終末のランナーズハイ
『今、全人類に色々な形で危機が迫っています。環境問題が生み出した天災は、もはや想像の域を越え実際に起こり始めています。それが原因で溜まりに溜まった人々の不安は間違いなく、大きな戦争に発展するでしょう。私たちはこれから、多くの困難に直面するでしょう。しかし、私たち人間はそれを乗り越えていかなければいけません。生物の頂点に立つ者として、それに立ち向かわなければなりません。さもなければ、人類は終末を迎えてしまうでしょう』
テレビの中で髪の毛の薄い評論家がそんなようなことを言っているのを、私は焼いた食パンにバターを塗りながら、片耳で聞いていた。本当はそんな話なんて興味ないし聴きたくもないけれど、なぜか今日はテレビの音がいつもより一回りくらい大きいし、父も母も私より三歳下の弟もそれを真剣に聞いていて他の物音がしないから、私はそれを聞かざるを得なかった。
まったく今更になって何をそんな真剣に聞いているんだ、うちの家族は。私は口の中で二、三回ほど噛んだパンの塊を飲み込みながらそう思った。いつもはただテレビを付けてるだけで、天気と朝の占いコーナーくらいしか真剣に見ていないくせに。このおじさんの話がそんなに面白いのかな。私にはただの重くて暗い妄想くらいにしか思えないけど。
私がそんなことを考えながら食パンの最後の一かけらを口に含もうとしたとき、向かいに座る父が私に向かって言った。
「シホ、手を止めなさい」
「なんで?」
私はそう聞きながらも一応手を止めて父親の顔を見た。するとどういうわけか、父は眉間にしわを寄せ、厳しい顔つきで私を見ている。父はもともと厳格という言葉がよく似合うような顔をした人だが、今の表情はそれよりもさらに厳格だった。まるで怒っているような顔だ。
「アタシ、なんかした?」
何も変なことをしたつもりはないが、私は父にそう聞いた。気付けば私の隣に座る母や、その向かい側に座る弟のコウタも、手を止めて私の顔を見ている。私は何だか居心地が悪くなって、とりあえず手に持ったパンを皿の上に置き、空きっぱなしの口を閉じた。
私が聞く姿勢になったのを確認すると、父は私に向けた視線をテレビに戻した。私も黙って父の視線を追う。テレビの画面の中ではさきほどの評論家が、まだ真剣な顔で喋っていた。
父はテレビを見たまま言った。
「シホ、今テレビで大事なことを言っているから、聞きなさい。これからの役に立つかもしれない」
「役に立つって言ったって、これ、戦争とか天災とか、そういう話でしょ? そんなの起きるわけないのに聞く必要ないじゃん」
私が何気なくそう言い放つと、父は重いため息を吐きだしていった。
「それが今、起きようとしているんだ。実際、すぐそこまで迫っているらしい」
「らしいって、仮定でしょ? 実際には戦争なんかまだ起きてないじゃん。環境問題だって、どっかの氷が溶けてる程度のことでしょ? 氷だったらここでも溶けてる」
私はそう言って、大分小さくなった氷が浮かんだウーロン茶のグラスを軽く爪で叩いた。
そんな私の行動を隣で見ていた母親が、口を開いた。
「シホ、冗談はやめなさい」
私が母の方を見ると、母もなぜか怒ったような顔をしていた。
「この間、アメリカとカナダで竜巻がいくつも発生したってニュースが発生したでしょう? それに、マレーシアに大津波が襲いかかったってニュースもあった。世界の国々がいま、パニック状態なの。紛争や小さな戦争がいろんなところで起きてる。その火花が日本にも移らないって、どうして言いきれるの?」
「べつに言いきるつもりはないけどさ、それが私の朝ごはんと何の関係があるわけ? べつにご飯食べてたっていいじゃない。一応このおっさんの話だって、一応耳で聞いてるよ」
私の発言に母は何かを言いかけた。だが、言葉が発される前に父がいった。
「何かが起きてからじゃ遅いんだ。私たちだって、これから起きるかもしれないことに何らかの形で備えなければならない」
「そんなオーバーな」
「オーバーじゃないよ、姉ちゃん」
そう言ったのはコウタだ。学ランを着た中学生の弟は、眼鏡のずれを直しながら私にいった。
「実際天災が起きたりしたら、今まで簡単に手に入ってたものの需要が一気に上がる。それに戦争が重なればなおさらだよ。逆に供給できる量はどんどん減っていくんだよ」
我ながらに出来のいい弟だと思う。コウタはまだ中学三年だが、年齢のわりには冷静で考え方も大人っぽいとも思う。だからって中三は中三だ。
「そうかもしれないけど、需要と供給なんて言葉どこで覚えたの、アンタ」
「中三になれば誰でも知ってるよ。だから僕たちは、万が一の場合に備えて買いそろえられるものは入手が困難になる前に溜めておくべきなんじゃないかな」
