第6話:初めて斬ったもの
握りしめた柄の感触は、あまりにも現実的だった。
冷たく、重い鉄の感触が指の腹へ食い込み、その重みだけが今の俺を現実へ繋ぎ止めているようだった。俺は剣を構えたまま、最初に近づいてきた青裂鬼の目を見た。そこにあるのは、飢えだけだった。理性も怒りもない。ただ乾いた泥の底を覗き込むみたいな、虚ろな飢えだけがあった。
次の瞬間、世界が狭まった。
剣先から怪物の胸元まで、ほんの数メートル。青裂鬼は前のめりに突進してくる。その動きは歪で、それなのに妙に一定のリズムを持っていた。硬い足音が地面を叩き、腐臭が風に乗って濃く届く。
俺は間合いを測ろうとした。
でも、そんなことができるほど余裕はなかった。学校で習った剣道の型なんて、ここでは何の役にも立たない。理屈じゃない。ここにあるのは、生きるか死ぬかだけだった。
俺は剣を振り下ろした。
青裂鬼は不自然に身体を傾け、あっさりとその一撃をかわす。空を切った剣の重みが、そのまま腕の痺れになって返ってきた。体勢を崩したまま、俺は無理やり次の一撃を繰り出す。だが遅い。鈍い。剣先は風だけを裂き、怪物には届かない。
冷たい汗が背中を伝った。
その隙を、別の青裂鬼が狙ってくる。
視界の端に青緑の影が走った。背後へ回り込まれている。振り向くより早く、その鉤爪が俺の背中を裂こうと伸びてきた。
終わった、と思った。
その瞬間、目の前の空間が歪んだ。
透明な膜を、内側から誰かが押し上げたみたいに、空気そのものが不自然に膨らむ。俺の意識が、その歪みへ吸い込まれていく。思考が止まる。代わりに、身体の奥底から眩い何かが一気にせり上がってきた。
目の前の青裂鬼の輪郭がぼやける。
俺の腕が、自分の意志とずれた動きをした。
【光断一閃】。
白く燃えるような光が、右腕から噴き出した。
それは剣を伝った斬撃じゃなかった。俺の意志そのものが、光になって空間を裂いた。届くはずのない距離。届くはずのない速度。俺の腕が振り切るより先に、光の奔流が青裂鬼の肩口を貫いていた。
湿った音が響く。
肉が裂け、骨が砕ける。青裂鬼は不意を突かれたみたいに動きを止め、そのまま膝から崩れ落ちた。肩から腕にかけての半身が、不格好に抉られている。そこから黒く粘った液体が滴り落ち、土の上へ広がっていった。
俺は、すぐには理解できなかった。
剣がかすかに震えている。柄から伝わる鉄の重みだけが、今起きたことを現実だと証明していた。
俺は、自分の右手を見つめた。
震える指先。そこへ残る痺れ。剣が怪物を斬ったんじゃない。俺の腕から何かが放たれて、空間ごと抉った。そんな、ありえないことが起きた。
脳が追いつかない。理解しようとすると、その前に現実だけが先に立ってくる。指の関節の奥に、さっきの光の残滓みたいなものがまだこびりついていた。
倒れた青裂鬼の肩口から、黒く濁った液体がじわじわと地面へ滲んでいく。それは血というより、腐った沼の底を掬ったみたいな色だった。異臭が鼻の奥へ貼りつく。
殺した、という実感はまだない。
ただ、目の前の怪物はもう動かない。そして、動かなくなったのは俺じゃない。生き延びたのは、俺の方だ。
その事実だけが、遠くから聞こえる他人の声みたいに頭の中で反響していた。
鼓動が速い。喉がからからに乾いている。
ネリュアは、倒れた青裂鬼と震える俺の右手を交互に見ていた。その琥珀色の瞳に、驚きや称賛はない。ただ長い時間を見つめてきた者だけが持つような、静かな肯定だけがあった。
ネリュア「……お主の中に眠っていた、光の奔流じゃ。それが、妾たちを救う鍵となる」
その声は森の奥から吹いてくる風みたいに静かだった。大げさに褒めもしない。慰めもしない。ただ、起きたことをそのまま認めている。その静けさが、かえって俺の混乱を深くした。
彼女はこの惨劇を、最初から予期していたみたいだった。
