幸運に操られて
私、シモン・リーフは、まず有能と言っていい特別捜査隊員である。
特別捜査隊員などと言えば何やら聞こえはいいが、その職務は決して一般の民間人に知られることはない。その功績もごく一部の人間以外に知られることはない。
「さて、シモン。今回の依頼だが……」
受話器の向こうから、聞き慣れた声が言った。
依頼主と私との間の連絡は、リー・アンクランシスの役目である。
彼は、この国の統合参謀本部議長を務める役人だが、それだけではない。私のような非公式の立場の人間とも繋がりがあるのだ。
彼が私の許へ持ち込む依頼は、多岐にわたる。依頼人もその内容も。
依頼人を言えば名前を聞いたこともない一市民から大統領まで。内容と言えば単なる見張りから身辺調査、盗難品を取り戻したりすることもある。まあ、大統領級の高官から依頼が来ることでも、私の能力が認められていると考えられる、はずなのだが、そのことについて私はあまり触れたくない。
「聞いているのか、シモン」
私がいつものようにふてくされていると思ったのだろう。事実そうだから、私はことさら厭味とわかるように厭味をぶつけた。
「ああ、聞いてるよ、リー。あんたの喋り方は嫌でも耳に入ってくる。心配するな」
「謙遜だな、シモン。それは、お前の仕事に対する情熱というものさ」
……駄目だ、相手が悪すぎる。
「それでは、よろしく頼む。報酬は五万USドル。前金として半分、残りは成功報酬だ。いつも通りクライアンスのお前の口座に振り込んでおく」
「わかった」
不機嫌さを隠そうともせず、私は受話器を置いた。ひとつ溜め息を吐いてから、脚を組み替える。デスクの上のグラスを取り、紅玉色の液体を一気に飲み干す。灼熱の液体が体内を熱く灼いていく感覚を、いつものような心地よさで迎えることもできない私の耳に、不意に若い声が響いた。
「大人げないなぁ、シモン」
声が起こったのは私の左手、書斎の入り口からであった。アイスブルーのカーペンターパンツからフェードブルーのシャツを出して佇むのは、私の「有能」な助手であるラリー・エヴィダンスだった。ラリーの姓は、証拠とか形跡とかの意味ではなく、れっきとした本名だ。当年とって十九歳の若者だが、私がこんな若年の助手を持たざるを得なかったのには、多少の理由がある。が、そのことにも私はあまり触れたくない。
まったく、リーといいラリーといい、名前が似ているだけでも鬱陶しいのに、私に対する接し方まで……やめておこう、これ以上酒量を増やしても健康上にも経済的にも利点はない。
「おい、こら。何とか言ったらどうだ」
私が何も答えないので、ラリーはまた口を開いた。デスクに近づいて、いきなりそこに跳び乗る。デスクの上で私と同じように脚を組みながら、まじまじとこちらを見つめる。その瞳に悪戯っぽい光が宿っていることを、私はこれまでの経験から知っていた。
「ラリー。いいか、ひとつ言っておくぞ」
私はグラスを置いて助手に向き直った。残ったワインが軽く波打ち、紅の煌めきを放つ。この際、言うべきことははっきり言っておいた方がいい。
「お前は助手で俺がボスだ。そこを取り違えるんじゃない」
確かにはっきり言った。私が考えた通り、一字一句違わず、私とは別の声が。
目の前には愉快そうに笑っているラリーの顔があった。
「あはは、シモンの考えなんてお見通しだよ。まあ、いつもぶつぶつ言ってりゃ、誰にだってわかるけどね」
確かにラリーとの付き合いはそんなに短いものではない。かれこれ四年近くになる。しかし……。
「そんな顔しないでよ。何か悪いことしたみたいじゃないか」
ラリーは眉根を寄せたまま私の顔を覗き込んだ。
「それで、議長は何て?」
ラリーの言う議長とは、無論、リー・アンクランシスのことだが、私はそんな呼び方を認めた覚えはない。第一、普段はともかく、いざという時に私のことを……駄目だ、どうも愚痴が多くなる。
……特別捜査隊員という話からいささかレベルが下がったが、私は人間運に恵まれていないので、思考が低レベル化することもあるのだ。
そこへ、ラリーがいきなり私の額を指で弾いた。
「痛っ、何するんだ、お前⁉️」
「何、無視してんの?」
「誰も無視なんかしちゃいない。考え事をしてただけだ!」
「ふうん、一人で? 仕事に関して、助手を除け者にしていいと思ってんの?」
傍から見たらどっちが助手かわかりゃしない。そんな考えが私の脳裏の片隅にちらついた。
いやいや、断じて違う!
「ラリー、頼むから頭の中を引っ掻き回さないでくれ。お前にはちゃんと話もするし、行動するのも一緒だ。俺にはお前の力が必要だし、お前だってそうだろう。だから、邪魔だけはしないでくれ!」
助手相手にいささか情けないかも知れないが、ラリーと実際に対面すれば、いつも冷静で我が道を行くあのリーですら、苦笑して道を譲らざるを得ないのだ。この苦労が他人にわかってたまるものか。
「へえ、シモンも素直になったね。助手としても嬉しい限りだなぁ。で、依頼ってのは?」
私の気持ちなど微塵も気にせず、ラリーはあくまで快活に言葉を続ける。私としてもこれ以上時間を浪費するつもりはなかったので、すぐにリーの持ってきた依頼について話し始めた。
依頼主は女性。姓名に関してはフランソワ・J・シールズということだが、おそらく偽名だろう。身分のほどはわからないが、五万USドルと言えばそれなりの額ではある。年齢は二十代半ばから後半にかけて。これはリーが直接確認しているから間違いない。無論、依頼人と対面する訳ではない。リーの顔は知られ過ぎている。
特殊なルートで依頼が来ると、それからリーがその整合性を確かめるために依頼主に接近するのだ。決して正体を知られることはない。そのあたり、リーは恐ろしいほど巧妙である。
相手が著名人であれば、そこで依頼主の素性が判明することもある。だが、名もない市民であれば、その段階では依頼内容の信憑性を完璧に整合させ得ないことの方が多い。一層立ち入った調査も可能だが、それはリーの好むところではない。曰く「プライバシーの侵害」である、と。それには私も全面的に賛成だった。ごく少ない、彼と私の共通点だ。
「で、そのどこかのご令嬢は何を望んでるの?」
ラリーが興味深げに尋いてきた。どうも仕事に対する緊張というものが感じられない。いつものことなのだが、私はそれについては何も言わなかった。ここで脱線すれば、また無駄に時間を費やすことになる。私の名誉のために言う訳ではないが、決してラリーの毒舌に怯んでのことではない。
ラリーの仕事に対する熱意については触れず、私は依頼についての話を続けた。
フリッツ・エドワルド・リーバーの名を聞いた時、ラリーの目に嫌悪の二文字が踊るのを私は見て取った。私もリーからこの名を聞いた時に、同様に気分を害した。
フリッツ・エドワルド・リーバーの名は、よほど世間から隔たった山奥にでもいない限り、普通に情報を得ることのできる社会人であれば知らない者はいないであろう。ここ数年で世界の大富豪に名を連ねるようになった四十六歳の実業家である。
だが、実業家としての範疇を越えて、彼が裏で何をやっているか、衆目の知るところであった。国内外のマフィアと繋がり、多くの犯罪に関わっている。実業家として名を成すまで、一体何人を犠牲にしてきたのか見当もつかない。いや、名を成した後の方がより悪辣かも知れない。どちらにせよ、真っ当な生き方をしていないのは確かだ。
完全な証拠は実に巧みに隠されていた。彼を逮捕し得ないのは、当局が無能という訳でもないだろう。ただ、相手の方が一枚上手なだけだ。
依頼主が望むのは、彼が所有しているらしい一枚の金貨だった。その金貨は、正統な所有者の元に戻るべきだと言うのである。
「金貨が依頼主のものだっていう証拠は?」
ラリーが私に尋ねたが、この点に関しては本来、私たちの関与すべきことではない。そういうことに関しては、私のところへ回って来る以前にリーが確認することになっている。我々の担当はあくまでも行動することだ。
ただ、私としても良心というものがある。単に報酬だけで動く気はなかった。リーには、いつも事前調査の内容に関して知らせるよう言ってある。今回も彼の仕事は完璧だった。性格はともかく、仕事に対する彼の能力は認めざるを得ない。
「依頼主は六年前、その金貨を欧州で入手したらしい。リーによると、依頼主の話に間違いはない。欧州にまで手を回して調べたそうだ」
「へえ、いつもながら遣り手だねぇ、議長は」
「それぐらいじゃなきゃ、統合参謀本部議長なんぞ務まらんさ」
さり気なく言って、私は後悔した。
ラリーはどういう訳か、私とリーのことを年齢の離れた親友のような関係だと考えているらしい。ちなみに私は今年で二十四歳、リーは四十一歳である。今の言葉もラリーはその表れと受け取ったらしい。何やらにやにやと意味ありげに笑っている。
確かに仕事の上ではラリーと同じくパートナー的な存在だが、私は私的な立場で決してあんな奴と付き合いたいとは思っていない! 人の心に土足で上がり込み、さんざん重労働させておいて、ご苦労さんのひと言で終わり。冗談じゃない。しかし、何度言ってもラリーはそれを信じようとしない。それどころか、この前など「喧嘩も一人じゃできないってねぇ。こないだ読んだ小説にあったよ」ときたから堪らない。
「いいか、ラリー。何度も言うが、俺はリーと仕事以上の付き合いをするつもりはないんだ。変な誤解はしないでくれ」
私はできる限り忌々しそうに言って見せたつもりだが、ラリーはまったく気に留めた様子もなかった。「はいはい」などと言いながら、デスクから跳び下りる。
「それで、その金貨はどういうものなの?」
棚に並べたワインのボトルを眺めながら、ラリーはごく自然に話題を戻した。人を掻き回すことにかけては、ラリーを超える者などそういないだろう。
私は多少強引に気を取り直して、依頼について詳しく話し始めた。
ことの発端は六年前、自称フランソワ嬢が欧州を旅行した時のことである。当時、彼女は大学で歴史学を専攻しており、その研究の一環としてかねてから興味を抱いていたイタリアを訪れたのだ。彼女は中世の古城や史跡を巡り歩く中で、寂れた宮殿跡に立ち寄った。その朽ちかけた宮殿跡の壁に、樹齢五百年には達するかという大木が根元から倒れ込んで、新たな破壊の跡を作っていたという。彼女が訪れる数日前に大風があったのでその所為だろうというのが彼女自身の憶測らしい。
近づいてみると、打ち壊された壁の一部に何やら空洞らしきものが穿たれていたというのだ。彼女は瓦礫に混じって何かが埋まっているのを見つけた。そうして、彼女は小さな木箱を手に入れた。木製の古ぼけた小箱は、精緻な装飾用の彫刻が刻まれてはいたが、泥と埃に塗れていてさして値打ち品とは思えなかったそうだ。箱には鍵も何もついておらず、苦もなく蓋は開いた。そこから、一枚の金貨が転がり出た。
随分と古そうな金貨で、表面には木箱以上に複雑な刻印が刻まれており、博物館か警察に届けようかとも思ったらしいが、結局は彼女はそれを持ち帰ることにしたのだ。せっかく手に入れたものを手放したくないと思ったのか、彼女は金貨を木箱に入れたまま帰国した。
帰国後も特別に金貨を鑑定に出すつもりもなく、部屋の片隅に放っておいたようだが、そこには放置された宮殿跡とはいえ外国での拾得物を勝手に持ち帰った後ろめたさもあったのであろう。とにかく、彼女はしばらくすると金貨の存在自体を忘れ去ってしまっていた。
そのうち、彼女の周りでおかしなことが起こり始めた。