そんなコウタの言葉に、父が頷く。
「コウタの言うとおりだ。私たちは今日にでも買い出しに行こうと思っている。もう出遅れたかもしれないが、行動するならできるだけ早い方がいい。そういうわけだから、あとでお前にも手伝ってもらうことになるかもしれない」
父はそう言って、私の目を見た。私はそんな視線がなんだか嫌で、椅子から立ち上がって大きな声でいった。
「ちょっと、待ってよ。私がなんでそんなことを手伝わなくちゃいけないの? みんな、いくらなんでもオーバーじゃない? まだ決まったわけじゃないんだよ? 戦争なんて起きないよ、今まで国どうしがもめてるなんてこと何回もあったけど、なんだかんだいって何も起きなかったじゃん。天災だってそうでしょ。日本に竜巻なんて発生するわけもないし、ここは内陸県でしょ? 津波だって起きるわけないじゃん」
私はややヒートアップして言ってしまったようだ。それは自分でもわかっていた。三人が私のことを目を丸くして見る。だからって、ヒートアップせずにいられるか。
しかし父は、そんな私に一度は目を丸くしたものの、再び冷静さを取り戻して言った。
「万が一ってこともある。それに、今はそれが万が一じゃないんだ。千、いや、五十、いや、もっと言えば二分の一の確率で起きるかもしれない。それくらいのところまで危機は迫っているんだ。増え続ける人々の不安な気持ちがその証拠だ。自覚を持て、シホ。危機は迫っているんだ」
父の発言にはなんだか説得力があった。それは、私に反論を許させないほどに。私は父の視線がなんだか嫌でコウタや母の顔を見たが、コウタや母も父と同様の視線を僕に向けていた。逃げ場を失った私の口から発されたのは、小学生がよく使うような言葉だった。
「ばっかみたい」
私はテーブルに置いたケータイ電話を取ると、すぐに椅子から離れて居間を出ようとした。一応、「ごちそうさま」と、聴こえるか聴こえないくらいの声で言った。それが聴こえていたのか聴こえなかったのかはわからないが、後ろから母が私を呼ぶ。
「ちょっとシホ、待ちなさい。どこへ行くの」
「学校だよ」
「今日は行かなくていいから、家にいなさい」
母が後ろで大きな声を上げる。私はそんな母の声を無視して、通学鞄を背負って家を出た。
家ではあんなことを言ったものの、私は全く不安がないわけではなかった。最近、天災やそれによって起きる紛争のニュースなどが増えているのを私は興味を持たずともなんとなく認識していたし、それが本当に起きたら怖いという思いも薄々とはあった。そんな中であんな話をされたら、さすがに少しは不安になる。馬鹿馬鹿しいと言って批判はしたけど、本当はそれを認めたくない自分がいるのもわかっている。そんなことが起きるはずがない、そう自分に言い聞かせれば気持ちが多少は緩和されるが、それも完全な安心ではなかった。
私が安心したのは、家の前の道をしばらく進んで、大きな通りに出てからだった。
オフィスビルが立ち並ぶ大通りには、たくさんの人がいて、たくさんの車が通っていた。朝の町の風景。それはあまりにも見慣れた光景で、特に何の変哲もない我が町の景色だったが、その変哲のない自然さが私に安心を与えてくれた。いくら髪が薄い評論家が『シュウマツロン』を唱えようと、私の町の景色は変わらない。せかせかとたくさんの人が歩き、波を作るのだ。サラリーマンやOL、うじゃうじゃと沸いた学生たちによって作られたその波は決して見ていて気持ちのいいものではないが、今日もこの国に平和な朝が訪れていることを認識させてくれる。私はその波に溶け込んで、通学のために乗る地下鉄への階段を下った。
やはり地下鉄の風景も、いつものものと変わらなかった。天井から下げられたチラシには大きな文字で『世界終末戦争は起きてしまうのか!?』なんて文字が書かれている。馬鹿馬鹿しい。私はそんなくだらないキャッチフレーズは見ないようにした。私の後ろでおばさんたちが朝の『終末予言』についての談義を交わしているが、音楽プレーヤーに直結したイヤフォンを耳に入れて聴こえないようにした。キャッチフレーズはただの宣伝文句で、おばさんの談義なんてゴシップ好きな中年女の内容のないうわさ話だ。私は自分にそう言い聞かせ、『終末』という単語が私の頭に侵入してくるのを防いだ。なるべく考えないようにする。そうやってずっと目を閉じていると、イヤフォンから私の好きな音楽が聴こえてきた。私が音量を上げてそれ聴き終える頃には、『終末』なんて言葉は私の頭の中から完全に消え去っていた。
しかし、学校に着いた私はまた『終末』を思い出さざるを得なくなった。
