きにはなれない。私はソース顔派だ。
王宮内でもいくらでも帝王学を学べるが、現王の意向により一生徒として王立学園に入学している。在学期間はそこで伴侶となるべき者を見定める意向も兼ねた修行。ご苦労なことだ。
王道キャラだと言う通り、言動がいちいち気障で鳥肌が立つ。お嬢様が慕うからやむなく認めただけだ。事実、スペックは格ゲーのラスボスも真っ青なエリート。文句のつけようがないのが更に気に食わない。
「すまない、セシル。あの女をもっと警戒しておくべきだった。ユーリは…お前が全幅の信頼を預けていたから嫉妬ばかりだったが、私の怠慢でお前の大切な者を守ってやれなかった」
そう言って目を伏せる。あぁ面倒くさい。苔が生える。
確かにその油断のせいで私が身体を張るはめになったが。だがもういいだろう、いいから四の五の言わず泣き止ませろ。夢枕に立って脅してやりたい。
それにあの演出で二人の婚約の正当性は更に印象づけられた。男爵令嬢の悪行もだ。あの一瞬でそこまで計算して覚悟してやったのだから、そんな顔をされる謂れはない。
ヒロインである男爵令嬢は、流行であった異世界転移者。実に安直極まりない。
男爵家は国が計らった養子縁組先だ。身分は伯爵より低いが、元よりここは異世界人を特別視する世界。ゆえに並ならぬ立場の攻略対象キャラと関わり、やがて恋に落ちるというシナリオだ。
そしてお嬢様は各√で殿方と男爵令嬢の仲を引き裂こうとする悪役令嬢。末路は死刑、投獄、国外追放の三択。やはり捻りがない。
ここであの同期にダメ出ししても最早意味はないが、だからこれでも、それなりにこの結果には満足している。
我儘で夢みがちのお花畑脳で、転移者だかなんだか知らないが、全て自分の思い通りになると思っている男爵令嬢は舞台から引き摺り下ろせた。
今思えば、あの最期の断末魔のような台詞は、もしかすると私と同じように前世でこの世界がゲームであったと知っていたからだろう。世界が自分を中心に回っていると思い込んでいる傲慢が、社会の修羅場を潜り抜けてきた私に勝てると思うなよ小娘。
「……ユーリのことは、リュカリアス様のせいではありません。私が、もっとしっかりしていたら」
「………」
「ドジで、寂しくて泣いてばかりの私のそばに、ずっとずっといてくれました。窘めたり、叱ってくれたり…厳しかったけど、でも、私が一生懸命だったり、良いことをすれば、不器用に褒めてくれて。ふふ…リュカリアス様、ユーリは、ツンデレなんですよ。よく出来ましたって、小さな花を一輪、いつもくれました」
「あぁ…だから、お前の持ち物に押し花が多いのだな」
聞き捨てならないことが聞こえた。私がツンデレ?今すぐ主治医に眼球を診て貰いなさい。
貴族の政略結婚は当たり前の風潮だが、お嬢様の父親と母親の仲は険悪だ。およそ情というものがない。お嬢様と兄弟姉妹を生んだだけで家庭を省みることはない。
そんな環境の中、長女という重責に少しずつ歪んでいって『悪役令嬢セシル・マグノリア』が出来上がる、それがシナリオだった。
義務感だけの使用人や家庭教師はまるで機械仕掛け。窘めること、叱ること、褒めること、一切しない奴らに陰ながら報復していたことをお嬢様は知るまい。
「ユーリがいなかったら、私、きっとこんな風にリュカリアス様に見初めて頂けませんでした。ユーリだけだったんです、幼い私に、温もりをくれたのは。ぎゅって抱きしめると、優しい気持ちになれました。だから、私も優しくなりたいって思えた…」
「そうか…」
「何が間違っていて、何が良いことなのか…ユーリは、わかりやすい言葉ではなくて、仕草で教えてくれました。あの真っ直ぐで強い瞳を見て、今の自分は大丈夫なのか、ちゃんと考えなきゃって思えるようになりました。自分に自信を持つことが出来て…リュカリアス様のことを好きになって、愛したいと思うようになりました」
ひとつ言いたい。場所を変えろ。
漸く立ち去った。