まず最初に、何かのキャンペーンの懸賞に応募しておいたものが見事に当たって、海外旅行と車を貰った。次に、大学で発表した研究論文が高い評価を得て、後の研究において大学の全面的なバックアップを得ることに成功した。その直後に出版した歴史紀行本がベストセラーとまではいかずともそこそこに売れて、かねてからの夢の一部を叶えた。
この段階では、彼女は別に金貨との繋がりなど考えもしなかったらしい。
それからの彼女は、まさに幸運の女神に取り憑かれたようだったと言う。やることがすべて上手くいき、彼女は瞬く間にその年齢からは考えられないほどの財産と学会における名声を手に入れていた。
そんな我が世の春を謳歌していたある日、彼女の家に強盗が入った。当日、彼女自身は外出していたが、どうやらその隙を見計らっての犯行であったようだ。だが、優秀な警備システムのおかげで犯人はすぐに捕まり、盗まれたものも取り戻せた。ただひとつを除いて。
彼女は、イタリアで手に入れた金貨のことを思い出した。あの金貨を入れた木箱だけが見つからなかったのだ。警察が犯人を問い詰めても知らないの一点張りで、彼女もそれ以上執着しなかったので、捜査も打ち切りとなってしまった。
被害も大したものではなかったので、しばらくして犯人は執行猶予付きで釈放された。それから、彼女はその犯人とは一度も会っていないそうだ。
だが、それからの彼女の生活は散々なものだったようだ。度重なる論文の誤謬、信頼の失墜、車の事故、身内の急死。それまでのつけが一度に回ってきたかのような災厄続きである。一年も経たないうちに、彼女の手元には以前と同じ程度の財産が残るだけとなっていた。マイナスになっていないだけ、まだましという状態だったと言う。そんな失意のうちに彼女は大学を卒業し、ごく平凡に就職し、ごく平凡な生活を送るようになった。一度は掴みかけた売れっ子歴史作家という夢に再び挑戦する気力は、すでになかった。
その頃から、例のフリッツ・エドワルド・リーバーは、国内だけに留まらず全世界に名だたる大富豪として知られるようになりつつあった。それまでのリーバーは、そこそこ名のある悪党として知られていた。証拠を残さぬ名人として、である。それなりの財産は所持していたが、ゴッド・ファーザーには程遠く、あくまで小悪党の域を脱しはしなかった。そんなリーバーが、急激に資産を増やし、各界に影響力を持つようになってきたのである。
それを知ったフランソワ嬢の脳裏に、ひとつの想像が浮かんでも不思議はないだろう。かつての自分とリーバーの姿を重ねたのだ。
彼女は探偵に依頼して、フリッツ・エドワルド・リーバーの身辺調査を行った。彼女の家に強盗に入った男と繋がりがあるのではないかと考えたのだが、さすがに国際警察が手を焼くだけあって、リーバーの身辺は堅かった。しばらくして、依頼した探偵は身の危険を理由に仕事を降りた。
彼女は得るところがなかったが、思わぬ形で確信に至ることになる。テレビに出演していたリーバーを見て、思わず叫んだと言う。それは何か全国の大富豪とやらの特集で、彼の自室からの中継だったらしい。
そのくだりを知って、私は思わず苦笑してしまった。どこの世界に自室でテレビ出演する悪党がいる。それこそが、リーバーが所詮はただの成り上がりの小物である証拠であろう。
ともかく、そこに映った豪奢な大理石のデスクの上に、あの木箱が置かれているのを彼女は確かに見たのだ。
もはや疑う余地は皆無と彼女は判断した。あの金貨には、持ち主を幸運に導く力があるのだ。安っぽい幻想物語のような話だが、しばしば現実は架空の物語より安っぽくてちゃちなものである。
その結論に達したフランソワ嬢が、金貨を取り戻して失われた再び招きたいと思うのも当然のことであろう。成功すれば、五万USドルなど安いものだ。
だが、と思わないでもない。
私に言わせれば、彼女が金貨の正統な所有者という訳ではないはずだった。本来の筋から言えば、その金貨はイタリアの当局に提出されるべきものであるはずだ。歴史的に貴重な品であれば、博物館なり美術館なりに管理されて然るべきであろう。まあ、私たちはそこまで口出しする必要もないのだが、その一点においてのみでもフランソワ嬢に歴史を云々する資格はないと思うのは、私の僻みなのだろうか。
「その放送ってのを見てみたいね」
依頼の概要を話し終えると、ラリーが口を開いた。
「大丈夫だ。すぐにリーから送られてくるさ。その辺の手抜かりがあったら、存分にいびってやる」
「……やっぱり、シモンって大人げないないなぁ」
私の抗議の口を塞ぐように、訪問を告げるベルが鳴った。おそらくはリーからの使いであろう。仕事の性質上、リーからの連絡は一般の手段を使用する訳にはいかないため、リーの手の者が務めることになっている。とは言え、彼らも自分の運んでいるものが何なのかまでは知らない。あくまで中継役に過ぎない。私たちのこともリーの私的な関係者程度の認識であろう。私やラリーは、どこまでも陰の存在である。そのあたりの徹底は、こういった仕事ではし過ぎるということはないのだ。タイミングから、彼らの訪問であろうことは疑いなかった。
「ああ、出ます、出ます」
ラリーがいそいそと部屋を出ていったのは、助手としてのせめてもの働きのつもりであったろうか。
そう思った途端に、ラリーは勢い込んで部屋に飛び込んできた。
「ボス、ボスッ! ねぇ、ボスったら!」
これだ!
普段はともかく、興奮すると不意にラリーは私のことを「ボス」などと呼ぶのだ。どうも自分が映画やテレビの安っぽい探偵物の登場人物にでもなった錯覚に陥っているようである。おかげで私までつられて、つい口をついて出る始末だ。
「いつも言ってるだろう! そう呼ぶんじゃない! どこぞのマフィアやギャングじゃあるまいし……」
そう言いさして、私はラリーの手にあるものを見て絶句してしまった。正確に言うとその一部に、だが。
ラリーの左手には封筒と便箋数枚に写真が一枚、それにビデオテープが一本。そして、右手には……札束。一〇〇USドル紙幣が少なくとも二〇〇枚、二万USドルの札束である。
ラリーはそれらをデスクの上に並べた。一通り見回した後、私は取り敢えず手紙へ目を通した。それは紛れもなくリーからのものだった。電話で依頼を伝える時に話せばいいものを、いつもこうして別々にことを進めるのは、リーの悪癖である。無論、私は気に入ってなどいない。
読み終えた手紙を無言でラリーに手渡してから、次に写真を手に取る。そこには一般的には美人の部類に入るであろう女性が写っていた。眉目は秀麗でやや硬質的、肩下まで伸ばした髪は少し濃いめの金髪。好みの問題もあるだろうが、恋愛対象にはなりそうもない。リーの手紙によると、依頼主である自称フランソワ・J・シールズ嬢ということだった。
問題の一〇〇ドル札の方はと言うと、ラリーと二人で算えたところ、二二六枚あった。二万二六〇〇USドル。リーから必要経費が送られてくるのはおかしなことではないが、こんな多額は初めてだった。五万ドルの仕事とは言え、もっと大きな仕事の時でも初めからこんなことはあり得なかった。
「何のつもり……いや、どういう風の吹きまわしだ?」
「この前のお詫びのつもりだったりして」
ラリーがぼそりと呟いた言葉に、私はふと思い出して首肯した。前回の仕事の折には、最終的に経費が支給されなかったのだ。仕事を終えてからまとめて請求したら、いつも払っているから今回は遠慮してくれ、ときたのである。
さすがに私も頭にきた。確かにさほど大きな仕事ではなかった。だが、危険がなかった訳でもなく、多少ならぬ費用もかかったのだ。それを「遠慮してくれ」のひと言で終わらされてたまるものか。無駄に金銭を遣った覚えはないし、やることはやっている。向こうも支払うものは支払ってもらわなければ。こちらはボランティアでやっている訳ではないのだ。
「冗談じゃないぞ、リー! 必要な分はちゃんと払ってもらう。さもないと、二度と仕事なんぞやらんからな!」
怒りのままに叫んだ私に向かって、リーは腹立たしいほどに泰然と言い放った。
「そう興奮するな、シモン。身体に悪いぞ。まあ、お前の言いたいこともわからんではないが、今回は引いてもらうしかない」
「何故だ⁉️ 理由を聞かせてもらおう!」
「ん? 理由か。そうだな、よかろう。実を言うとな、シモン……」
「……」
「近頃、お前は少し贅沢になってきたようだからな。趣味のワインも随分買い込んでいるようじゃないか。少しは世の荒波に揉まれることも必要だと思うのでな、精進しろ。はっはっはっ」
呆然とする私を尻目に、リーは笑いながら後ろ姿を見せたのである。以来、その件に関して私は一切触れていない。
「そうか、あの時の……。だが、あのリーがこんなことをするか?」
猜疑心満々という体の私に、ラリーが口を尖らせる。
「まったく……人の好意を素直に受け取れない人は、ろくな死に方をしないんだってさ」
「今度は何だ、また小説か? それとも新聞、いや、映画か?」
ラリーの知識面から運動面まで異常に幅広い。知識で言うと新聞は複数紙を欠かさず読んでいるし、読書量も豊富だ。映画もよく観に行っては、私にあらすじなどを教えてくれる。そういった経緯から、私はそこそこいい線をついたつもりだったのだが……。
「隣りのばあちゃんが言ってたんだよ」
……私は何も答えなかった。
無言のまま立ち上がってビデオをセットすると、ラリーはテレビの正面のソファに腰を下ろしている。こういう場合、普通は助手が準備するのを私が見ているものではないだろうか。
リーから送られてきたビデオは民営の放送をそのまま録画したもので、多少ノイズを含んでいた。まったく、ビデオぐらいまともな品を使えばいいものを。
それにしても、やはり実際にテレビに出演している様子を見る限りでは、リーバーはさほど大した相手ではないようだった。テレビカメラに向かって、肥満ぎみの顔で自慢げに調度の品を説明して回っている姿は、どこまでもただの新興成り金にしか見えない。
映像を確認して、どうやらそれらしい木箱を見つけると、さっそくラリーと相談してリーバーの屋敷への侵入計画を立てる。
何度もビデオを巻き戻し、可能な限りリーバー邸の様子を分析する。通常、下調べのために現地まで足を運ぶことも珍しくないのだが、今回はその必要はなかった。ご親切にも、リーバーはその放送の中で建物の構造から庭園の広さ、警備システムに至るまで、これからアポなしで訪問する我々のために事細かく説明してくださっていたのだ。加えて、リーから送られてきた資料の中にリーバー邸の配置図と見取り図も含まれていた。このあたりの資料も、リーの手にかかれば入手するのにさほどの労力はかからないのだろう。
無論、すべてを信用するのは危険極まりないが、少なくとも現地を訪れて調べる程度のことは充分に情報収集できた。
木箱が映っている部屋から割り出した最短侵入経路と、非常時に備えての複数の脱出経路、その他諸々の綿密な計画を立てる。ひと通りの準備が片付いた時には、すでに陽は大きく西に傾き、東の彼方からは群青の帳が進出し始めていた。
職業柄、と言っていいものか、天空が暗くなるにつれ、私の精神はほどよい緊張状態になってゆく。その緊張が精神領域から肉体へと移行し、全身の筋肉に力が湧き上がるイメージ。私にとって、これから危険を伴う仕事へと向かう、それが最高の状態であった。心地よい充実感を味わっていた私の聴覚器官に場違いな声が入り込んできたのは、ちょうどそんな時だった。