朝のニュースがいつもよりも戦争やら天災やらを多く取り上げていたせいか、私のクラスはその話で持ちきりだった。おそらく、隣のクラスでもそうだろう。学生というものは噂が大好きな生き物なのだ。ここに一人例外がいるが、私はあくまでも少数派だ。私は噂話をなるべく聴かないようイヤフォンを再び取り付けながら、窓際の列の一番後ろにある自分の席に座った。座ったそばから頭を伏せる。はあ、何だか今日は朝からやる気がしない。
やる気がしないのは、結局放課後になっても同じだった。険悪な状態で家を出てきてしまったせいか、帰るのが何だか億劫で、それを考えると気持ちが乗らなかったのだ。何人か私に話しかけてくれた友人もいたが、私をどうにか元気づけるために彼女らが出してきた話題がいま私の一番聴きたくない『終末』に関する話題だったので、私の気分は最悪になった。別に気分が悪いわけでもないのに保健室に逃げ込んで、二時間寝た。
駅まで送ろうか? 玄関でそんなことを言ってくれる心優しい友人もいたが、私は決して具合が悪いわけではないので首を振った。今日は一人で帰りたい気分だった。そんなことを思いながら校門を出ると、学校の名前が刻まれた柱に寄り掛かっていた男が、私の名を呼んだ。
「お、シホ、やっときたか」
私はその声の主を見る。黒い短髪に、毎日の部活で焼けた顔。引き締まった体。男子の制服であるブレザーを脇に抱え、ワイシャツにネクタイを締めたその男、私と幼馴染の周東タケルは、私と目が合うと微笑んで小さく手を振った。
「なーんだ、タケルか」
私の言い方が不満だったのか、タケルは少し不機嫌そうな顔をする。私はそんなタケルに、ごめんごめんと軽く謝った。
「ずっと待ってたのに、それはひどいな」
「え、待ってたの? 今までアンタと一緒に帰る習慣なんてあったっけ?」
「ないけどさ」タケルは私が使う地下鉄の駅がある方角を見た。「駅まで送るから、ちょっと付き合ってくれよ」
「え? う、うん。別にいいけど」幼馴染の珍しい発言に私は少し戸惑ったが、とりあえず頷いて、しかしそれから首を傾げた。
「あれ? タケル、今日は部活ないの?」
タケルは野球部の主将を務めている。彼の体系や肌の色は、彼が誰よりも熱心に部活へ取り組んでいる証拠だ。
「今日は休みだ。部員がほとんど集まらないからな」
「どうして?」
「ニュース見ただろ。あの、終末がなんちゃらってやつ。みんなそれに備えるとか何とかで、帰っちまったんだ。鬼コーチの石井だって、今日は休んでいいって言ってた」
またそれか。私はタケルに気付かれないように小さくため息をついた。
「まあ、石井がそう言ってくれなくても、俺も休み貰う予定だったけど」
「へえ、アンタも買い出し?」
そう聞きながらも、私の頭の中でタケルの返答はだいたい予想がついていた。案の定、タケルは頷いた。
「まあ、な。でも、もうひとつ大事な用がある」
「大事な用?」
「おう。ま、とりあえず歩こうぜ」
そう言ってタケルは歩き始める。『大事な用』という言葉が妙に気になったが、私は頷いてタケルの後に続いた。
駅までの道を、私よりも少し歩幅の大きいタケルに合わせて歩く。歩きだしてしばらくたっても、私たちは口を開かなかった。私たちは一応仲のいい幼馴染だが、一緒にいるときもそんなに言葉を交わしたりはしなかった。私とタケルの間には共通する話題があまりないのだ。あるとすれば小中学校を懐かしんでの話か、最近どう? みたいな話くらいである。しかし、だからといって私はタケルとの時間を退屈だとは思ったことはなかった。恐らく、これは私の予想だがタケルだって退屈だとは思っていないと思う。私たちは、無言でいられるこの空気を気にいっているのだ。お互いのことをよく知っているから、居心地がいいのだ。だから今日も、学校と駅のちょうど中間地点にあるスーパーの前を通り過ぎても、未だに私たちの間には会話がなかった。
タケルが口を開いたのは、駅への近道である細い路地に入ってからだった。人通りがほとんどないと言ってもいい、静かな路地だ。私はそこに踏み込んだとき、タケルが言っていた『大事な用』について、思考を巡らせていた。
「なあ、シホ」
「なに?」
「なんか今日、元気ないな」
もともと隠す気はなかったが、悟られたことに気付いて、私は少し俯いていた顔を上げる。
「べつに」
「べつにってことはないだろ」タケルはすかさず言った。「いつもシホから何かしらは話しかけてくるじゃないか。なんかあったのか?」
「そういう気分じゃなかっただけ」
私は微笑みを作って、肩から落ちかけたショルダーバックを掛け直した。普通の表情をしているつもりだったが、私が幼稚園に通っているときから一緒の幼馴染は、私の作った笑顔を簡単に見抜いた。
「なんかあったんだろ。俺に話してみろよ」