かと思えば別の訪問者が来て眉を顰めた。まるで二人がいなくなるのを見計らったような小賢しさだ。
「よぅ、ユーリ。いつも花だらけだな。だが、お前さんは素っ気無い割に意外と人気モンだったからな、実は寂しいんじゃねぇか?」
誰が。
「ははっ、こんなこと言うと怒りそうだな。よ、っと…」
あろうことか腰を下ろした。居座るつもりか。冗談ではない。
あの王子とは別種の美丈夫。王子の側近にして若き魔法騎士のオルフェス・ベーシル。
「いや、参ったぜ。ここ最近ここぞとばかりに仕事が増えて来てなぁ。ま、あの二人がもうすぐ卒業して、そうすりゃ晴れて戴冠式に結婚式と盛り沢山だ。とはいえ、古狸ども、オレが若いからって次から次へと厄介ごと押し付けやがって、っとに」
二人よりひとつ歳上で、一足先に学園を卒業している。一時的にあの王子の側を離れてはいるが、昔からの幼馴染みとしてこれから先も仕える腹積りであることは明白だ。
これもゲーム中では攻略対象キャラで、高確率で『悪役令嬢セシル・マグノリア』を成敗するポジションにいた。
王子が正統派の貴公子然としているのに対し、こちらは野性味のある風貌をしている。王子よりも気安く兄貴肌で、学園内でも男女共に人気だった鬱陶しい御仁だ。
お嬢様に馴れ馴れしくするたびに睨んでも、飄々とどこ吹く風。そこばかりはあの王子と結託していた。
「今日はよ、あの二人の婚約一周年記念パーティーで呼ばれてんだわ。貴族ってのはパーティーがお好きだなぁ」
確かに、そんなことを通りすがりの生徒が話していたような気がする。
「なんでも、一年前のあの時は台無しになったから、明るくやり直そうって生徒会が言い出したらしい。……一年か、お前がいなくなってから」
だからそこに私はいない。ただの土をぽんぽん叩いてどうする。墓参りなんて女々しい性格でもないだろう。それより見ていたなら二人をやめさせるのが先だ阿呆が。
「さて、そろそろ行くか。二人が探してるだろうしな」
何のために居座ったのか甚だ疑問だ。
くだらない感傷や愚痴のせいで眠い。溜息をついていると、風に言葉が乗せられた。
「なぁユーリ、知ってるか?オレはこれでも、お前さんに惚れてたんだぜ」
私は何も聞いていない。
§
婚約式一周年のパーティー会場は騒然となった。
言うなれば一年前の再現。だが違うところは、一滴の血も流れていないところだ。
「二度も同じ手が通用すると思うなよ脳ナシが」
地を這うような底冷えする声は、第一王子でもその側近でもなく、冴えない小柄な女子生徒のものだった。
今の一瞬の攻防は、よほど動体視力に優れている者でなければわからなかったに違いない。
未来の王妃、セシル・マグノリアを害そうとしたのは、記憶に相違なければ投獄された男爵令嬢の侍女であった女だ。花束贈呈の役に紛れていたらしい。
隠し持たれていた刃を目にも止まらぬ速さで弾き、同時に組み伏せ四肢の関節を外した。一瞬の芸当は武芸に精通していなければ到底不可能なことであり、冴えない見た目とあまりに似合わない。
女子生徒は会場の護衛騎士らにテキパキと指示を出す。呆気に取られていた面子に焦ったく舌打ちするのも忘れない。
「喚くなうるさい」
狂気に暴れる侍女を冷笑する。ぞわり、とした悪寒に周囲が素直に一歩引いた。
侍女が血走った目で誰何するが、女子生徒は取り合わない。既に興味をなくしたようで、呆れと憤慨を織り交ぜた表情で後ろを見遣った。
「王太子殿下、油断にも程があります。二度も繰り返すとは嘆かわしい。猫の墓参りなんかしているからです。腑抜けるにはまだ早いでしょう。ご自分の怠慢で愛する人の大切なものを守れなかったと何度も嘆く暇がおありならば、平和ボケしていないでもっと警戒心をお持ち下さい。月夜の薔薇園での誓いをお忘れですか」
確かに第一王子は生徒という立場ではあるが、発言はこの場で一生徒が進言する限度を越えている。それは臣下の役目だ。