「ねぇ、シモン。免許が見当たんないんだけど、知らない?」
「……お前、この前、一番安全だとか言って俺のデスクの抽斗に入れてただろうが」
「ああ、そうでした、そうでした」
いそいそと抽斗から免許証を取り出す助手の姿を溜め息を堪えて見ていると、不意にその目がこちらを向いた。
「なに、ぼうっとしてんの? 早くしなきゃ、夜が明けちゃうよ」
「……」
どうも今日の仕事は先行きが怪しいようだ。私の耳には、全身から一気に力が抜けていく音がはっきりと聞こえていたのだから。
私とラリーは、その夜、雲が地上に落ちる月光を遮る中、愛用の四輪駆動車を四時間ばかりとばして、リーバーの屋敷を訪れた。無論、招待されて、ではない。
二人とも闇に隠れやすいように黒いボディスーツに身を包んでいる。私はウエストに巻くタイプ、ラリーは背負うタイプの多機能バッグに種々の仕事道具を詰め込んで、どこから見ても泥棒稼業である。
リーバーの屋敷は、周囲数キロに及ぶまさに大豪邸だった。門から玄関までが、あのビデオの説明によれば七百メートルということである。
赤外線スコープの付いたゴーグルで見ると、屋敷を取り巻く塀の上は赤外線センサーで包囲され、一分の隙もない。その量と密度は過剰とも言えるほどだ。よほど心に思うところがあるのであろう。鼠一匹通れないとはこのことだ。だが、鼠ではなく人間は通れるのだ。少なくとも私とラリーは確実に。それこそが、私たちが特別捜査隊員などをやっている理由だった。
私たちはあらかじめ選んであった侵入ポイントへと向かった。塀の向こうに大きな楡の木があるのが目印だった。
いつものことだが、まずは発見されることなく塀を越えるのが第一の関門だ。
「どうだ、ラリー?」
私の問いにすぐには答えず、ラリーは塀の一点を凝視している。数秒の沈黙に続いて、ラリーは息をついて私に向き直った。
「大丈夫、誰もいないよ」
私はラリーの言葉を確認してから、塀に手を当てて意識を集中した。ラリーの沈黙より長い時間をかけて、私は意識を集中し続けた。手を添えた塀の一点に。
不意に私の手に触れる塀の感覚がなくなった。そのままさらに意識を集中し、その範囲を拡大する。見る間に塀の一部に歪みが生じ、その向こうの景色が見え始める。初めはわずか数センチの穴だったものが、一秒ごとに拡大してすぐに人が通れるだけの通路が完成した。
「よし、いくぞ」
肩越しにラリーに囁いて、私はリーバー邸の広大な敷地へ踏み込んだ。ひっそりと静まり返った庭園は私たちの先入観を大いに刺激して、奇妙な不気味さを感じさせた。
私の後に続いて、ラリーもすぐに塀に生じた通路を通って庭園内に踏み込んだ。その背後で、しばらくしてから不自然に歪んで透けた塀は元の硬質な石造りの塀へと戻っていった。
私が、いわゆるお偉方であるリー・アンクランシスの元で特別捜査隊員をやっている理由。それは私の身体が有する超常的な能力によってである。
物質の透過、あるいは一時的な消失。どういう原理かは私にもわからないが、この一般的にいう壁抜けのような技も私の能力のひとつだ。
そして、我が助手ラリー・エヴィダンスもまた、私と同類の力を持った人間である。さしあたって先刻の能力は、おあつらえ向きに透視能力という表現がある。
こう言うと、小説や映画に出てくる超能力者のようだが、実際は少々勝手が違う。私の透過能力はその対象が一・七メートルまでで限界に達するし、ラリーの透視能力も二・二メートルまでが限界である。我々の能力にはすべて制限があるのだ。しかもお互いの能力はまったく重複していないからおかしなものである。私には物質を透視する能力はないし、ラリーは物質の透過はできない。
だが、少なくとも誰にでもできるという芸当ではなく、私の能力だけでも大抵の警備システムは突破可能である。事実、私はラリーに出会う以前は一人で仕事をこなしていたのだ。当然、危険な目に遭うことはあったが、一度も失敗したことはない。そしてラリーに出会い、その能力を得てからは私の仕事は一層楽になった。これが私が若年の、と言っても五歳年少なだけだが、助手を持つことになった理由の第二である。第一の理由は……私の頭痛の種であり、それがなければラリーが助手を務めることは、私にとってこの上ない幸運であるはずなのだが……。
私もラリーも、医学者や生物学者、あるいは物理学者から見れば、格好の研究材料だろう。だが、私の能力を知ったリー・アンクランシスは、平然として言ったものだ。
「学問は人類にとって重要だが、それは人体実験の類いを指してや人権を無視して論ずるものではない。お前の能力は研究対象としてではなく、より実益のある方面に役立てるべきだ」
私はその時、不覚にも純粋にリーを尊敬した。しかし、しばらくしてから己の間違いに気づいたのだ。彼は仁徳の士どころか、悪魔のように私をこき使い、利用するのが目的だったのだ。私が今まだ彼の下で働いているのは、決してラリーの言うような友情に基づくものではなく、ビジネスとしてである。そうだ、私は決してリーのことを友人だなどと思っていない!
……ともあれ、私とラリーは邸内への侵入に成功した。塀に開いた通路はすでに完全に閉じており、怪しげなところはどこにも感じられない。これも私の能力の制限のひとつだが、透過させた物質は三十秒ほどで閉じてしまう。それを調整することは私にはできない。したがって、通路が閉じる前にそこを通らないと少々考えるのが恐ろしいことになる可能性もある。これまでそのような状況に陥ったことはないが、できれば今後もそんな状況とは無縁でいたいものだ。
周囲に何の気配もないことを確認して、私たちはすぐに行動を開始した。
赤外線スコープ付きゴーグルを被ったまま、足早に建物に近づく。監視カメラや赤外線センサーが縦横をカバーしているかと思ったが、どうやら庭園内にはそれほど厳重な警備システムを投入していないらしい。テレビでもこの大邸宅の主は塀の上の赤外線網を誇らしげに語り散らしていただけであった。
果たしてあれは本当だったのか、そう思った矢先、私の心臓が体内で跳び上がった。すぐ横の暗闇から、低く獰猛な唸り声が起こったのだ。
猛烈な敵意を感知した瞬間、私は凄まじい力で地面に引き摺り倒されていた。巨大な漆黒の体躯をぶつけてきたのは、警護犬の代表格のようなドーベルマン・ピンシェルだった。
咄嗟に首筋を庇った私の左腕に牙を突き立てようとしたドーベルマンは、その意志を達成するコンマ数秒前に激しく全身を痙攣させた。口から泡混じりの唾液を大量に垂らしながら、私の身体の上にのしかかってくる。完全に気絶していた。
黒く大きな体躯を押しのけて立ち上がると、ラリーが右手首を軽く振りながら片目をつむって見せた。
そう、今のも我が助手の能力のひとつである。筋力の瞬発的な爆発。たかが手刀の一撃であっても、その威力たるやなかなか凄まじいものがある。その気になったラリーの筋力は、巨漢のレスラーをも軽く凌ぐほどだった。全力を出さずとも、どんなに屈強な男であってもまず気絶は免れないだろう。少なくとも、私は能力を解放したラリーと正面からぶつかりたいとは思わない。ラリーが助手になる前は、今のような状況をくぐり抜けるのに私は自力で格闘していたのだが、疲れる上に効率が悪いことこの上なかった。したがって、今ではほとんど任せっきりである。
ラリーに短く礼を言ってから、先を急ぐ。敷地内に警護の犬を放っているとすれば、一頭ということはあり得ない。次が来るのも時間の問題であろう。
どうにか屋敷の壁まで辿り着いたところで、私の危惧は数量を増して現実化した。
壁に手を添えた私の後方で、複数の唸り声が生じたのである。
「ボス、急いで!」
ラリーが小さく叫んだ。無論、私は急いでいた。「その呼び方はやめろ!」と怒鳴りたかったが、私の物質透過には精神集中と多少の時間が必要なのだ。
そうこうしているうちに、背後から息を詰まらせるような音が連続して聞こえた。ラリーが能力を使ってドーベルマンたちと闘っているのだ。私の手の先では、壁が消えてその向こうの部屋が出現しつつあった。
完全に通路が開いた時には、すでにラリーは五匹の犬を戦闘不能状態に陥らせていた。
「ふう……遅いよ、シモン」
肩で息をしながら、ラリーが抗議した。額には大粒の汗が玉になっている。
我々の能力に共通の制限。それは極度の肉体的疲労である。連続で使用すれば、それは一層大きくなる。
「すまんな。急ごう、閉じてしまう」
ラリーは私の後からすぐに部屋に侵入したが、さすがに申し訳なかった。その部屋には誰もいなかったので、しばらくそこでラリーを休ませ、その間に私は部屋の中を調べてから廊下に出た。部屋も廊下も、屋敷の外観に相応しいものだった。
少し屋敷の中を見て回ったが、実に広く、到底すべてを調べることはできそうもなかった。とは言え、例の放送にあったリーバーの書斎と思われる部屋はすでに当たりをつけてある。
一旦、ラリーのところへ戻ると、助手である若者はだいぶ回復していた。連れ立ってリーバーの私室へと向かって歩き出す。真っ直ぐに目的地へ辿り着くまで、ものの二分もかかっていない。私たちのポイントの割り出しは間違っていなかった。
部屋のドアノブに手をかけると、抵抗もなく回る。どうやら塀の上の赤外線センサーと生きた警護に絶対的な信頼を寄せていたのであろう。邸内に侵入してからは、まるで無防備である。
リーバーの書斎はビデオで見た通りだったが、やたら豪奢で品のない大理石のデスクの上にはあの木箱はなかった。おそらく移動したのだろうが、その行き先はどこであろうか。ラリーとの打ち合わせにはこういう展開も入っていたので、幻滅はしなかった。
私たちはリーバーの寝室を探すべく、行動を開始した。
各部屋を移動して回り、侵入する前には毎回ラリーに透視してもらう。酷使するようだが、無関係の部屋のドアを開けてわざわざ危険を増やす必要はなかった。すでにラリーは相当能力を使っているが、目的の部屋を見つけるまではやむを得ない。助手をやる以上、自分の責任は果たさねばならないことはラリー自身が認めていることだ。
ようやくリーバーの寝室が見つかった頃には、ラリーの息は相当に乱れていた。さすがのラリーも、少なくともすぐに平然と喋れるような状態ではない。
「助かった。ここからはいいから、少し休んでろ」
ラリーの耳許に囁いてから、私はノブを廻した。固い手応えが返ってきて、ノブはびくともしなかった。外は機械と生物の二重の警備システムに守られて邸宅そのものの警備は杜撰極まりなかったにも関わらず、寝室には施錠するとは、リーバーの精神構造の偏重を示しているかのようだった。自分の犯してきた罪を少しばかりは理解しているのだろうか。それとも、単に臆病なだけか。
どちらにせよ、私には関係のないことだ。私はドアに手を添えて意識を集中した。
中年男性の寝室になど忍び込みたくもなかったが、ビジネスであればそうも言っていられない。通路が開くと、急いで部屋に滑り込む。私に続いて、ラリーもすぐにリーバーの寝室に侵入した。ほどなくして、ドアに開いた通路が音もなく塞がっていく。
ゴーグルを外し、室内を見回す。やはりリーバーはよほど臆病なのだと私は結論づけた。壁と卓上には仄かに光る電灯が設置されており、周囲をたがって、仄暗く照らしている。完全な闇の中では安心して眠ることもできないのだろう。
壁際に天蓋付きの大きなベッドがあり、この屋敷の主人らしい人物が横になっている。その傍らに置かれたナイトテーブルの上に……あった!