タケルはそう言って私の顔をみる。タケルは昔から、秘密や隠し事を嫌う性格だった。自分の気になることがあれば、何でも追及するようなタイプだ。隠し通そうとしても無駄だろうし、というか隠す必要もなかったので、私は素直に話すことにした。
今朝から今に至るまでの経緯と私の心情を私が話している間、タケルは感情の読めない顔でそれを聴いていた。私がすべて話し終えると、タケルはいった。
「そっか。だから野球部が休みになった話をしたとき、暗い顔してたんだな。ため息もついたし」
気付かれていたのか。
「気付かれないようにしたつもりだったんだけど」
「気付いてたよ」
「そっか」
私はため息をついて、苦笑いした。
「なんか、悪かったな。それのことで親御さんと揉めたってのに、また話持ち出しちゃって」
「別にいいよ。タケルは知らなかったんだし」
「わりいな」
タケルはそういって少し寂しそうな表情をする。私はそんなタケルに何か言葉をかけようか口を開きかけたが、何も思いつかなかったのでその口を閉ざした。
駅までの細い路地も、後少しで終わる。 タケルがいきなり足を向けたのはそのときだった。
「どうしたの?」
私はタケルを振り返る。タケルはその場に立って、私の顔を真剣に見つめてきた。
「ごめん、もう一回だけ、終末論の話、していいか」
「なに? いきなり改まっちゃって。まあ、いいけど、一緒にトイレットペーパー買い出しに行こうなんて、嫌よ?」
私のくだらないジョークに、タケルは白い歯を一瞬見せて笑った。だが、すぐに真剣な顔に戻る。それを見た私の顔も、自然と真剣なものになった。
「明日、世界が終わる確率もゼロじゃないんだよな」
「……そうかもね」
「世界がこんな状況だしな。天災、戦争。もしかしたら、俺が明日を迎えられない可能性もあるってわけだ」
「うん。でも、そうかもしれないけどさ。そんなこと言ったら、いつだってそうじゃない? 朝、いきなり車が突っ込んでくる可能性だってゼロじゃないでしょ」
「ああ。確かに、そうだけどな。でも俺は今までそんなこと考えたこともなかった。自分には起こりえないことだってさ。だけど、最近になって戦争とか天災とかニュース頻繁に見るようになって、俺の周りの人たちが慌て始めてるのを見てたら、なんだか他人事には思えなくなってきてさ。実感したんだ。俺だって、明日死ぬ可能性もあるんだなって。それも、前みたいにゼロに近い可能性じゃない。世界がやばくなってきて、確率は段々上がってきてる」
私は何も言えずにタケルの顔を見つめていた。タケルの言葉は、テレビに出てる髪の薄い評論家よりも、父や母やコウタよりも、誰よりも説得力がある気がした。
「だからさ、いきなり死んでも後悔しないように、言っておこうと思って」
タケルは私の目を真剣に見つめてきた。私はなぜか、タケルが言う事が次に言う言葉がわかった気がした。今まで十年近く一緒にいて、一回も言われたこともないのに。そんなことを感じさせる行動が、あったわけでもないのに。
タケルは、私の目を見てそう言った。
「好きだ。つきあってほしい」
私はすぐに言葉を返すことができなかった。自分の口がわずかに開いて、かすかな呼吸をしているのを感じた。タケルが何かを言おうと口を開きかける。私はそれを阻止するように声をあげて、いった。
「ちょっと待って。冗談でしょ?」
「冗談なんかじゃない」
私の言葉に、タケルがすぐにそう言い返す。そんなこと言われなくても、タケルの言葉が本気であることくらいわかっていた。
「……いきなりそんなこと言われても、すぐに返事なんてできないよ」
「わかってる。でも、なるべく早く返事がほしい。いい結果でも悪い結果でも、返事を聴くまで終末なんて迎えられないよ」
タケルの言葉に、私は少し返事を考えてみる。しかし、すぐに答えは出てこなかった。タケルが真剣だからこそ、真剣に考えてちゃんと答えを出したい。
「タケルの気持ちもわかるけど、ちょっと時間がほしいな」
私がそう言うと、タケルは少し思考するような表情をして、しぶしぶ頷いた。
「わかったよ。シホの答えが出るまで、待ってる」
「うん。少し待ってて」
私はタケルの顔を見ることができず、視線を逃がしてそう言った。
タケルと別れて地下鉄に乗り込んだ私は、偶然とることのできた席でタケルの言葉を思い出していた。
『好きだ。つきあってほしい』
タケルと出会って今までの十年間、いつからタケルはそんなことを思っていたのだろうか。タケルとの色々な場面が脳に蘇る。小学生のころ、一緒に登下校をしたこと。中学時代はお互いに部活があって一緒に帰ることはなくなったが、それでも朝は一緒に通っていた。そして高校。高校生になって彼は遠い町に引越ししてしまったが、それでもわざわざ電車でこちらの高校に通ってきている。確かにうちの学校は野球部が強いということで有名だが、彼がうちの高校を選んだ理由は果たしてそれだけだろうか。もし、その高校に私がいるから、という理由があるとしたら……。
