【第1章】 第1話
視界を真っ二つに分断するように、赤黒く錆びついた鉄条網が延々と連なっている。
その向こう側は、太陽の光すら見放したかのような、重く淀んだ鉛色の空。
かつては各国の軍勢が堅牢な防衛線を張っていたはずの砦の残骸が、巨大な獣に食い破られたように無惨な姿を晒している。
半ば土に埋もれた折れた槍。
ひしげた白銀の盾。
そして、それらに絡みつくようにして群生する、毒々しい紫色の茨。
魔王という新たなる絶対悪が、最果ての玉座に君臨してから数ヶ月。
この呪われた領域から漏れ出す濃密な瘴気は、大地を枯らし、川の水を底なしの泥濘へと変え、命あるすべての者を完全に拒絶していた。
ザクッ、ザクッ。
乾ききった土を、重厚な革のブーツが容赦なく踏み砕く。
鉄条網の残骸を乱暴に蹴り倒し、一つの影が境界線を越えた。
深いフードを目深に被った、大柄な男。
第一の志願者、傭兵ガルス。
彼の纏う分厚い革鎧は、幾度もの戦闘の痕跡である無数の切り傷と、乾いて黒ずんだ魔物の体液でひどく汚れている。
丸太のように太い腕には、幾重にも薄汚れた包帯が巻かれていた。
その布地からじわりと滲む赤黒い血が、彼の行軍の苛酷さを無言で物語っている。
彼の分厚い胸板が、鍛冶屋の鞴のように激しく上下する。
肺の奥で、ヒューヒューという耳障りな摩擦音が鳴った。
極度の疲労と脱水症状。
ひび割れた唇の端から、血の混じった粘り気のある唾液が滴り落ちる。
普通の人間の精神であれば、とうに足がすくみ、引き返しているであろう絶望的な道程。
だが、彼の濁った瞳の奥に怯えの色はなく、ただ獲物を狙う猛禽のようなギラギラとした光だけが宿っている。
ガルスは立ち止まり、背負っていた粗末な水袋を掴み取る。
コルクの栓を歯で乱暴に引き抜き、残されたわずかな濁った水を喉の奥へと流し込んだ。
泥と苔の腐ったような味が、乾ききった粘膜をチリチリと焼く。
彼は手の甲で乱暴に口元を拭うと、今度は懐へと太い指を突っ込んだ。
革の隙間から擦れる音と共に取り出されたのは、数枚の硬貨。
精緻な王国の紋章が潰れ、元の輝きが分からないほどに泥と血糊にまみれたそれを、彼は太い手のひらの上に並べる。
親指の腹を使い、爪の間から血を滲ませながら、硬貨の表面にこびりついた汚れを削り落としていく。
チャリン。
鈍い光を放つ金属を、一枚、また一枚と数え上げる。
その動作は、まるで神に祈りを捧げる狂信者の儀式のように、異様なまでの執着に満ちていた。
彼にとって、この冷たい金属の手触りだけが、自らの命を繋ぎ止める唯一の確かな現実なのだ。
戦場で倒れた仲間の懐を探り、死体の指を叩き折って指輪を奪い、泥水をすすってまでかき集めた対価。
しかし、いくら数えても、彼の内側にある巨大な穴が満たされることはない。
(こんなはした金じゃ、到底割に合わねえ)
血走った眼球が、不満げに細められる。
彼の鼻腔を満たしているのは、周囲に漂う死臭でも、自分自身の汗の臭いでもない。
鉄と泥の奥に潜む、濃厚な「金」の匂い。
ジャラ……ズズン。
彼がわずかに身じろぎした瞬間、腰元から奇妙な音が響き渡る。
それは、金貨が触れ合う軽やかな音色とは決定的に異なる。
泥沼の底で巨大な鉄塊を引きずり回しているかのような、ひどく鈍く、鼓膜にへばりつくような密度を持った金属音。
音の出処は、彼の太い革ベルトに何重もの鎖で固く縛り付けられた、一つの袋。
『黄金の恩賞袋』。
美しい金糸の刺繍が施されていたであろうなめし革の表面は、今や元の意匠が判別できないほどに、どす黒い染みで覆い尽くされている。
かつて名もなき一介の傭兵だった彼が、死体の山から偶然見つけ出したその袋。
拾い上げたその瞬間から、彼の思考は底なしの黄金への執着という名の猛毒に完全に侵されていた。
袋の底には、彼が強奪し、殺してきた者たちの未練と血が、重たい呪いとなって沈殿している。
腰の骨が軋むほどの異常な重量。
皮膚に深く食い込む革ベルトが、赤紫色に内出血を引き起こし、絶えず鈍い痛みを訴え続けていた。
しかし、ガルスはその痛みすらも悦びとして受け入れている。
袋から伝わってくる氷のような冷たさと不気味な質量は、自身の存在価値そのもの。
この袋を満たすためならば、どんな泥水でも啜り、どんな命でも容赦なく刈り取る。
彼の脳裏には、かつて世界を救った最強の英雄が魔王と化したという、畏怖すべき事実など欠片も存在しないのだ。
あるのはただ、あの最果ての玉座の奥に眠るであろう、莫大な財宝の山。
そして、魔王の首という、世界で最も高価な賞金首への欲望だけ。
「待ってろよ……」
掠れた声が、風の音に混じって漏れ出る。
ガルスは袋の口を縛る太い紐を無骨な指で愛おしげに撫でると、手のひらの硬貨を袋の隙間へと滑り込ませた。
ズズリ、と。
革袋がまるで獲物を飲み込む獣の胃袋のように、ひどく重い音を立てて硬貨を呑み込む。
彼は深く息を吸い込み、再び泥濘へと力強く足を踏み出した。
ジャラ……ズズン。
ジャラ……ズズン。
一歩進むごとに、腹の底を揺らすような不吉な金属音が荒野に響き渡る。
泥を跳ね上げながら進む巨躯。
彼が向かう先。
淀んだ黒い霧の向こう側に、天を貫く巨大な城郭のシルエットが、鋭い刃のようにぼんやりと浮かび上がっていた。
その城は、底なしの静寂をもって、自ら歩み寄ってくる最初の供物をただじっと待ち構えている。
冷たい風が、足元の乾いた砂を巻き上げた。