例の木箱が恭しく置かれている。やはり、常に自分の目と手の届くところに置いているという訳だ。
どうやってかはわからないが、自称フランソワ嬢は失うまで気づかなかった金貨の秘密を、この男は知っていたのだ。そして、どこからか情報を入手して、フランソワ嬢の家から金貨の入った木箱を盗み出させたのだろう。
私は足音を殺してベッドに近づいた。
そこに横たわっているのは一見無害そうにも見える肥満ぎみの中年男だが、これまでの人生でこの男が何をやってきたか、私はリーからの情報でよくわかっていた。有力なマフィアとの繋がりで着実に闇の世界に潜り込み、邪魔者を次々と消した上でそれなりの富を得た。さらにその力を利用して金貨を手に入れ、一層強烈に敵対者を弾圧した挙げ句に世界に名だたる大富豪に成りおおせた男。それがこのフリッツ・エドワルド・リーバーであった。
したがって、私は彼の屋敷に侵入することにも、これから木箱を盗み出すことにも、罪悪感は感じなかった。いや、感じることができなかったと言った方がより的確であろう。
そんなことを考えているところで、不意にリーバーの目が開いた。私が近づいた気配を感じたのだろう。転じた視線が私のそれとぶつかると、さすがに驚愕したようだった。だが、リーバーは声を出さなかった。
ほう、と私は多少の意外さを禁じ得なかった。賊ごときの前で醜態を晒すのは、彼の矜持に反したのかも知れない。悠然と上体を起こし、私とラリーに向かって威圧的な視線を射込んでくる。
「あんたがこの屋敷の主人か」
わかりきったことを、私は敢えて質した。こちらの目的が初めから金貨にあるということを、わざわざ知らせる必要はない。
「ふん、儂の屋敷に潜り込むとはなかなかやるではないか。だが、賊ごときが儂と対等に話ができると思っておるのか。つけあがりおって」
言葉の全体から、尊大と傲慢が滲み出ている。目前の小太りの男が、それらの具象化した姿のように、私には思えた。
「てめぇの立場ってもんを考えろよ、リーバーさんよぉ。俺たちの欲しいもんはわかってんだろ? さっさと出すもん出しゃ、危害は加えねぇでやるぜ」
やむを得ないとは言え、私はいまだにこのような言葉遣いには抵抗がある。「シモンってさ、ほんとに悪漢の役って似合わないよね」とラリーが以前言ったことがある。逆よりははるかにましなはずなのだが、ラリーに言われるとどうも文句を言われているように感じてしまうのは、私の被害妄想なのだろうか。
「ふん、下衆めが。儂を相手にするなぞ百年経っても不可能だわ」
独創性もなくそう吐き捨てたリーバーの手には、枕の下から取り出した鈍い光沢を放つ黒い金属の塊が握られており、私の方に向けて突き出されていた。
「寝室に鍵といい、用意がいいじゃねぇか。それとも、あまりの敵の多さに単に臆病になっただけか?」
私の言葉は本心からのものだった。突きつけられた拳銃に対して、私は関心がなかった。こちらが気づいている限り、私やラリーにとって銃はただの鉄の塊に過ぎない。
当然ながら、そんなことを知らないリーバーは自信満々で残忍な笑みを浮かべているのも無理はない。だが、私とラリーにはわかっていた。次に来る彼の反応がいかなるものか。
「儂に向かって随分と舐めた口を利いたものだな、若造。あの世とやらに行ってから存分に後悔するがいい」
使い古された表現ばかり使う奴だ、と私は思ったが、口に出しては何も言わず、リーバーの反応を待った。傲慢な笑みをたたえたリーバーの顔は不審な表情になり、次いで青褪めた。予想通りである。
リーバーは引き金を引けないのだ。確かに引き金に指は掛かっている。しかし、彼が行動できたのはそこまでだった。私の能力によって、彼は動きを封じられているのだ。
一般的に言う金縛りのようなものである。ただし、対象は一人のみ。しかも金縛りをかけている間、私はその対象に意識を集中していなければならず、話すこともできなくなる。正確に言うと、対象そのものではなく、その周囲の空間に向けて意識を集中するのだ。私が意識を集中している半径一・三メートルの空間内では、大リーガーのピッチャーが直球でさえその進路を塞がれるのである。空気の固形化、とでも言うのだろうか。
私とラリーの能力の決定的な違いは、その対象にある。私の能力が外部の物質に対して働くものであるのに対して、ラリーのそれは自分自身の肉体に働きかけるものなのだ。
ともあれ、この能力は結構有効だ。助手としてラリーがいる限り、無理に私が話さなければならないということはない。都合のいいことに、金縛りを受けている相手は喋る程度は辛うじて可能で、ラリーに問答を任せておいて、その間、私は相手の動きを封じていられるのだ。
「き、貴様……儂、に……何……を……」
さすがの傲岸さにも亀裂が生じていた。額には大粒の汗が浮かんでいる。切れぎれの言葉は、空間の固形化によって口の動きが妨げられているためであった。
「気づくのが少しばかり遅かったね。さてと、じゃあ教えてもらおうかな」
息を整えたラリーが私の横に来て、ベッドの上で動かない身を震わせている男に向かって言った。
「金はどこにあるんだい? あと、貴金属なんかでもいいけど」
こういう時、ラリーは普段より少し声のトーンを落とす。いつもの調子だととてもではないが強盗などとは思えないからだが、どうやってもラリーが私より悪漢に見えることはないように思える。
リーバーはしばらく沈黙していた。額の汗が頬を伝って顎から滴っている。目に見えて何とか身体を動かそうとしているのがわかる。だが、その抵抗も長いことではなかった。
「ぐ……むう……や、やむを……え、まい……金、は……そ、この……書棚、の……奥の……金庫、だ……すきなだ、け……もっ、て……いけ……」
吐き捨てるように、とはいかなかった。さも忌々しげにリーバーは自由が効かない口から言葉を絞り出している。途絶えがちな言葉には威圧感の欠片もなかった。それに続いて、リーバーは不器用に舌打ちした。これは金縛りのためであったかどうか、判然としなかった。
ラリーはすぐに書棚に整頓された本を放りだして、壁の一部が隠し扉になっていることを知らせてきた。どこまでも個性のない男だという印象を持たざるを得ない。
ラリーは鉛色の金庫の扉を前にして、リーバーに開け方を尋いた。ダイヤル式でもなければカード式でもない。リーバーの動きを封じている私からは見えなかったが、ラリーはさりげなく会話の中で情報を伝えてくる。それによると、中央に液晶のような部分があるだけということだった。
「それ……は……儂、の……指紋……でし、か……反応……せん……残、念……だった、な……」
「それならそれで方法はいくらでもあるけどね。例えば指を一本もらう、とか」
リーバーの顔がひと際青褪めた。どうやら肉体的苦痛には慣れていないらしい。まあ、そうでなくともラリーの言葉を聞いて平静でいられる者はそうはいないだろうが。
「冗談、冗談。他に金目のものは?」
ラリーがあっさりと引き下がったので、リーバーとしてはいささか予想外だったようだ。不審そうな表情でラリーの顔を見ている。
「ほら、早くしないと二度と動けなくなるよ」
ラリーは上着のポケットから小さなガラス瓶を取り出した。
「早くこれを飲まないと、悪いけど一生そのままだよ」
手に持った小瓶を振りながら、ラリーはさも意地が悪そうに笑った。リーバーの目には、その姿が黒い角と翼と尻尾を生やした悪魔のように映ったことだろう。
無論、リーバーの身体の動きを封じているのは私の能力であり、薬で治る訳ではない。だが、リーバーにとってラリーの言葉は極めて信憑性を帯びたものだったようだ。私が身動きひとつせず、彼を凝視していることについて考える余裕もないようだった。
「わ、わかっ、た……そこ、の……デス、ク、の……抽、斗……を……探し……て……みろ……金、と……金庫……の……暗証……キー、が……ある……」
「OK」
ラリーの短い返答に、リーバーは汗だくになりながらもわずかに口元に残忍な笑みを浮かべたようにも見えた。
デスクに近づいたラリーは、しばらくそこでじっとしていた。そして、抽斗を開ける前に屋敷の主人に向き直って言った。
「やれやれ、陰険だなぁ。こんな仕掛けまで用意してさ」
リーバーは愕然としたようだった。これまでで最も驚いたことは確かである。
ラリーはまた沈黙してデスクを見つめていたが、そのままデスクの後ろ側に回るとなにやらごそごそと探した。再び正面に立って、今度はあっさりと抽斗を開ける。
「ほら」
ラリーが十五センチほどの長さの矢を軽く掲げる姿が、私の視界の片隅にちらついた。
なるほど。矢には毒でも塗ってあるのだろう。無造作に抽斗を開ければ、矢に射抜かれてジ・エンドという訳だ。おそらく警報装置にも直結しているはずだ。デスクの後ろに解除装置があったのであろう。
リーバーは意味をなさない呻き声を漏らした。どうしてわかったのか、と尋ねたかったのだろうが、驚愕が疑問を上回ったらしい。結局、それ以上は何も言わず、ラリーの動きを見ているだけだった。
ラリーは抽斗から現金とキーを取り出して、それを私の方へ示した。私の身体は長時間の能力の使用によって相当疲労が溜まっていた。ラリーにはそれがわかっているので、すぐに金庫を開けにかかった。
キーは液晶部分と同じ大きさの金属製の立方体で、液晶面の反対側にテン・キーがついている。金庫とキーの液晶面を合わせると、短い電子音がキーの使用法の正しさを伝えた。
「暗証番号は?」
リーバーはすでに諦めた様子で、ラリーの短い問いに苦々しげに答えた。その言葉にしたがってラリーがテン・キーを打つたびに小さな電子音がして、十二桁の暗証番号を打ち終えるとやや長い電子音が小さく響いた。
さすがに二重三重の仕掛けを越えると、金庫が開くのを妨害するものはもはや存在しなかった。鋼鉄製の重い扉は私たちの前で大きく口を開き、収められた紙幣の山が姿を現した。他にも分厚い封筒や剥き出しのままの書類が、紙幣と一緒に金庫の内部を埋め尽くしている。
紙幣だけ見ても、さすがに凄まじい量であった。リーバーの資産からすればごく一部に過ぎないのであろうが、ここにあるだけで一般庶民の家族が複数、数年は暮らせるだろう。
「随分と貯め込んだもんだねぇ。少しは慈善事業にでも寄付すればいいのに」
「こっ、こそ、泥……なぞ、に……言、われる……筋、は……な、い……わ……」
この期に及んで、とはこのことであろう。まあ、この場合はリーバーの言には確かに一理も二理もあるが。
「さすがに豪胆だねぇ。まぁ、いいや。じゃ、それをもらおうかな」
ラリーはベッドの周りを調べて武器がないことを確認してから、リーバーの持つ銃に手を伸ばした。そのタイミングに併せて、私は能力の範囲を調整する。空間を硬化させたままではラリーがリーバーに近づくこともできないのだ。ラリーは平然と行動しているが、内心では緊張していることを私は感じ取っていた。引き金に指が掛かった状態の手から拳銃を奪うことは、発砲と紙一重である。しくじれば、弾丸は射線上にいる私を襲うことになる。二人とも防弾チョッキは身に着けているが、この至近距離で被弾すればノーダメージという訳にはいかない。