「ありえない」
考えることに集中していた私は、思わずそう呟いてしまった。混みあった電車内で私の言葉に気付いたのは隣に座っていた中年女性だけだった。彼女はこちらをじろじろと見つめてきたが、私はそれに気付かないふりをして俯いていた。
三〇分ほど待つと、車内アナウンスが私の降りる駅の名前を告げた。私は鞄を持って立ち上がる。もう先ほどの女性はいなくなり、車内にいる人の数もだいぶ減っていた。電車が駅に着くと、私の心に少し安心感が生まれた。
タケルはあんなことを言っていたけど、まだ時間はある。そう簡単に私たちの明日が奪われるはずなんてないはずだ。終末なんてそう簡単に訪れない。そんなことを考えたせいで、タケルの気持ちに対する答えが曖昧なものになってしまうのは避けたい。
私は駅のホームに降り立ち、そんなことを考える。
とりあえず少し考える時間を設けよう。
自分の中でそう答えが決まって、私は歩き始める。その音が私の耳に聴こえてきたのは、私が歩き始めて五、六歩くらい進んだときだった。
ド――ン。
どこからともなく、巨大な轟音が震動と共に伝わってきた。突如として聴こえてきたその音に、ホームにいる人々は次々に足を止めた。
「何の音?」
ホームにいたOL風の女性がそう呟いて、音のする方を見つめる。とは言っても、見つめた先にあるのは地下鉄の壁と天井だ。地上の遠い場所からその音が聴こえてきているのは、私にもなんとなくわかった。
ド―――ン。
先ほどより少し大きな音が聴こえ、ホームがざわつき始める。今度は先ほどよりも少し近い場所でその音がしたようだ。震動もわずかに大きくなっている。私の頭の中を嫌な予感がよぎった。一体何の音だろう。私がそう考え始めたときだった。
ド―――――――――ン!!
三度目の轟音が凄まじい震動と共に響き渡って、私たちの視界は一瞬にして闇に包まれた。
……あれ。
私が目を開くと、辺り一面が真っ暗だった。冷たくて頬に硬い床の感触を感じる。いま自分が寝ている場所を手で触ってみると、荒いタイルのようのようなさわり心地だった。
ここは、どこなのだろう。上半身を起こして思いだして見る。家を出て、学校に行って、帰りの電車に乗って……。地下鉄だ。地下鉄に降りて電車に乗って、いつもの駅についたんだ。そしたらあの音が聴こえ……。
「うっ」
突然後頭部に痛みを感じ、私は自分の頭に触れてみる。髪の毛の中に、ぬるっと湿った感触。血だ。わたしにはすぐにそれが血だとわかった。指が触れた場所にどうやら傷があるらしく、ズキンという痛みが頭に響いたからだ。
私はしばらくその痛みに悶え、やっとそれが収まった時には、手さぐりで闇の中にあるバッグを探していた。私のバッグは少し離れた場所に落ちていた。私はそれ自分のもとに引き寄せ、中にあるはずの携帯を探す。携帯を見つけると、それを開いてディスプレイを確認した。メールや着信はなかったが、私はそれ目当てで携帯を取り出したのではない。私は携帯のディスプレイを闇の方に向けた。ディスプレイから放たれる光を照明代わりにしようと考えたのだ。携帯電話から放たれる光は微弱だったが、今私がいる場所がどこなのかを理解するにはその光だけで充分だった。
そこは、変わり果ててしまったが、いつも私が利用している地下鉄の駅だった。
天井が崩れ、破片が床に落ちている。ひどいところでは崩れた天井の巨大な破片がそのまま地面に突き刺さっているところもある。隣の線路にある電車は、巨大な岩石に潰され大きく歪んでいた。
辺りを見渡していると、私はそこら中に人が倒れていることに気付いた。近くにいた人に這いながら近寄って、光を当ててみる。「大丈夫ですか」と声をかけ、肩に手をふれてみる。すると、私の頭に触れた時と同じぬるっとした感覚が手のひら全体に生じた。私は思わず手を引いて、倒れているその人の顔の方に光を向けてみる。その人は女性だった。照らし出された顔を見て、私は思わず息を飲み込んだ。
カッと開かれた眼。地面に広がった血液。側頭部にできた、大きく抉るような傷跡。一目見ただけでわかる。その女性は死んでいた。
死んだ人間を目の当たりにして、私は大きく後ずさりした。座ったままだったので、両手で身体を引っ張る。死んだ人間を目の当たりにするのは葬式などを経験したことがあるので初めてではなかったが、こんな生々しい死体を見るのは勿論初めてだった。痛いほどに心臓が高鳴り、息が荒れる。思わず戻しそうになったが、それをどうにか抑える。少し落ち着くのを待ってから、私はもう一度だけ、死体に明かりを向けてみた。よくよく見てみれば、その女性は先ほどのOL風の女性だった。先ほどまで、普通に動いていたのに。生きていたのに。