未だ呆気に取られている者。慌てて咎めようとする者。そして一部は女子生徒が編入生であることに気づいた。
「オルフェス少佐、初動が遅すぎます。それでも魔法騎士ですか。古狸だかなんだか知りませんが、元猫にまで負けてどうするんです。こんなことでは見返すのもまだまだ先になりそうですね。お二人が作る未来を見たいのでしょう。そのために海外遠征もしたのでしょう。猫に独り言まで言って。全く生かせていないじゃないですか。なにより、」
野暮ったい黒縁眼鏡の奥に潜む瞳に、第一王子リュカリアス・ヴィルヘルムとその側近オルフェス・ベーシルは限界まで目を見開いた。
「いつまでも墓の前でめそめそ泣いているから隙を突かれるのです。老いぼれの猫が身体張ってやったんですからシャキッとしてください」
知らないはずだ。最愛の恋人、婚約者であるセシル・マグノリア以外。
一年前の失態を、その後悔を、彼女の前以外、あの墓の前以外で溢したことはない。王太子たる者、他人に容易く弱音を吐くことはない。
月夜、あの薔薇園での愛の告白と誓いは二人きりだった。秘密の逢瀬として演出したのは自分だ。知らないはずだ。ー他の“人間”は。
知らないはずだ。絶対に誰も知らないはずだ。仕える王子でさえ。
海外遠征は本来自分の役目ではなかった。だが、このままでは足りないからと。親愛なる王子とその最愛を誰よりも守るためにもっと力をつけたくて。背中を押して貰おうと。
そんな、自分を鼓舞するために決意を口にした相手は。舞い込む仕事の愚痴を溢した相手は。他の誰でもない唯一しか知らないはずで。
「………ユー、リ…?」
誰それ?と首を傾げる者。あの子そんな名前だったか?と顔を見合わせる者。聞いたことがあると思い出す者。
あぁ面倒くさい、と煩わしそうに、そして諦観にも似た雰囲気で女子生徒は鬱陶しそうな前髪をかき上げた。
外されたウィッグと眼鏡。栗色の髪と、見覚えのありすぎるぱっちりとした猫目が三人を見据える。
「……どうも、改めまして。異世界転移者の弐猫夕梨と申します」
§
「ユーリ」
早朝独特の静けさが漂う中、周囲の空気を乱さない程度に、しかしハッキリと呼ばれる。面倒なのに捕まった。
そのまま歩いていれば、相手は気にした風もなく横に並んだ。汗臭い。
「おはようさん。よく眠れたか?」
「おはようございます、オルフェス中佐。お蔭様で」
白々しい。
王宮勤めの朝は早い。中でも王妃付きの侍女となれば尚更である。
今生でもお世話係など真っ平御免と丁重に辞退したはずが、こうして召し上げられてしまった。有り体に言えば泣き落としに負けた。攻防が面倒臭くなったとも言う。
王妃溺愛の新王と、歓迎すべき異世界人ということで王宮側にも加勢され、多勢に無勢。前世で根性を使い果たしたのか、今世は何かと流されることが多い。
まぁ早起き自体は苦ではない。二度目の転生で生家は由緒正しき旧武家で、早起きの鍛錬は日常だった。あらゆる武術を体得したが、十八番は関節技である。
「なんですか」
「いや?」
視線が鬱陶しい。
しがない社会人から猫、そして女子高生へと転生し、何をまかり間違ったか記憶持ちのまま転移して舞い戻って来た。神だかなんだか知らないが、あの侍女への制裁も八つ当たりである。
面倒なので姿は隠していようと変装していたが、三人があまりになっていないので不覚にも出しゃばってしまった。ちなみに懺悔や愚痴を聞いていたのは、単にそこが墓と知らずに木の上で昼寝していたからである。実にうるさかった。
「転生やら転移やら、不思議なこともあるモンだと思ってな」
「良い迷惑です」
「オレは嬉しい」
厭味か。
ついに戴冠式と結婚式が執り行われた。
もはや悪役という言葉は不要だが、これで悪役令嬢は晴れてハッピーエンドを迎えたわけだ。調教=アニマルセラピーは概ね功を奏したと言える。前世の最大の功績だ。