ラリーはどこまでも平然とバレルを掴むと、素早くリーバーの手から銃をもぎ取った。見事な業だった。その瞬間、私は能力を解除する。途端にリーバーの身体が自由を回復した。私は息をついて、呼吸を整えた。
当のリーバーは、突然身体の自由を取り戻して困惑していた。身体が動くようになるはずの薬を飲んでいないのだから、無理もなかった。
「貴様ら、騙したな!」
リーバーには金縛りにあった理由などわからなかっただろうが、ラリーの話が嘘であることは明白だった。とは言え、恐怖するでもなく怒号を発せられるとは、並の豪胆さではない。こうでなくては、たとえ金貨を持っていてもここまでのし上がることはできないのであろうか。どうも、私はリーバーを過小評価していたようである。無論、この場合、過小評価である方がよほどましであるのだが。
ラリーは奪った銃を私に手渡した。さすがに私は驚いた。
「なんでこんなものを持ってるんだ?」
無意識のうちに私は声に出していた。私の手の中で鈍く光っているそれは、この国の軍用正式拳銃だった。しかも最新型のやつだ。金庫と同じく、記録した者の指紋に反応してセーフティが解除される機構を備えている。それ以外の者が引き金を引いても、自動的にセーフティが働いて弾は出ない。まだ一般の兵には支給されていない高級士官のみが持っている代物である。それがここにあるという事実は、軍の中に機密を横流ししている者の存在を物語っていた。
「それを知っているとは、貴様ら、ただの鼠ではないな。誰に頼まれた。マクスウェルか、レッドフォードか?」
リーバーが口にしたのは、彼と繋がりがあるとされるマフィアと抗争を繰り返している別のマフィアの名だった。
私は現金を強奪すると同時に木箱を盗み出す策をいくつか考えていたが、予想外の展開に用意していたものとまったく別の策を使うことにした。成り行き任せではなく、臨機応変である。
「気づかれたんなら仕方ねぇ。確かに俺たちは頼まれた。だが、マクスウェルでもレッドフォードでもねぇ。あんなちゃちな連中の仕事なんざを受けるほど安くねぇんでな」
私はできる限り傲然と言い放ったつもりだったが、後でラリーに聞くと学芸会なら特別賞ものだったということである。
「俺たちの目的は金じゃねぇ」
リーバーの目に憎悪の炎がちらついていた。一般の善良な市民であれば震え上がるであろうそれを丁重に無視して、私は続けた。
「俺たちが欲しいのは、てめぇの持ってる金貨さ。ただの金貨じゃねぇことはよくわかってんだろう」
この言葉の影響は絶大だった。先に受けたものとどちらがより大きな驚愕だったか、にわかには判断しづらいところだ。
「どうしたよ。黙ってるのは自由だが、勝手に探させてもらうぜ。その間、てめぇにゃあ少しばかり眠っててもらうがな」
「貴様、どの程度のことを知っておるのだ」
私は感嘆した。今なおこちらの質問に答えず、逆に尋いてくるとは、見事と言う他ない。
「まぁ、てめぇも何も知らんままじゃ口惜しいだろうな。いいぜ、教えてやるよ」
リーバーの顔がはっきりと引きつった。これまで常に相手を見下してきたリーバーにとって、たかがこそ泥、しかも自分よりはるかに若年である私に完全に馬鹿にされ、侮辱されたのだ。その顔がみるみるどす黒い赤に染まった。
「まず、その木箱に金貨が入ってるってこと」
私の言葉と同時に、反射的にリーバーの手が箱の方へ動いた。
「動くな!」
リーバーの動きを鋭く制して、私は木箱の置かれているナイトテーブルに近づいた。箱に手を伸ばそうとすると、今度はリーバーが鋭く叫んだ。
「それに触るな!」
だが、私の方は彼の言葉にしたがわなかった。
木箱を手に取り、ことさらリーバーに見せつけるように掲げる。リーバーの顔はますますどす黒く変色し、身体が小刻みに震えている。
ここでこちらが怯むような姿勢を見せれば、リーバーのような男は異様な強さを発揮する可能性がある。常に流れはこちらにくるように留意する必要があった。私はできるだけ調子を変えないように注意しながら語を継いだ。
「次に、これが数年前にイタリアの宮殿跡から持ち出されたものだってこと。それを知ったてめぇが、持ち主のなんとかいう女の家から盗ませたこと。金貨の由来についてもちょっとばかり知ってるが……」
最後は口からでまかせである。だが、こちらが金貨のことにかなり通じていると思わせるには有効だった。
「あの古文書は儂の手元にある。それまでは誰の目にも触れていないはずだ」
おやおや、尋いてもいないのに情報を提供してくれるらしい。さすがの小、いや、中悪党も、彼にとっての非常識の連続にだいぶ参ってきたと見える。
「てめぇの知ってることだけがすべてだなんて思うのは、ただの馬鹿だぜ。てめぇの知らねぇことはこの世に山ほどあるんだよ」
この言葉は私たちの存在にも関わるひと言であり、私やラリーにとっては特別な意味がある。無論、リーバーには金貨のこととしか聞こえないであろうが、言う側の気持ちの問題であり、それだけで相手に与える印象も随分と変わるものだ。
「古文書なんて怪しいもんは、どれが本物かなんてわかりゃしねぇ。ま、逆に言やぁほとんどの場合、複製が存在するってことだ」
「貴様……」
リーバーの顔が今度は異様に赤く紅潮し、言葉の代わりに歯軋りの耳障りな音が響いた。
「だがまぁ、俺たちの知ってることも一部に過ぎねぇからな。よけりゃぁあんたの持ってる情報を提供してもらいたいねぇ。なぁ、リーバーさんよ」
「……何を知りたいというのだ、屑どもめ」
「いや、何、俺らの依頼主がこの金貨の由来にゃあどうも信が置けねぇってんでね。あんたの持ってる古文書とやらの中身と照らし合わせたいってことさ」
「ふん、やはり自信がないのではないか。偉そうに本物だどうだとぬかしたくせに、所詮、屑は屑だな」
「だが、その屑に先手を取られっぱなしってことも確かだろうよ。さぁ、とっとと吐いちまいな」
リーバーの胆力は確かに認めよう。だが、私もいい加減、この不快なやり取りに疲れてきていた。何より自分の言葉遣いに耐えられなくなっていたので、やや言動が粗野になってしまった。言いながら、腰の多機能バッグから二十センチ弱の金属製の棒を取り出して、ことさらリーバーに見えるように勢いよくひと振りしたのだ。
その瞬間、リーバーの目が大きく見開かれ、喉の奥で唾を飲み込む音が鳴った。
「何なら実力でその口割らせたっていいんだぜ」
私の手には、三倍に伸長した特殊警棒が握られていた。ブラッククロームの特殊警棒は、そのシンプルさとは裏腹になかなか強力な武器であり、人間の骨など軽く砕いてしまう。直接使用せずともその威嚇効果はかなりのもので、私の愛用品のひとつである。
ここでもその効果は充分に発揮された。リーバーは観念したように喋りだしたのだ。
「……あの古文書の解読には、メディチの総力がつぎ込まれたのだ。複製などそうそうに出回っているはずがない」
わずかに、私は眉を寄せた。メディチという固有名詞は、歴史にさほど造詣が深くなくとも聞いたことぐらいはある。中世欧州フィレンツェにおいて、各国の王室や皇室に勝るほどの権勢と栄華を誇った大富豪の一族である。スケールが違い過ぎるであろうが、いわばリーバーの大先輩といったところか。だが、その程度のことはこちらも承知していると思わせなければならない。内心の驚きを完全に消して、ことさら平然と私は先を促した。
「その辺の判断はこっちで下すさ。余計なことはいいから、知ってることだけ話しな。メディチ家のことは知ってる。それよりもあんたの知ってる金貨の歴史には、その誕生のことまで書いてあったのかい。そこを聞きたいねぇ」
リーバーは悔しそうに一層大きく歯軋りしたが、私は一向に感銘を受けなかった。
「あの金貨は遥か古代エジプトで生まれたのだ……」
そう始めてリーバーが語った物語は、私にとってはいささか気宇壮大なものであり、決して魅力的な語り部ではないリーバーの言葉に私たちは声を失って聞き入ったのである。
紀元前一三〇〇年余、古代エジプトの第十八王朝を統治した王は、黄金の霊廟と多くの宝物、そして黄金の仮面で知られるツタンカーメン王であった。その時代、豊かな国力をもってエジプトは多くの魔術師を抱えていたという。その当時の魔術師とは、現代の一般人が広くイメージする尖った帽子に白い髭の老人や箒に跨った魔女ではなく、占星術や錬金術の源となった数多の術を操る一族であったようだ。そして、二十歳を迎える前に早逝したと伝えられるツタンカーメン王は、自身も稀代の魔術師であったというのだ。
そして、ツタンカーメン王はその魔力と国力を使って一枚の金貨を生み出した。その金貨のうちに王自身と多くの魔術師の魔力を封じたのである。だが、それによって王はその力を失ってしまった。すべての力を失った王は、若過ぎる死を迎えた。
そこから、金貨の旅が始まる。
ツタンカーメンは世継ぎの男子に恵まれず、彼の后をはじめ残された王家の者は労苦のうちに死に、アマルナ王朝は終焉を迎える。
時は流れ、古代世界最大の英雄の一人であるアレクサンダー大王がペルシャを亡ぼし、エジプトを支配下に置く。アレクサンダー大王はエジプトを征服すると同時に、金貨の所有者となった。アレクサンダー大王のその後の活躍は、現代まで語り継がれる英雄譚である。だが、遠くインドにまで勢力を拡大し、神とまで呼ばれた一代の英雄もその死はあまりにあっけないものとして伝えられる。病魔に侵されて死に至るまでわずか一週間余りであったというのだから、死ぬに死ねない心境であったろう。
そして彼の死後、分裂した大帝国はローマによって亡ぼされ、金貨もその所有者を次の者へと移していく。それはクレオパトラのプトレマイオス朝エジプトを亡ぼしたローマ帝国のオクタヴィアヌスであった。後の皇帝アウグストゥスである。カエサルの死後、混乱したローマ帝国を平定し、自身の死後、ローマ市民により神として祀られた彼の名もまた歴史に永く刻まれることになった。だが、英雄アウグストゥスもまた後継者に恵まれなかった。結局、彼の跡を継いだティベリウスはアウグストゥスの血を引かない養子であった。
そして、さらに時は流れる。その間、金貨は歴史に名を残す多くの者の手を渡り歩き、遥かなる旅を続けることになる。数多の人々に、あるいは奇跡とも見紛うばかりの幸運を与えつつ、次々に主を代えながら。それは、まさに歴史の狭間を漂う遠大な旅である。
そして、金貨が最後に世に出るのは、十四世紀から十八世紀にかけて。その所有者となったのは、中世欧州に君臨したフィレンツェの大富豪メディチ家であった。
リーバーが言うには、エジプトからローマへの金貨にまつわる歴史の流れを綴った古文書を解読したのは、このメディチ家であるということだった。確かに当時のメディチ家の有する富と権力からすれば、金貨を手に入れることはさほど困難ではなかったかも知れない。真偽のほどはともかくとしても。
だが、メディチ家が歴史の残る富を築き上げたことは事実である。各国の王室と婚姻関係を結び、教皇までをも輩出し、その権勢は隆盛を極めた。
そんなメディチ家も、やがて没落の時を迎える。全欧州に君臨した名家も、最期には誰にも顧みられることなく歴史の波間にその名を消していった。