先ほど――。一言でそういっても、それがどれくらい前のことなのかはわからない。もしかしたら、日付が変わっているかもしれない。私は気絶していたのだ。おそらく、天井が崩れた際に落ちてきた瓦礫に頭でも打って。頭に響いているこの痛みがまさにその証拠だった。事故かなにかで地下鉄の天井が崩れて、たくさんの瓦礫が落ちてきた。私の周りで倒れている人たちはそれの被害にあった人々で、中には死んでしまった人がいる。いや、ほとんどが死んでしまったといっても過言ではないだろう。そんな中で、私は奇跡的に生き延びたのだ。
私はその場で立ち上がった。とりあえず、地下鉄から外に出よう。ここにいても危険なだけだし、何も未来が見えてこない。それに、こんな死臭に溢れた場所になんていたくない。私は立ち上がった。携帯のディスプレイの光を頼りに、倒れる人たちをできるだけ見ないように出口を目指した。
外に出れば、救われるのだ。
――そう思った私の考えが、間違っていた。
辛うじて塞がれてはいなかった出口から外に出て強い日差しを浴び、やっとそれに慣れてきた私の眼に映った風景を私はすぐに理解することができなかった。いつもの出口から出た時に見る、私の町の、いつもの風景。それが、まったく別のものにすり替えられていたのだ。
倒れるように崩れたビルや、完全に崩壊し瓦礫の山になってしまったビル。葉がなくなって枝だけになった街路樹に、倒れた信号機、電柱、看板。ひび割れた地面に、潰れた車。大きく抉られた地面。そこら中に倒れた、人、人、人。
私の眼に映ったのは、いつもの大通りが廃墟と化した姿だった。
「……嘘……でしょ?」
虚ろな目でそんな風景を見つめて、私は独りで呟く。意識ははっきりとしているが、私は現状を受け入れることができなかった。私はしばらくそこに突っ立ったまま、廃墟と化した我が町を見つめていた。歩く気力もなかったし、頭が酷く痛むのでずっとそこに立ったままでいたかったが、私はハッとして走り出していた。
死体を飛び越え、スクラップになった車の間を走り抜け、私はいつもの下校路を辿る。三年同じ道を通っているが、こんな気持ちになるのは初めてだった。それもそのはずだ、こんな事が起きるのが初めてなのだから。私は祈りながら走った。嫌な予感が様々な形で頭をよぎるが、それでもわずかな可能性に賭けて走った。我が家の安全、いや、それは無理だろう。辺りの建物という建物全てが崩れ去っているのだから。私は家族の安全を祈った。少ない希望を抱いて、私は走った。お願いだから、お父さん、お母さん、コウタ、無事でいて――。
身を削る思いで祈って、息も絶え絶え走った。頭の痛みで気がおかしくなりそうだったが、それを我慢してひたすら走った。そうまでして走ったのに、神は無常だった。
木屑の山と化した我が家に登り、木片を片っ端から投げる。瓦や鉄やコンクリートを力任せにどかす。私は無我夢中で瓦礫の山を掘った。手がガラスや木片で切れて痛むが、私は気にしなかった。無理に力を入れて関節が軋むが、それでも私は気にせず、ただ手を動かして、瓦礫の山を掘った。私の動きが止まったのは、大きな木板をどかして、抱き合うように身体を寄せ合って眠りについた家族の姿を見つけたときだった。
「お父さん! お母さん! コウタ!」
喉が張り裂けるくらいの大声で何度も家族の名前を呼んで、それでも返事のない家族にむかって何度もその名を呼んだ。私は半狂乱状態になりながら、家族の名前を呼び続けた。
「シホちゃん? ……シホちゃんか?」
老いた男性のそんな声が聴こえたのは、もう辺りが大分暗くなってからのことだった。玄関を出てすぐの石段に腰を下ろしずっと泣いていた私は、その声が聴こえた方向に顔を向けた。涙で潤んでぼやけた眼を袖で拭うと、そこに立つ人物の姿をちゃんと認識することができた。そこには、くたびれた服装をした老人が白髪頭に包帯を巻いて立っていた。その顔を私は知っていた。近所に住む独り身のおじいさん。確か、大野さんだったか。大野さんは何やら荷物をたくさん乗せたリアカーを引いていた。
「おお、やっぱりシホちゃんか」
大野さんは私と眼が合うと、リアカーから手を離して私のもとに歩み寄ってきた。大野さんは私の顔を見て、生きていてくれてよかったと言わんばかりに少しだけ微笑んだが、それから私の後ろにある崩れた家を見て、悲しげな表情になった。そして、聴きづらそうに私に聞いてきた。
「……ご家族は?」
私は黙って家族がいる方を指差した。大野さんは私の指先をゆっくりと眼で追うと、瓦礫の山に踏み込んでいった。大野さんが私の前から離れるとまた涙がにじみ出てきた。一日中泣いていたというのに、私の涙はまだ枯れないというのか。