赤ん坊の時は乳母よろしく揺り籠を揺らしてあやした。ハイハイが出来るようになったら尻尾で遊んでやった。ユーリと呼ばれるようになった。悪戯やダメなことをしたら肉球で叩いたり体当たりしたりした。
成長し学園に入学したら野良猫を装ってそばにいた。栗色の毛が濡れるほど泣いてる時は泣かせてやった。頑張ったご褒美に一輪の花を咥えて持っていってやった。
だが甘やかしてばかりではいけない。時には姿をくらまして放置した。将来を考えて気づかれない程度に少しずつ距離を置くようにした。
怪しい男爵令嬢とその取り巻きの周辺を探り、お嬢様を貶める罠にいち早く気づいて王子やこの人を証拠現場に誘導した。月夜の薔薇園で二人が固く手を取り合うのを見届けた。
普通の猫だ。そう寿命は長くない。
十分老いた身で、刃の盾になったのは自己犠牲精神でも贖罪でもない。乙女ゲームだろうが格闘技ゲームだろうが、キャラを筆ひとつで簡単に死なせるシナリオを作るのは仕事で、生活の糧だったのだから。
「なんなんですか…」
石鹸の清潔な香りのするリネンを落とすわけにもいかず、肩越しに睨んで抗議した。物陰に引き込まれて、後ろから抱きかかえられてテンションが下がる。
腹に当てがわれた無骨な掌。
溜息。
「……だいたい、人間が猫に惚れたって頭おかしいんじゃないですか。聖獣とかならともかく、普通の猫に」
「かもな。でも、惚れちまったんだからしょうがないだろ。その瞳に」
「やめて下さい、鳥肌立ちました」
生まれつき、腹に歪な傷跡がある。
刃物で抉られたような形に変色しており、そこだけ細胞の新陳代謝が止まっているのか、痛みはないがいつまでも薄れる気配はない。
刃には毒と呪いが塗布されていた。ゲーム中では『悪役令嬢セシル・マグノリア』が使う物で、同期が相談後に付け足したオプションであるため知っていた。
転生しても別の生き物になること、傷痕が残ること。執念深さを窺わせる設定だ。結果的には、あの猫のユーリだと裏付ける決定的な証拠になったわけである。
「最初は、お前が人間なら間違いなく惚れてるって程度だった。いつも強い意思を秘めて、小さい身体で自分よりセシル嬢のために頑張って立ち回ってるのを見てると、オレも負けられねぇって思った」
「それはどうも」
「猫でもなんでも良い。コイツは同志だって思って、そっからだな。本気で惚れた。オレは別に世継ぎもうけなきゃならねぇ王族でもないから、生涯、誰も娶らないつもりだった」
「………」
猫に操を立てる騎士。悪寒のする構図だ。
身震いしたら勘違いしたのか、寒いのか?と更に抱き寄せられる。あぁ鬱陶しい。
「…昨日の夜も散々抱き潰しやがったくせに、まだ不安ですか」
「足りねぇ」
「週一以上はダメです」
「わかってる」
お嬢様もそうだが、この人も私が目の前で刺された光景はトラウマらしい。老いぼれ猫の会心の跳躍だったのだから讃えれば良いものを。
再会以来、あの手この手で口説かれ続けて、前世で根性を使い果たしたらしい私はとうとう流されてしまった。
どれだけ素っ気無い態度を取っても、全力スルーで全力で甘やかしてくる。王妃となったお嬢様が嫉妬するほどだ。新王となった王子はドン引きしている。耐え性のない自分が憎い。
「はぁ…わかりました。ずっとおそばにいますから、いくらでも確かめれば良いでしょう」
全力で流されることにしてしまった時点で、運のツキなのだろう。転生も二度も繰り返せば、きっとこんなものだ。
いいかげん行きますよ、と言えば大人しく離してくれてホッとした。汗臭くて鬱陶しかったから清々しただけだ。心臓がウブに音を鳴らしているなんて知らない。私は何も聞いてない。私は乙女ゲームじゃなくて格ゲー派だ。
「あっ、ユーリ!」
「おはようございます、王妃様。子供ではないのですから、いいかげん慎ましくして下さい」
もうなんだっていい。私がいることで安心して笑う人達がいるなら、もうそれで良い。
悪役令嬢の侍女は、猫だった前世に比べて残念なほど平和だった。
お粗末様でした。