自称フランソワ・J・シールズ嬢が訪れたのは、そんな忘れ去られたメディチ家の別荘のひとつであったというのだ。
リーバーはイタリアンマフィアとも繋がりが噂されているが、それが事実であることを、この時、リーバー自身が告白した。
「六年前、儂はマンゾーニとの会合でイタリアへ飛んだ。そこであの古文書を手に入れたのだ。訳書とともにな」
マンゾーニとは、彼との関係を噂されるシチリアマフィアの名である。これが証明されれば、それだけでもリーバーを収監できるはずだ。と、そこで私は舌打ちしたくなった。この音声を録っておけば、決め手とまではいかなくともリーが動くには充分な理由になるはずだった。まさか話がこんな展開に至るなど想像もしていなかったので、迂闊にもそちらまで気が回っていなかった。録音するから今のところをもう一度、という訳にもいかないだろう、などと考えている間にもリーバーの言葉は続いている。
「だが、そのことはマンゾーニも知らん。それを知った者はことごとく始末してやったからな。誰にも儂の邪魔はさせん」
リーバーの唇の両端が吊り上がった。私は背筋に冷たい汗が流れ落ちるのを自覚した。
「訳書には一緒に所感も添えられておった。この金貨にはツタンカーメンの魔力が宿っていて、所有者にその魔力を注ぎ込むのだと。そして、所有者は富と権勢を得ることができる。歴史の事実がそれを証明している、とな」
自分の話に興奮したのか、ますます唇の端を歪ませるリーバーに向けて、私は冷ややかに水をかけてやった。
「だが、陽は必ず沈む」
途端に、リーバーが凄まじいばかりの形相で私を睨みつけた。常人ならば怯みもしようが、この時、私の心は不快感で充満しており、他の感情が入り込む余地はなかった。
「ツタンカーメンのアマルナ王朝も亡びた。アレクサンダーも夢半ばで斃れ、アウグストゥスも後世に自分の血は残せなかった。王室に勝ると言われたメディチ家でさえ最期には惨めに消えていった。あんたもその先人に倣って、この辺で幕を引いたらどうだ」
私はリーバーの話をすべて信じた訳ではなかった。と言うより、その信憑性を信じられなかったのである。超常的な金貨の魔力とやらは現実であるかも知れない。だが、それが中世ぐらいであればまだしも、古代世界に生きたアレクサンダーやツタンカーメンと結びつくかどうか、はなはだ怪しいものだ。仮にそれが事実であったとしても、その古文書とやらに記されていたことが現実のものであったという証拠などないはずだ。歴史はしばしば歪めて伝えられるものであるのだから。
だが、今はその歴史の観点について議論を戦わせるような場面ではなかった。リーバーが信じているのなら、それに合わせてやればいい。重要なのは、リーバーが自分の利益のために金貨を利用しており、そのためには他人の犠牲は厭わないという事実である。
「あんたはもう充分に金貨の恩恵に与っただろうが」
私は感情を抑えようともせず、忌々しげに吐き捨てた。
「今ならそこそこの富は残したまま老後を迎えられるだろうよ。諦めな」
私は左手で金貨の入った木箱をためつすがめつしながら、右手の特殊警棒をリーバーの方に数回振って見せた。リーバーにとっては、これ以上の抵抗が無意味であることを思い知らせるに充分であるはずだ。私は、今までの経験からそう信じていた。
「……せん」
「ん? 何だって?」
「誰にも儂の邪魔はさせん!」
リーバーの反応は、いささか予想外のものだった。
「その金貨は儂のものだ! 儂が正統な所有者なんだ!」
叫ぶと同時に、リーバーは私に躍りかかってきた。ベッドに上体だけ起こしている体勢からは考えられないほどの敏捷さで。その目が放つ異様にぎらついた光は、狂気としか表現しようがなかった。
私は後ろへ跳び退ってリーバーに空を掴ませたが、屋敷の主はもう一度床を蹴って跳びついてきた。小太りの中年男性の動きとは思えなかった。不覚にも、私はそれを躱すことができなかった。
長時間の能力の使用後とは言え、私の運動能力であれば肥満したリーバーの襲撃は躱せないほどのものではなかったはずだ。しかし、リーバーの手は私の胸元を掴み、私は力任せに床に叩きつけられた。一瞬息が詰まり、私の手から木箱と警棒が飛んで分厚いカーペットの上に転がる。
ラリーが「ボス!」と叫んだが、私は呼吸もままならずそれに答えることができなかった。この時ばかりは、ラリーの呼び方に異議を唱えようとは思わなかった。答えられなかったことも確かだが、こんな時に大声で本名など叫ばれたらたまったものではない。
リーバーは私にのしかかったまま、首を締めつけてきた。呼吸が詰まり、目を開いていることもできなくなる。歯を食いしばって抵抗したが、一瞬の差で私はリーバーの力に対抗できない状態に追い込まれていた。
頭が締めつけられるように痛みだし、薄く開いた目の前を白、赤、青といった星がちらつきだした時、不意にリーバーの手から力が抜けた。何とか目を開けると、リーバーは白目を剥いて崩れ落ちてきた。
先刻のドーベルマン同様、リーバーの身体を押しのけて立ち上がると、肩で息をしているラリーの姿が目に入った。額には大粒の汗が噴き出している。普段の余裕を持った様子など吹き飛んでしまっていた。
この状況を見て事態が掴めないほど、私は物わかりの悪い男ではない。自らの呼吸を整えるよりも前に、ラリーの傍に駆け寄って倒れかけた身体を支える。
「はぁ、はぁ……何とか間に合ったね、シモン……」
荒く息を継ぎながら、ラリーは笑った。
「今度ばかりは礼を言わなきゃならんな。助かった」
「へぇ、素直になったね、シモンも……よろしい、よろしい……」
その口調は相変わらずだったが、私はいつものように反論しようとはしなかった。ラリーを楽な状態で座らせてから、私はリーバーの身体の傍らに膝をついた。
リーバーの頸筋を撃ったラリーの手刀の威力は、ドーベルマンを撃退した時の比ではないだろう。正確な数値はわからないが、ラリーの能力は精神状態によって大きく威力が変わる。普通に使用した時には気絶させるに留まるが、ラリーの精神が昂った時にはあるいは人を殺し得るかも知れない。いや、間違いなく殺せるだろう。
私は最悪の状況を頭から振り払うことができないまま、リーバーの身体を調べた。白目を剥いたまま口からは泡を吹いていたが、脈はしっかりしている。鞭打ちぐらいは確実に起こしているだろうが、どうやら生命に別状はないようだ。私は正直、安堵した。
現実として仕事中に人が死ぬことは時々あるが、私もラリーもその手で殺人を犯したことは一度もない。もしそんなことになれば、さすがに夢見が悪くなるだろう。
最悪の状況は免れたことを確認すると、もはや番犬と同じ姿を晒している飼い主に構っている必要も余裕もなかった。
「少し休んでから、さっさと退散しよう」
ラリーをそのまま休ませておいて、私は部屋の中を手早く調べた。金庫の中、デスクの抽斗、その他めぼしいものがありそうなところをひと通りさらうと、さすがに驚くものが次々と見つかった。
政界、財界、そしてマフィア間での取引など、この部屋にある書類やファイルを渡すだけで、この国の警察は組織機構総出でも少なくとも数カ月は休む暇もなくなるだろう。先刻のリーバーとの会話を録音していなかった後悔など、すぐに消し飛んでしまった。これだけの物的証拠が揃っていれば、いかにリーバーでも手の打ちようがないはずだ。
「悪いな。あんたの老後はどうやら鉄格子の中らしい」
私は白目を剥いて泡を吹いている屋敷の主人に向かって肩を竦めた。
用意してきたバッグに大量の証拠品を詰め込んでから、私たちは逃亡することにした。本来であれば、物取りと見せるために金銭か貴重品を持ち出す予定だったのだが、そんなものに構っている状況ではなくなっていた。証拠品だけでもとてもすべてを持ち出すことはできないほどの量である。ひとつひとつ内容を確認する時間的余裕もないため、取り敢えずなるべく多くの案件を追求できるようにわかる範囲で幅広く証拠となりそうな資料を掻き集めた。私にできることはここまでだった。後のことはリーに任せておけばいい。
この資料をリーに手渡せば、数日中にもリーバーが収監されることは疑いない。そこから八方へ捜査の手が伸びるだろう。リーバーはあるいは私たちが自称フランソワ嬢に頼まれたものだと考えるかも知れないが、もはや手出しはできないはずだ。万一の時には、リーに護衛をつけてもらえばいい。そういう訳で、私たちは敢えてそれ以上の工作をしなかった。
目的以上のものを手に入れて、私たちはさっさと屋敷を抜け出した。侵入する時もそうだったが、厳重な警備システムが設置されていないのは、私たちには有り難かった。よほど生きた警備者に自信があったのだろう。
庭に出ると、私たちは可能な限り急いだ。とは言え、ラリーはまだ完全には回復しておらず、全力疾走という訳にはいかなかった。そうすると当然、私たちは再び獰猛な警備者の群れに出会うことになる訳だが、これ以上ラリーに能力を使わせると倒れかねない。やむを得ず、私はラリーに出会う以前にやっていたように格闘によって追撃者を撃退しなければならなかった。
右手の特殊警棒を握り直して振り返ると、最初の襲撃者が眼前に迫っていた。
跳びかかってきたドーベルマンを横にステップして躱し、すれ違いざまに後頭部へ警棒の一撃を加える。悲痛な悲鳴を上げて、ドーベルマンは地面に転がった。四肢がわずかに痙攣しているが、それを確かめるよりも早く二頭目が襲いかかってきた。
今度は躱せなかった。右手から跳びついてきたドーベルマンの身体を抱きとめる形で支え、白く煌めく凶悪な牙が閃くより疾く胴を思い切り蹴り上げる。腹部を強打されたドーベルマンは、くぐもった悲鳴を上げて最初の仲間と同じように大地に伸びた。
私はこの仕事を始める前から相応の訓練を積んでいた。若かりし頃、と言っても今もまだ断じて若いのだが、私にも荒れていた頃があった。まあ、若気の至りというやつだ。
そんな私を見かねたある男が、極東の島国発祥のブドーであるカラテの道場を紹介してくれたのだ。その男は売出し中の期待の新人選手で、私の姿をかつての自分にだぶらせたのだそうだ。よくある話だが、その男も今では怪我が元で引退したという噂だった。
私は正式に入門した訳ではなく、適当に道場に入り浸っていただけだったので、そのうち道場主に追い出されたのだが、私はそこそこ筋が良かったようで、道場に通わなくなってからも独学で訓練はこなしていたのだ。
そして、リーに出会ってから、私はリーの紹介で正式に別の道場に入門し、今も技を磨いている。またいつかあの男に会うことがあれば、礼のひとつも言いたいとは思っているが、おそらく二度と会うことはないだろう。
さらに私は、リーの計らいによって軍隊式格闘術の習得の場も与えられている。週に三日、カラテと合わせて五日間の午前中は、基本的に私のスケジュールは訓練ということになっているのだ。
そのような経験と環境が幸いして、私は少々の相手なら単独でも相応に対処できるのである。でなければ、いかに特異な能力を有していたとしても、とてもこんな仕事は続けられない。それでも、やはりラリーの能力に比べれば効率が悪く、ついつい頼ってしまうのだが。