少し時が経って私の涙がまた落ち着いたころに、大野さんは瓦礫の山から降りてきた。見ればその瞳には涙が浮かんでいる。そんな大野さんの顔を見ると、落ち着いていたはずの涙がまた一気に溢れだしてきた。
「辛かっただろうに、辛かっただろうに」
大野さんは私のもとまでやってきて、私の肩を優しく抱いてくれた。大野さんの洋服からは、祖母の家に行った時と同じような臭いがした。その臭いがなんだか心地よくて、懐かしくて、ぐちゃぐちゃになった私の心はなんだか落ち着いた。心が落ち着いてくると、涙がどんどん溢れだしてきた。私は大野さんの身体にしがみ付いて、ただひたすらに泣いた。
しばらく泣いてやっと落ち着いた私に、大野さんは暖かいココアを作ってくれた。大野さんのリアカーにはやかんなどの調理品や食料が積んであった。焚火をたいてお湯を作り、そのお湯でココアを作ってくれたのだ。焚火の燃料は、私の家の破片を使った。
暖かいココアを一口啜って、私は隣に座る大野さんに問いかけた。
「一体何があったんですか」
大野さんは眼の前の宙を見つめていった。
「……空爆じゃよ」
「空爆? どこの国の?」
「それはわからん。……ただ、一つ分かっているのは、それがどこの国からの空爆であっても、あまり関係がないということじゃ。世界中がおかしくなっているということに変わりはない。ラジオでは、第三次世界大戦が始まった、なんて言っている輩もおる」
「……第三次世界大戦」
「そうじゃ。といっても、最早戦略も何もあったもんじゃないがな。天災からくる恐怖や焦燥に駆られたどこかの国の馬鹿どもが、誰の許可もなくミサイルを放ちまくった。それが火種となって、意味のない戦争が始まったのじゃ」
「……ひどい」
「本当じゃよ。本当にひどい。何の罪もない人間が、ほんの一部の馬鹿な人間のせいで死んでいく。こんなに馬鹿げた話はないわい」
そういって、大野さんは大きくため息をついた。私もつきたい気分だったが、大野さんの引いてきたリアカーを見て、ため息よりも先に疑問が生まれた。
「そういえば、大野さんはどこに行くんですか?」
「瀬戸小学校の体育館じゃ。そこに生存者がいるらしい。わしの食料をわけてやろうと思ってな」
「生存者……」
その言葉を聞いて、私の中にかすかな希望が生まれた。
「そうじゃ、ラジオの地域別放送でそう言っておった。ここら一帯の生存者はそこに避難しておる。体育館が無事だったらしくてな」
「大野さん、ラジオを貸してくれませんか?」
「別に構わんが、大した放送はやってないぞ」
「私もその、地域別放送が聴きたいんです」
次の日の朝、大野さんに毛布を借りた私は、それに包まって玄関の前で朝を迎えた。大野さんはもう、瀬戸小学校の体育館に向けて出発していたので、私は一人で朝を迎えた。
半身を起して、頭に触れる。やはり少し痛んだが、大野さんが薬を塗って包帯を巻いてくれたので痛みはだいぶひいていた。私は立ち上がって、背筋をグッと伸ばした。
私は我が家を振り返る。崩れてしまった我が家。私が生まれ、今までの一八年間をずっと過ごしてきた家だ。そんな我が家に頭を下げ、私は左を向いた。玄関の左手には、塀に囲まれた小さな庭がある。今は塀こそ崩れてしまったものの、そこには木片で作られた十字架が三つ、ちゃんと並んで立っていた。
この十字架は、私の家族の墓だ。昨晩、私は大野さんに手伝ってもらい、家族をそこへ埋葬した。本当はちゃんとした形で葬ってあげたかったけれど、世界がこんな状況で正規の埋葬なんて無理だろう。葬儀屋が生きているかどうかさえわからない状況なのだ。だから私は自分の手で、愛する家族を埋葬した。最も親しみのある場所に、家族を埋葬した。
家を出る時、ちゃんと家族の言うことを聞いていたら。私は昨日、そんな後悔の念に散々悩まされた。家族は正しいことを言っていて、私は完全に間違っていた。しかし、間違っていた私が生き延びてしまった。もし、家族と一緒に眠ることができたら、どんなに幸せだっただろう。どれだけの苦しみから解放されただろう。私はそんなことを何度も考えたのだが、最終的にはそう考えることが家族に対する愚弄だと思って、やめた。私は生き残ってしまったのだ。その事実は私がいくら考えたところで変わらない。
私は三つの墓標に頭を下げた。今まで、本当にありがとう。そして、ごめんなさい。頭の中でそう呟いて、頭を上げる。少しだけ涙がにじみ出た。その涙を拭って、私は深呼吸をした。
「行ってきます」
今度は声に出して呟く。その言葉だけを残し、私は廃墟の町に向き直った。
「本当に、来ないのか」
昨晩、私は大野さんのそんな質問にゆっくりと首を振った。
