第9話:追う覚悟、緑の導き
交番の扉を開けると、中年の警官が面倒くさそうに顔を上げた。
私はできるだけ冷静に話した。愛斗の名前。特徴。最後にいた場所。時間。自分が見たことも、見たままをできるだけ順序立てて伝えたつもりだった。
でも、警官の目は途中からもう聞いていなかった。
手元の書類に機械的に書き込みながら、面倒な祭りの迷子案件でも処理するみたいな顔をしている。
警官「はいはい、分かりました。でも祭りの最中に山の方へ行ったんでしょう? 友達と喧嘩して、どっか行っちゃっただけじゃないですか」
瑠香「違います。本当に、目の前で――」
警官「大丈夫ですよ。若い子ってそういうことあるから。落ち着いたら帰ってきますって」
その言葉は、慰めですらなかった。
私は何も言えなくなって、そのまま交番を出た。誰も信じてくれない。誰も理解しない。この世界から、愛斗という存在が少しずつ剥がれ落ちていく。そんな感覚だけが、冷たく残った。
三日後。
私はまた、裏山の社跡へ来ていた。
百年祭はもう終わっていて、山は最初から何事もなかったみたいな顔で静まり返っている。この三日間、私はほとんど眠らずに愛斗を探した。家、学校、よく寄る店、通学路、友達づての連絡。思いつく場所は全部回った。けれど、どこにもいなかった。
誰かが本当に世界ごとあいつを隠してしまったみたいだった。
私は社跡の前へ座り込み、膝を抱えた。
そのときだった。
背後から、落ち着いた女の声が降ってきた。
緑の女「……彼を追う覚悟はあるか」
私は弾かれたように振り向いた。
そこに立っていたのは、愛斗と一緒にいた緑の少女によく似た女だった。深緑の髪。琥珀色の瞳。けれど、あの少女の儚さとは違う。こちらは研ぎ澄まされた刃物みたいな美しさだった。二十代半ばくらいに見える。腰には短剣が二本差してあり、その立ち姿には、ただそこにいるだけで周囲の空気を変える威圧感があった。
緑の女「わしの名はキュベリエ・ドリュサ。ネリュアの姉にあたる者よ」
ネリュア。
その名を聞いた瞬間、胸の奥で止まりかけていた火がまた燃えた。
キュベリエ「お主の叫びが、時の壁を越えて届いた。あやつの傍におった人の娘じゃな」
彼女はまっすぐ私を見た。その目には同情も気づかいもない。ただ、値踏みするようでもなく、ひたすら覚悟だけを見ている目だった。
瑠香「覚悟って……私は、愛斗を探しに行くだけです」
キュベリエ「『だけ』、か」
キュベリエは小さく息を吐いた。その声音には笑いはなかった。
キュベリエ「よいか。わしは一度、人の心を救うことに失敗しておる。その失敗が、世界の歪みを大きくした。ゆえに、軽々しく人を試したくはない。じゃが、お主の心の炎は……どうやら本物らしい」
彼女の瞳の奥に、一瞬だけ深い影が差した。何百年も消えずに残っている後悔みたいな色だった。
キュベリエ「……お主を異世界へ送ることはできる。されど、戻れぬやもしれん。お主の住む世界も、家族も、日常も、そのすべてを捨てる覚悟があるか」
私は一瞬も迷わなかった。
考えるまでもなかった。もうこの三日で、私は十分に思い知らされていた。愛斗のいない景色がどれだけ空っぽか。笑い声も、学校も、祭りも、全部どうでもよくなるくらい、あいつがいるかいないかだけで世界の意味が変わってしまうことを。
瑠香「愛斗がいないなら、そんなものに意味はありません」
声は思ったより静かだった。けれど、自分でも驚くくらい迷いはなかった。
キュベリエはしばらく黙って私を見つめ、それからゆっくり頷いた。
キュベリエ「……よかろう。妹が見込んだのも、無駄ではなかったらしい」
そう言って、彼女は社の奥へ歩き出した。私も黙ってその背中を追う。
井戸の前で立ち止まったキュベリエは、縁へ手を置いた。指先が、ほんのわずか震えている。それを見た瞬間、この人は強いだけじゃないのだと分かった。強くあろうとしている人なんだ、と。
キュベリエ「覚えておけ。これからお主が行くのは、物語ではない。血と痛みと絶望が渦巻く場所じゃ。お主の常識は通じぬ」
私は頷いた。
キュベリエ「妹は、人の心を信じすぎる。お主のような炎を見つけると、すぐに自分のすべてを賭けたがる。その純粋さが、時に己を傷つけ、最悪の場合は世界をも傷つける」
その言葉には、責める響きよりも悔いが滲んでいた。私は目の前の女の背中に、ネリュアを何度も見送ってきた者の重さを見た気がした。
キュベリエはゆっくりとこちらへ手を差し出した。
私は何も言わず、その手を握る。ネリュアの手とは違う。冷たいのに、氷みたいな冷たさじゃない。長く武器を握ってきた掌の硬さと、石みたいな静けさがあった。
キュベリエ「……よい。ならば行くぞ」
彼女は井戸の縁へ向き直り、深く息を吸った。
キュベリエ「【時緑詠環】。わしとこの娘を、妹の元へ繋ぐ森の道を」
その詠唱と同時に、井戸の底から緑の光が立ち上った。
ネリュアの見せた光が静かな水面だとしたら、こちらは奔流だった。圧のある光が柱になって吹き上がり、井戸の縁を越え、私たちの足元で渦を巻く。緑の光は生き物みたいに絡みつき、身体の輪郭をなぞるように這い上がってくる。
瑠香「……っ」
視界が緑に染まっていく。地面の感触も、日本の空の色も、全部が薄れていく。
それでも、愛斗が消えたあの瞬間だけは、焼き付いたままだった。
キュベリエ「心せよ。異世界では、空気そのものが牙を剥く。じゃが、お主のその炎があれば――」
声が、光の中へ溶けていく。
私は心の中で、たった一つだけ強く思った。
今度は、置いていかない。
その誓いだけが、渦巻く緑の中でもまっすぐ自分の中心に立っていた。キュベリエは落ち着いているのに、私の心臓は鳥みたいに暴れている。怖くないわけがない。何が待っているのかも分からない。
それでも、もう引き返す気はなかった。
落ちていく感覚は、あのとき外から見たのとは全然違っていた。
深く冷たい水へ沈み込むみたいに、時間そのものが粘ついている。上下の感覚も、音も、遠近感も曖昧で、ただ自分だけがどこかへ引っ張られていく。
無音の中で、キュベリエの手だけが唯一の確かさだった。