私が撃退したドーベルマンが六頭を算えたところで、黒っぽい塀が視界に入ってきた。侵入する時にラリーが気絶させたドーベルマンたちはおそらくまだ目覚めていないはずなので、そろそろすべての警護を片付けただろう。
私の予想が当たっていたのか、私たちが塀に辿り着くまでそれ以上の妨害者は現れなかった。私は再び塀に通路を開き、ラリーと連れ立ってさっさとリーバー邸から脱出した。背後で不自然に歪んだ通路が閉じて、私たちは夜の闇の中へと走り去ったのだった。
リーバー邸を速やかに辞した私たちは、その足で仕事の成果をリーに手渡し、自宅に帰った時にはすでに陽は中天にさしかかっていた。私たちはそのまま死んだように眠り、起き出したのはその翌朝だった。
当然ながら、新聞には一昨夜のリーバー邸での騒動は載っておらず、どこかの家で火事があったとか、逃亡中の手配犯が捕まったとか、映画俳優とモデルの女性が婚約したとか、普段と変わらない記事が並んでいる。
しかし、テレビを点けるとそれらのニュースは一切報じられておらず、どの局でも大富豪フリッツ・エドワルド・リーバー逮捕についての特別番組が報じられていた。これがいずれは大物政治家や有力マフィアも含めた大捕物に拡大していくことが、私たちにはわかっていた。
「さすがに早いねぇ。議長って、手を緩めるってことないよね」
ひと口齧ったクロワッサンサンドを持ったまま、ラリーがリーの手腕を評した。
確かに打つ手が早い。たかが一日で逮捕にまで持っていくとは、さすがにこの辺りの手際の良さは歴代の統合参謀本部議長の中でも群を抜くと言われるだけはある。リーバーも必死に隠蔽を図ったであろうが、リーの辣腕には及ばなかったというところか。
私たちの前には、クロワッサンサンドにスクランブルドエッグ、ヨーグルトをかけたサラダ、オレンジジュースとコーヒーといったありきたりのブレックファーストが並んでいる。簡単だがれっきとした手作りで、ささやかながら家庭の味というものを感じさせる朝食だった。だが、それもラリーと二人で、ということになるといささかスパイスが効き過ぎていないでもない。
仕事はほとんど夜に行うことが多いので、その日は大抵ラリーは私の部屋に泊まるのだ。二人とも天涯孤独の身の上である。どこでどうしようと、咎める者もいなかった。
「それだけが取り柄なんだ。当然さ」
相変わらずの調子で私が言うと、それに呼応するように電話のベルがけたたましく鳴り響いた。四回目のコールが響く直前で、ラリーが受話器を取る。私には、その電話の相手も内容もわかっていた。二、三、言葉を交わしてから受話器を置いたラリーが、私に向かって告げた。
「セント・ハンプトン・ストリートのレディ・アンっていうレストランだってさ」
電話の相手はリーで、今日の昼食についてだった。仕事が終わると、三人で会って話をするのが私たちの習慣だった。
正午過ぎ、指定された店で、リー・アンクランシスは先に来ていて私たちを迎えた。レストラン「レディ・アン」はこの街でも結構知られた店で、大英帝国の王女の名から取った店名はよく雑誌などにも取り上げられている。三階建ての洒落た店だった。そこの最上階の個室でリーは待っていた。
「ご苦労だったな。今回はこちらにも随分と益があった。礼を言おう」
まずリーがそう切り出して、運ばれてきた料理にナイフを入れた。ダークブラウンの髪をオールバックに固め、カーキ色の瞳は落ち着いた知性を感じさせる。鋭角的な顎の線と切れ長のアーモンド型の目が、上流紳士的とも評される所以だった。
私も同じく目前に置かれた料理を片付けながら、ちらりとリーの方を見やった。
「初めから計算していたんだろうが」
「ほう、お前もだいぶわかるようになってきたな。結構なことだ」
「ふん、で、依頼主の方はどうなったんだ? もう接触したんだろう」
ひとつ頷いてから、リーは話し始めた。それによると、依頼主は金貨の入った木箱を受け取ると、報酬を支払ってさっさと引き上げてしまったらしい。変装したリーの正体を探ろうとする気配もなかったそうだ。どこか外国にでも出て、再び金貨のもたらす幸運にあやかろうというところだろうか。
「なるほどね。リーバーの手から少しでも離れようって訳か」
「彼女も着の身着のままって訳じゃない。テレビかラジオぐらいは手元にあるだろうさ。それによっては、国内に滞在しているかも知れん」
私とリーが依頼主についてそんな想像を巡らしていると、不意にラリーが間に入ってきた。
「でもさぁ、その女性もリーバーも結局、金貨を盗られたよね。本当にあの金貨が幸運をもたらしてくれるんだったら、そんなことにはならなかったんじゃないかなぁ」
私とリーは顔を見合わせ、次いでラリーの顔をまじまじと見つめた。
「な、何? 何かまずいこと、言ったかな?」
「いや、確かにそうだな。あの金貨が幸運をもたらすのであれば、二人が金貨を奪われることもなかったはずだ」
リーが考え込んだが、たしかにその通りである。自称フランソワ嬢はまんまとリーバーに金貨を奪われたし、私とラリーもほとんど何の失敗もなくリーバーから金貨を取り返した。しかも、リーバーを待っていたのは身の破滅である。いや、リーバーだけではない。彼が語った物語のすべてが、最期には悲惨な末路を辿った歴史の繰り返しではないか。とても幸運などと呼べたものではない。リーバーの話を聞いていた時には、あまりの話の壮大さにそこまで考えが回らなかったが。
「あの金貨が幸運をもたらしたって訳じゃないのか?」
私の意見を、リーはあっさりと否定した。
「違うな。二人に富をもたらしたのは、間違いなくあの金貨だ。非常識かつ非現実的の極みだが、お前たちの存在も普通に考えれば似たようなものだろう」
もっともである。
となれば、どういうことか。
「あの金貨の幸運には容量があるんじゃないかな」
黙って悩み込んだ私とリーに向かって、最年少者が遠慮がちに言った。二人の年長者に顔を向けられて、ラリーは説明の必要を感じたようである。
「つまり、あの金貨は確かに持ち主に幸運をもたらすけど、それには限度があって、それを越えるとそれまでのつけで不幸をもたらすんじゃないかな、と。シモンだって言ったじゃない。陽は必ず沈むって」
確かに言ったが、あの時はそこまで深く考えていた訳ではなかった。単に不快感からリーバーに冷水をかけてやりたかっただけだ。屋敷を出る頃には自分の発言さえ忘れていた。
「なるほど」
リーが頷いた。私は黙ったままだったが、確かにそれなら理屈は通る。いよいよ昔ながらの幻想物語になってきたが。
「確かに辻褄は合うな。私は古代のアレクサンダーやらアウグストゥスやらの話はどうも信用しきれないのだが、あの金貨がメディチ家の宮殿後から発見されたことは間違いない。そして、メディチ家が凋落したのは確かな歴史の事実だ。金貨の効力がラリーの言う通りなら、かのメディチ家の栄華を思えば惨めな御家断絶にも得心がいく」
どうやら金貨にまつわる歴史物語には、リーも私と同意見のようであった。
だが、ちょっと待て。ふと私は不安になり、それをそのまま口にした。
「そうなると、依頼主はもう金貨の幸運にはあやかれないってことじゃないのか。それどころか、これからは災いが降りかかるってことだろう。おい、リー、そうなると渡したのが偽物だってことにならないか?」
私の危惧を、しかし、リーは軽く否定した。
「引き渡しの時に本人に確認した。間違いなく本物だと言ったよ。音声も残してある。誰かさんとは違ってな」
リーは目を細めて不敵に笑った。
まったく、とことん厭味な男だ。私がリーバーとの会話を録音し損ねたことを言っているのだ。馬鹿正直に報告した私も私だが……。
「だが、ふむ、確かに危険かも知れんな。降りかかる災いが幸運と同じように徐々に大きくなるとすれば……」
リーはしばらく考え込んでから、ひとつ頷いた。
「本来ならば、これは我々が関わることではない。だが、わかっていて放置しておいて何かあっては後味も悪いな。できるだけのことはしよう。それにしても……」
リーは言葉を切って、ラリーの顔を見つめた。次いで、私の方へ向き直って笑う。
「はっはっ、さすがに大したお嬢さんだ。なぁ、シモン」
私はリーには答えず、助手を見つめた。
ラリーはショートカットに切り揃えた薄い夕焼け色の髪を掻き上げながら、零れるように笑った。卵型の顔は神の作り出した造形美として充分に通用するだろう。澄んだヘイゼルの瞳を輝かせる姿は、映画の一幕を思わせるにたる容貌だった。
「どう、シモン? 大したもんでしょ」
まったく、この台詞がなければ、容姿端麗、頭脳明晰で通るのだが。
私はラリーに出会った時、あろうことか彼女に見惚れてしまったのである。その時、私は今回と同じようにある屋敷に忍び込んでいた。仕事を終えて塀を抜けたところで、不自然に塀が消えていくのを呆然と見つめていたラリー・エヴィダンスに出会ったのだ。
私は弁解するのも忘れて、彼女の顔に見惚れていた。当時、彼女はわずか十五歳だったが、私も十九歳だったので、異常な反応ではなかったはずだ。だが、壁を消して現れ、自分の方をぽかんと見つめている私に向かって放たれたラリーの言葉は、充分に異常だった。
「驚いたなぁ。本当だったんだ。世の中には似たような人がいるもんなんだね」
その時の私はどんな表情をしていたのか、今でも想像ができない。
それ以来、私たちは二人で仕事をすることになったのである。私の心情は複雑だったが、リーに言わせるとあっさりと片付いてしまった。
「いいじゃないか、一緒に仕事すれば。聞けば彼女も孤児だというし、お前と同じだ。お前同様、私が後見人になるから、問題あるまい」
それから、これが余計なことなのだが、リーはさらにひと言付け加えた。
「私との出会い方も二人揃って同じだしな。いいパートナーになるだろう」
この仕事を始める前、当然、私はリーと面識などなかった。私はただのフリーターに過ぎず、ひとつ一般人と違う点は自分の能力について子どもの頃から知っていたということである。能力を使って、私は幼い頃からかなりのことをやっていたものだ。
ある日、何気なくたまたま見つけた大きな屋敷に忍び込んだのだが、それが私の生涯で最大の過ちだった。壁抜けをして庭に侵入したところで、その屋敷の主であったリー・アンクランシスと対面したのだ。
それから、私は特別捜査隊員としてリーの下で働くことになった。特別捜査隊員などという御大層な肩書を名乗ってはいるが、結局のところ私たちは単なる探偵稼業に過ぎない。その存在はリーだけが知るところであり、他の誰にも認知されることはない。しかも、その職務はしばしばリーの私事にも利用される。大統領など、リーの友人もいいところである。つまるところ、私の仕事はリーの使い走りのようなものなのだ。報酬が正当に与えられるのでなければ、とっくに辞めているだろう。
そしてラリーもまた、同様の形でリーに出会ったのだ。彼女はその跳躍力にものを言わせてリーの屋敷の塀をひと跳びに跳び越え、庭を散策していたリーの隣りに着地したのである。後から、その時に交わされた二人の会話を聞いて、なんと解釈すればいいものか、私にとっては永遠の謎だと思ったものだ。