「小学校には行けません。私には行かなければいけないところがあります」
私の言葉に、大野さんは顔をしかめる。その顔には、無謀だ、という文字がしっかりとにじみ出ていた。
「生きているかもわからないんだぞ。それに、ここから徒歩で錦町に行くとなると何日かかるか分からない」
「わかっています。でも大野さんのラジオでは、錦町でも生存者が体育館に避難していると言っていました。それも、かなり多くの人数が。私はその人たちの中に、彼が含まれていると思っています」
「仮にその子が生きていたとしても、シホちゃん、君がそこまで辿りつけるとは思えない。もう丸一日以上何も食べていないのだろう。水分だってまともに取ってない。今君が錦町に向かっても、……言葉は悪いが、途中で野たれ死んでしまうのが関の山だ」
「それでも、私は構いません。体育館に避難したって、いつかは絶対に食料が尽きてしまうでしょう。何もしないで死ぬくらいなら、私は最後に、心からの告白をしてくれた彼に返事をするための努力をしたい」
私は大野さんの目を真剣に見つめてそういった。すると大野さんはため息をついて立ち上がり、リアカーの方へ向かっていった。そして荷物の山から何かを探り出し、それを私に渡してきた。受け取ってみると、それは菓子パンと、ペットボトルに入った水だった。
「……これを食べて、飲んで、一晩だけでいいから休息をとっていきなさい」
そう呟いた大野さんは、目じりを下げてにっこりとほほ笑んでくれた。パンと水を受け取った私は、渇きを癒すために一気にそれを口へと放りこんだのだった。
「ありがとう」
廃墟の町を見つめた私は、ただそう呟いた。その言葉には、家族や大野さんや、自分を育ててくれた町、それと、自分みたいな馬鹿女を本気で愛してくれたタケルへの気持ちを込めた。それが、何らかの形で皆に届けばいいな、そう思った。
――いや、違う。皆にではない。タケルには自分で届けるのだ。自分の口から、ありがとうと。そのために私は走りだす決意をしたのだから。タケルは必ず生きている。きっと私のことを待ってくれている。私の返事を待っている。
私はタケルの顔を思い浮かべる。微笑んだ顔。よくよく考えれば、彼の笑顔には何度も助けられたものだ。私が辛い時、悲しい時、一番私に声をかけてくれたのは女友達でも家族でもなく、タケルだった。冷静に考え直してみれば、彼はただの幼馴染以上に、私のことを思ってくれていたじゃないか。
私は目を閉じた。そして大きく伸びをして、深く深く深呼吸をした。次に屈伸をする。こう見えても私は中学時代、陸上部だった。高校でも引退するまではバレー部でずっと身体を動かしていた。体力に多少自信はある。軽い準備運動をすると、その自信が蘇ってくる。
私はゆっくりと目を開く。
そして、私は廃墟の世界へと走り出した。
いつも私が学校へ通う線路に沿って走り、崩れた風景を追い越して行く。遠くの空にどこかの国の飛行機が舞い、反対側の空で山が火を吹く。
世界は終わってしまった。私の愛する世界は、終末を迎えてしまった。
だけど、私はまだ生きている。こうして走り、胸に苦しさを覚えている。数日前までただの幼馴染だったやつに、なんだかよくわからないけど、心がときめいている。胴の横で腕を前後に振って走るたびに、中学時代、タケルと一緒に走り込みをした懐かしい思い出が蘇ってくる。そういえば、あの頃はタケルのことを私から誘ってたっけ。ずっと一緒にいたい、理由のつかない感情が私の中にあったっけ。そっか、私はあの頃から、タケルのことをずっと気にしていたんだな。
全速力で走れば、胸はどんどん苦しくなってくる。胸がこんなに苦しくなるなんて、何年ぶりだろう。こんなに真剣に走るのなんて久しぶりだ。酸素と二酸化炭素の交換が頻繁になり、心臓が打つ鼓動はどんどんペースを上げていく。崩れた建物を通り越すたび、それは激しさを増していく。しかし、少しも嫌な感じは少しもしなかった。きっとそれは、今自分の胸を苦しくさせている原因の一つに、タケルに対する強い想いがあるからだと思う。
長時間走り続けていると、胸の中から段々と苦しさが抜けていき、なんだか気分がよくなってきた。そういえば、この現象が起こるのだってすごく久しぶりだ。
ランナーズ・ハイ。マラソンなどで長時間走り続けていると、気分が高揚してくるという現象だ。今の私はまさにそれだった。苦しさの中に、何だか心地よさを感じている。それが引き金になってか、私は誰に言うわけでもなく、声をあげて言った。
「待っててよ、タケル。待ってるって約束したんだから。
死んでたりしたら、許さないわよ!」
全速力で走りながら、なぜか私は微笑んでいた。
私の中では、もう彼に対する返事は決まっていた。