第7話:双蛇の星と、寄り添う眠り
森の縁へ出てからも、俺の頭の中ではさっきの会話が何度も反復されていた。
「森の姫様が、魔物に攫われた」
「昨晩、城の方で姫殿の祝宴が催されていた」
「教会の周りだけは魔物の気配が薄れん。むしろ増えている」
言葉だけじゃない。話していた女の声色も、老人の皺だらけの口元も、若い男が唾を吐き捨てた角度まで、妙に鮮明に残っている。忘れようとしても忘れられない。記憶というより、頭の中へそのまま焼き付いてしまったみたいだった。
ネリュアは俺の腕に体を預けたまま、しばらく黙っていた。けれど、俺が会話を思い返すたび、彼女の肩がかすかに強張るのが分かった。何も言わないくせに、俺の支えを求めるみたいに、さらに深く体重を預けてくる。
俺たちは村を離れ、森の縁の少し開けた場所で足を止めた。
夜が、もう森の奥から這い出してきていた。木々のあいだから覗く空には、日本では見たことのない星の並びが浮かんでいる。なのに、その位置も形も、一度見ただけで頭の中へ定着していくのが自分でも分かった。
俺は目を閉じ、数秒置いてからもう一度空を見上げた。
さっきとまったく同じ配置だった。一つとして違わない。まるで写真でも撮ったみたいに、輪郭まで鮮明に思い出せる。
昔から、こういうことはあった。
気になったものは、ずっと頭の中に残る。好きなアニメの台詞。初めて食べた屋台ラーメンの味。瑠香が笑うとき、少しだけ右の口角が先に上がること。全部、妙なくらいはっきり覚えている。
ネリュア「……お主は、何を見ておるのじゃ」
その声に、俺は現実へ引き戻された。
ネリュアは疲れた身体を起こし、俺の隣へ座っていた。俺は答える代わりに、黙って空を指さす。ネリュアもまた視線を上げた。
ネリュア「あれは……『双蛇』の星座じゃ。この世界では、不幸の前兆として恐れられておる」
その声には、さっきまでの疲労の色が少し薄れていた。森の静けさと同じくらい古く澄んだ響きだけが残っている。俺は答えず、ただその横顔を見た。星を映した琥珀色の瞳は、どこか人間離れして綺麗だった。
ネリュア「……村で聞いた話、覚えておるか。姫が攫われた。されど、城では姫の祝宴が開かれていた」
愛斗「ああ。だとしたら、姫は無事ってことになる」
ネリュア「それは、おかしい」
愛斗「じゃあ、どっちが本当なんだよ」
ネリュアは星空から視線を外し、静かに言った。
ネリュア「……どちらも真実で、どちらも偽り。世界が歪むとき、こういう形で綻びが表へ出ることがあるのじゃ」
その言葉は風に紛れた囁きみたいだった。なのに意味だけははっきりと胸へ刺さる。
真実と偽りが同時に存在する。
そんな世界で、何を信じればいいのか。どうやって足場を見つければいいのか。俺にはまだ分からなかった。
暗闇は、もう完全に森の主になっていた。
俺は焚き火を起こした。薪は、さっきの村外れで拾った乾いた枝や、ネリュアが見つけた細い木片だ。火はすぐに移り、ぱちぱちと小さく爆ぜ始める。その音だけが、夜の静寂へ不意に亀裂を入れては、また消えた。
俺とネリュアは、焚き火を挟んで向かい合うように座った。
彼女は膝を抱え、その上へ顎を乗せて炎を見つめている。火が揺れるたび、琥珀色の瞳の奥に小さな光が乱反射した。感情がそこから滲み出ているみたいだった。
焚き火の熱だけが、俺たちの間にできた薄い壁をわずかに温めていた。それ以外の距離はまだ遠い。俺もネリュアも、うまく言葉を見つけられない。ただ、青裂鬼の死体と、あの光の奔流の記憶だけが、二人のあいだに重く沈んでいた。
夜気が肌を撫でる。虫の声はもう途切れ、木々の葉擦れだけが人のため息みたいに細く続いている。焚き火の光と闇の境界が、地面へ不気味な曲線を描いていた。俺はしばらく、それをぼんやり見ていた。
ネリュア「……お主は、恐れぬのか」
ふいに、彼女が口を開いた。
愛斗「怖いよ。ずっと、怖いままだ」
俺は右手を見た。あの光を放ったあとから、まだどこか他人の腕みたいな違和感が残っている。
ネリュア「……妾は、人の寝方に慣れておらぬ」
意味が分からなくて、俺は顔を上げた。
その直後、ネリュアは静かに立ち上がり、焚き火を回り込んで俺の後ろへ来た。そして、そのまま背中へそっと身体を預けてきた。
驚くほど軽い。
服越しに伝わるのは、ほとんど体温のない冷たさだった。人の肌というより、夜露を吸った苔や、月の当たらない井戸の水みたいな冷たさだ。俺は思わず息を詰め、前へ倒れそうになるのを慌てて踏ん張った。
ネリュア「……これが、妾たちの眠り方。森の仲間たちと寄り添い、互いの眠りを守るのじゃ。お主も、目を閉じるとよい」
傷ついた枝みたいな髪が、俺の肩へ滑り落ちる。そこから立ち上るのは、苔と夜露の匂いだった。吐息がかすかに耳へ触れる。そのわずかな熱だけが、彼女が冷たい彫像ではなく、生きているのだと伝えてくる。
俺は息を呑んだ。
ただ触れているだけなのに、妙に心臓が騒ぐ。距離の近さそのものより、もっと別の場所を揺さぶられている感じがした。
夜の冷気は思っていたより鋭かった。焚き火の炎が揺れるたび、俺たちの影も揺れ、その隙間を縫うように闇が入り込んでくる。ネリュアの身体は背中越しに冷たく、その冷たさが服を通してじわじわと伝わってきた。
呼吸が耳に触れる。規則的なのに、どこか生きること自体を久しく忘れていたものが、ようやく呼吸の仕方を思い出したみたいな静かな響きだった。
愛斗「……寒くないのか」
返事はなかった。
俺はゆっくり首をひねって、背後の様子を窺った。
ネリュアの顔は俺の肩へ寄りかかるように傾いていて、琥珀色の瞳はもう閉じられていた。長いまつ毛が青白い頬に影を落としている。さっきまでの緊張も警戒も、寝顔からはすっかり消えていた。森の最も深い場所で、ようやく眠りに落ちた生き物みたいな、静かで無防備な顔だった。
彼女はもう、俺の問いに答えられないところまで眠っていた。
背中から伝わる冷たさが、不意に別の意味を持つ。これはただ温度が低いというだけじゃない。長いあいだ、ひとりで戦い続けてきた時間そのものが、こうして身体に残っているような気がした。
俺は無言で上着を脱いだ。
夜気が肌を撫で、ぬめるような冷たさを残していく。俺はできるだけ起こさないよう息をひそめ、そっとその上着をネリュアの肩へ掛けた。布が彼女の細い身体を覆う。
背中から伝わる冷たさが、ほんの少しだけ和らいだ気がした。