「……ほう、素晴らしい能力だな。しかも随分と美しいお嬢さんではないかね。それにしても危なかったな。私の上に落ちてきてくれなくて助かったよ」
「あ、ごめんなさい。でも、おじさん、あたしのこと見ても驚かないんだね。初めてだよ、嬉しいなぁ」
「何、君よりも先に似たような子に出会ったことがあってね」
「本当に⁉️」
「まあね。それより、見つけたのが私でよかった。不法侵入には問うまい。今後は気をつけなさい」
「あ、ごめんなさい。スリルがあるものだから、つい……」
「ほう。スリルが欲しいのかい?」
「だって刺激のない生活なんてつまんないじゃない。あたしなんて何の取り柄もないただの女の子だよ。せめてちょっとしたスリルぐらいあった方がいいかなって……でも、駄目だよね。本当にごめんなさい」
「素直な子だ。ちゃんと謝れるというのは素晴らしい美点だ。それだけでも充分な取り柄だと私は思うがね」
「そうかな? そんな風に言われたの初めて。いつも変わってるとは言われるけど。おじさん、ありがとう!」
「ふむ、どうやら君はなかなかの資質を持っているようだ。どうだろう、スリルを求めるなら、私がこの世で最高のスリルを提供しよう。きっと、気にいると思うがね」
そもそも、ラリーを私に引き合わせたのはリーの計らいであった。私の仕事の現場をラリーに伝え、塀の前で待たせていたのだ。普段は気にもしないはずの脱出経路を事細かに確認してきたから違和感は感じていたのだが。しかもお互いのことは何も知らせぬまま、というところがリーのリーたる所以であろう。
「お互い、先入観なく相手を知った方がいいと思ったのでな。これから運命を共にするんだ。信頼関係は自分たち自身で構築すべきだろう」
それがリーの言い分だった。
ラリーが助手となって、私の仕事は確かに楽になった。扱う案件の規模も大きくなったことも事実だ。しかし、それは決して私が望んでのことではない。ラリーが私の助手を務めることになった第一の理由、それはラリーの発した台詞に他ならない。
「あたしも仕事するよ。面白そうだし。一緒にやらせてくれなきゃ、シモン、じゃないや、ボスのこと、公表しちゃうよ」
これがラリーが我が助手を務める第一の理由であり、私がボスと呼ばれた最初の台詞だった。
ラリーの加入により、私の肉体的負担がかなり軽減されたことは疑いようのない事実だ。今回もそれは改めて証明されたと言っていい。それは認める。だが、あくまで肉体的なことであって、私の精神的負担はラリーとリーの相乗効果によって遥かに増したと考えれば、結局のところどちらがよかったのか、私はいまだに結論を出せないでいる。この苦労は、他人には決して理解し得ないであろう現実だ。
どうも嫌なことを思い出して、いつにも増して不機嫌になっていたところへ、リーはさらにとんでもない爆弾を投げ込んだ。
「そう言えば、経費はいくらかかったんだ? さすがに今回は全額払うぞ。遠慮なく言ってくれ」
私が目を丸くして何も言わなかったので、ラリーがそれを引き受けた。
「経費って、先に送ってくれたんじゃないの? あの二万ドルは?」
ラリーの言葉に、リーは切れ長の目を心持ち細めたが、次の瞬間には吹き出し、声を出して笑いだした。
「はっはっ、そうかそうか。いや、そういうことなら、もういい訳だな」
笑いながらリーは立ち上がった。
「さて、食事も済んだし、私は予定が詰まっているから先に帰るとしよう。お前たちのおかげでこれから忙しくなるのでな」
私とラリーは何も答えないまま、互いに顔を見合わせてはリーの顔を見つめるということを繰り返した。
「あぁ、そうだ。金融機関の方はどうにもならんが、リーバーの私邸から押収した現金の一部は希望通り各慈善団体に寄付させてもらった。明細は後日、郵送しよう」
不意に話題を転じられ、私たちは考える間もないまま、席を離れるリーの後ろ姿を見送った。私たちの狼狽を無視して、リーは最後に一度だけ振り返って付け加えた。
「支払いは済ませておくから、ゆっくりしていくといい。今度はディナーにでも招待させてもらうよ。ここのワインはなかなかのものだぞ。愛飲家のシモンくんの口に合うと思うがな。それではな」
リーは手を振りながら、さっさと個室から出ていってしまった。後には事情が掴めないままの私とラリーが取り残された。
「ねぇ、シモン。どういうこと? 議長でもど忘れってこと、あるのかな」
しばらくの沈黙を破ったラリーの言葉で、私はとんでもないことを思い出した。
「しまった!」
私は叫んで立ち上がった。あまりに勢いが激しかったので、高価な椅子が悲鳴を上げて、もう少しで倒れるところだった。もし室内に店員がいれば、非難の目を向けられたことだろう。だが、私はそんなことに構っていられなかった。
「くそっ、やられた! 忘れてたのはこっちの方だ」
窓に駆け寄ってストリートを見下ろすと、ちょうどリーが迎えの車に乗り込むところだった。
「ねぇ、どうしたの? 忘れてたって何? シモンってば」
「あれは経費なんかじゃない!」
私は吐き捨てるように言ったが、ラリーにはまだわからなかったようである。
「どういうこと? 経費じゃなきゃ、なんであんな大金が議長から送られてくるの?」
私はラリーに指を突きつけた。珍しくラリーは戸惑った表情を見せ、目を白黒させている。
「あれはお前の学費だ。前に請求したの、忘れたか? お前の後見人はリーだろうが」
ようやくラリーも私の言いたいことを理解したようだった。
そう、確か三週間ほど前のことだ。リーの薦めでラリーが通っている私立大学は、歴史と実績は申し分ないが、その分、学費が異様に高額という名門校だった。授業料は一括で納入するシステムで、来期分の納入日が近いので授業料と共に教材費や寄付金なども併せて請求しておいたのだ。それにしても……。
「なんだって仕事の資料と一緒にラリーの学費を送ってこなきゃならんのだ!」
私は思考の途中からを実際の声に出して叫んでいた。そもそも、後見人なら直接振り込めばいいだろうに、毎度毎度わざわざ私に金をよこして振り込ませるのはどういう了見だ。
「でも、そういうことならちゃんと言えば……」
「ラリー、お前はまだリーのことをよく理解していないようだな。あいつがそんなに甘けりゃ、俺だって文句は言わないさ」
そうなのだ。
先刻のリーの様子から見て、故意に資料と学費を同時に送ってきた訳ではないことはわかる。単に手間を省いただけであろう。だが、やはり……。
リーにはどこか欠落している部分があるのだ。あれが国軍を統括する統合参謀本部議長とは。しかも歴代に冠絶するとあっては、この国が転覆するのもそう長い先のことではあるまい。
今回の報酬は五万USドル。経費は三千八百ドル少々。それはラリーの学費からの流用という訳で、その穴埋めは当然、報酬から補填することになる。結局、今回も必要経費は自己負担となったのだった。
「くそっ、こんなことならリーバーの奴から少しでも貰っときゃよかった。少しぐらいくすねたってどうせバレやしないんだ」
第一、リー自身がリーバーの資産の一部を抜き取って寄付金に充てているのだ。
「まぁ、それができるならこんな仕事はしてないだろうけどねぇ」
ラリーはすでに心の整理を終わらせたようで、いつものように悪戯っぽい笑みを浮かべている。見透かしたようなラリーの言葉だったが、その点は認めざるを得ない。私は自分で稼いだ金銭以外に、手を付ける気はない。ささやかな、私の信条である。
だが、金銭は金銭だ。不法で汚い出所の金銭であっても、貧しく、あるいは虐げられた人々や動物たちの助けとなるなら、その方がいいに決まっている。リーバーの財産を政府が押収しても、活きた形で社会に還元されるのは一部に留まるであろう。それを認めているからこそ、リーは私たちの意見を聞き入れて、自ら決して安全ではない形で動いてくれているのだ。その点に関しては、さすがに私はリーに感謝もしているし、尊敬もしている。私利私欲にはしる二流以下の政治屋たちとは一線を画すると認めてもいるのである。
だが、だからと言って奴のやり方をすべて認めている訳では、無論、ない。
「必ず辞めてやる、こんな商売! これ以上、リーの冗談に付き合ってられるか!」
「はいはい、シモンの言うことはいつも同じなんだから」
レストラン「レディ・アン」を出て、コンドミニアムに戻ってラリーがテレビを点けるまで、私の愚痴は続いていた。ラリーは気分を害した様子もなく、ずっとそれに付き合っている。付き合わせている当人が言うのもなんだが、付き合いのいいことだ。
ニュースキャスターの抑揚のない事務的な声が室内に響いた。リーバー逮捕の特別番組はある程度収まったようで、その時間は一般のニュースを報じていた。
やや大きかったテレビのボリュームを下げているラリーの姿を尻目に、私は棚からワインのボトルを取り出した。この棚は外観は書棚だが、実際は温度と湿度を調整できるワインセラーである。コルクが乾かないようにボトルを傾けながらも、ラベルを眺められるように計算されている設計が気に入っている。
取り出したボトルは、コート・デュ・ヴァントゥ・ルージュ。手頃だが高い品質のワインとして人気があり、私のお気に入りの銘柄のひとつだ。だが、今はそのコクと味わいをゆったりと楽しむような気には、私はなれなかった。ただ、飲まなきゃやってられるかという一念である。
「真っ昼間から、あんまり飲んじゃ駄目だよ」
ラリーの忠告も聞き流して、私は手早くコルクを抜いた。丸型のグラスにとくとくと琥珀色の液体を注ぐ。
「あっ、そんなに注いじゃって! 駄目じゃないか!」
「うるさいな。ワインぐらい好きに飲ませろ。俺の唯一の楽しみなんだから」
「そうはいきませんよ。シモンが倒れたら、困るのは誰かわかってんの?」
近づいてきたラリーが、そう言いながら私の手からボトルをもぎ取った。
「残りは夕食の時にしなさい」
「やれやれ、ひと仕事終えたってのにワインも満足に飲めんとは……」
私の悲哀など耳にも入らぬと言わんばかりに、ラリーは平然とボトルにストッパーをつけてしまい込んでしまった。その間も、私は手許のグラスを口に運びながらぶつぶつと愚痴をこぼしていた。
だが、テレビに映し出された人物の顔を見て、さすがの私の愚痴も止まらざるを得なかった。
立ち尽くしたまま呆然とする私とラリーの耳に、ニュース・キャスターの声が流れ込んでくる。
「今朝未明、郊外の住宅から出火し、住宅一棟が全焼しました。火元はキッチンと見られており、幸い住民の女性は逃げ出して怪我人などはいない模様です。ただ、火災のショックからか、女性は精神的に錯乱を起こしていたと見られ、意味不明な言葉を繰り返すだけだったということです……」
十数時間ほど前の映像であろう。まだ薄暗い空の下で小さな一軒家が炎に包まれている。その手前で、複数の消防士に取り押さえられている女性の顔が、私たちの意識を奪ったのだ。
私のデスクの上の写真と同じ顔の女性が、秀麗な白い顔とやや濃い金髪をすすで汚したまま、興奮状態で叫んでいた。
「金貨が! 金貨が……!」
END