俺が放った光も、倒れた怪物も、震える手も、全部が何か大きな流れの一部であるかのように、ただ静かに見つめている。その視線は、俺を恐怖の底から引っ張り上げる代わりに、もっと別の場所へ落としていった。
底の見えない戸惑いだった。
俺はゆっくりと膝をついた。地面の冷たさと湿り気が、ズボン越しにじわりと伝わる。剣の重みはまだ腕に残っていた。見たこともない怪物を、見たこともない方法で倒した。安堵よりも先に、自分の中へ生まれてしまった異物の方を強く意識していた。
ネリュア「……まだ、お主が完全に覚醒したわけではない。あれは、お主の心が必死にもがいた果てに、偶然漏れ出た力にすぎぬ。されど、その片鱗は確かじゃ」
ネリュアは立ち上がりかけ、青裂鬼の残骸を一瞥し、すぐに俺へ視線を戻した。
俺はゆっくりと立ち上がり、地面に落ちた剣を拾い直した。柄を握るたび、あの光の奔流の感触が指先によみがえる。吐き気にも似た違和感が胸の奥から込み上げた。
ネリュアが俺の腕にそっと触れ、かすかに首を横へ振る。
ネリュア「……ここにいては、また裂鬼が寄る。森の外へ出るのじゃ」
彼女の足取りは、さっきより少しだけましになっていた。けれど顔色はまだ白いままだ。俺は何も言わず頷き、彼女を庇うようにその背後へ回った。
二人で朽ちた社を離れる。
森の木々は、さっきよりさらに深い影を落としていた。まるで獣が息を潜めて、こちらを見下ろしているみたいだった。
しばらく進むと、木々の間に人の手の入った畑が見え始めた。煙がいくつも立ち上り、集落の輪郭が夕闇の中にぼんやり浮かんでいる。
村へ近づくにつれ、ネリュアは目を伏せがちになり、頭を覆っていた枝葉の編みものを深く被り直した。俺もそれに倣って、なるべく目立たないよう顔を伏せる。
村へ入ると、土の道にはまばらに石畳が混じり、屋根の向こうから薪の匂いと濃いスープの匂いが流れてきた。人々は粗末な服をまとい、疲れた目で俺たちを一瞥するだけで、すぐそれぞれの仕事へ戻っていく。
けれど、耳は勝手に周囲の会話を拾っていた。
広場の古井戸のそばで桶を洗っていた女たちが、ひそひそと噂話を交わしている。
女A「聞いたかい。森の姫様が、魔物に攫われたんだってさ」
女B「まさか……。あれほど森の加護を受けた方を、何が攫うっていうの」
女A「城から来た役人が言ってたよ。夜更けに悲鳴が聞こえて、そのまま姿がなくなったって。王城じゃ大騒ぎらしい」
その近くで薪を背負った老人も、周囲を窺うように声を潜めていた。
老人「……攫われたなど、そんなはずはあるまい。昨晩、城の方では姫殿の祝宴が催されておったと聞くぞ。遠目にでも分かるほど、明かりが煌々としておった」
女B「祝宴……? でも、あの祝宴、妙な噂もあるって……」
老人「ああ。姫の無事を祝う席だと言われてはおるが、どうにも気味が悪い」
井戸の向かいで作業していた若い男が、嫌な顔をして唾を吐き捨てる。
若い男「祝宴がどうだろうが知らんが、この教会の近くだけは魔物の気配が薄れねえ。むしろ増えてる。先日も、村外れで裂鬼が羊を食ってた」
女Aは、石造りの教会の方を不安げに見た。夕暮れの空を背にしたその建物は、本来なら安らぎの象徴のはずなのに、今は重く不吉な影みたいに見える。
女A「夜はもう、あの近くを通れやしないよ。先週も祈祷師見習いの子が森の方から戻らなかったって。見つかったのは聖水の瓶だけだったそうじゃないか」
老人「……教会に仕える者までやられるとはな。姫の祝宴と、教会の周りの魔物の増加。どちらにも、嫌なものが混じっておる」
俺はネリュアの肩を支えながら、村の中心を外れて森の縁へ近い静かな場所へ歩いた。
頭の中では、さっきの会話がもう整理され始めていた。
姫は攫われた。
なのに、姫の無事を祝う祝宴が城で開かれている。
しかも教会の周辺だけ、魔物が増えている。
不気味なくらい噛み合わない情報が、少しずつ一本の線になりかけていた。




