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ただの高校生だった俺は、異世界召喚で空間を斬る最強になったのに、帰ってみたら幼馴染が王家の姫になっていた  作者: NOVENG MUSiQ


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第3話:触れた先の、歪んだ世界

 愛斗「……悪いけど、俺にはやっぱり――」

 ネリュア「妾と来てくれぬか?」


 俺の言葉は、彼女の静かな問いかけに遮られた。


 それでも、何か言わなければならないという焦りだけが胸を焼く。俺はネリュアの顔から目を逸らし、足元の苔へ視線を落とした。それから、もう一度だけスマホの画面を見る。


 瑠香の顔が浮かぶ。百年祭の喧騒が耳の奥へ戻ってくる。俺が属しているはずの、温かくて、少しだけ息苦しい世界。


 それに比べて、目の前の少女は冷たかった。触れれば指先から凍っていきそうな、美しい氷の彫像みたいだった。


 本当に信じていいのか。これがただの現実逃避ならどうする。瑠香との約束は。家族は。学校は。明日は。


 ごく普通の疑問ばかりが、頭の中で騒がしくぶつかり合っていた。なのに、それをきちんと言葉にする力が、今の俺には残っていない。


 ネリュアは、黙ったまま俺を見ていた。催促も焦りもない。ただ、俺がどんな答えを選んでも、それを受け止めるつもりでいるような、深い諦観に似た静けさだけがそこにあった。


 その目に映る自分が、ひどく頼りないものに思えた。


 俺が言葉に詰まっているあいだに、ネリュアの身体がかすかに揺れた。


 まるで彼女を支えていた何かが、音もなく切れかけているみたいだった。琥珀色の瞳の奥に灯っていた光が急に薄れ、背に浮かんだ蔓の模様が、力を失った花みたいにしなだれていく。その輪郭の先端は、もう霞み始めていた。


 ネリュア「……妾の力が、尽きかけておる……」


 さっきよりも、ずっと遠い声だった。


 その一言で、頭の中に渦巻いていた現実と非現実の境目が、一瞬で溶けた。


 瑠香との約束も、学校も、家も、明日も、全部いったん遠のいて、ただひとつ、目の前で静かに崩れかけている少女の姿だけが、異様なほど鮮明に浮かび上がる。


 助けたい、と思った。


 理屈じゃなかった。信じるとか、信じないとか、そういう話でもない。ただ、このまま消えていくのを見ていたくなかった。それだけだった。


 俺はもう一度、ネリュアの瞳をまっすぐ見た。


 愛斗「……何をしたらいい」


 俺の問いに、ネリュアの瞼がゆっくりと開いた。消えかけていた光が、その奥にかすかに戻る。


 ネリュアは、細い右手を俺の方へ差し出した。その動きは朝露を乗せた蜘蛛の糸みたいに儚く、それでいて芯だけは折れていない。


 俺は、その手を取った。


 触れた瞬間、凍るような冷たさが走った。水と苔を混ぜたような、不思議に滑らかな感触。けれどその冷たさは一瞬で消え、代わりに掌の内側から、じんわりとした光の温もりが広がっていく。


 自分の血の熱と、彼女の手の中に宿る森の光とが、静かに混ざり合っていくような感覚だった。


 ネリュア「……ありがとう、お主よ」


 彼女はそう囁くと、俺の手を引いて朽ちた社の奥へ進んだ。


 足元の苔が、まるで生き物みたいに光を増していく。社の奥には、石で囲まれた枯れ井戸のようなものがあった。井戸の縁には厚い苔が貼りつき、その内側には、底の見えない闇が口を開けている。


 ネリュア「妾の世界へ通ずる門じゃ。ここが、世界の壁の最も薄いところ」


 そう言って、彼女は俺の手を離さないまま井戸の縁へ立つ。


 その足元から、緑色の光が細い糸になって井戸の中へ垂れていった。植物の根みたいに、光の筋が闇の底へ絡みついていく。その光はやがて俺の足元にも伝い、地面を這うようにして井戸の内側へ吸い込まれていった。


 そのとき、社の周囲で木々が不気味にざわめき始めた。


 木漏れ日が陰り、風が止む。森全体が、巨大な肺みたいに一度だけ深く息を吸い込んだような、張り詰めた沈黙があたりを覆う。ネリュアの身体から滲む光が、足元の苔の輪を伝い、石段の一本一本を静かに照らしていった。


 俺の目の前にある井戸の口は、地面に空いた穴というより、夜そのものを円く切り抜いて、そこへ嵌め込んだみたいだった。縁を這う苔だけが、月光を浴びたように淡く光っている。


 ネリュアは井戸の縁に片膝をつき、俺の手を握ったまま、もう片方の手を闇へ差し向けた。その横顔は、ただ一度きりの儀式に臨む者のように、静かに澄み切っていた。


 ネリュア「……【(クロノ・)(ヴェルデ・)詠環(レクイエム)】。時を渡る森の歌を、今ここに」


 彼女がそう唱えた瞬間、握られた左手を通じて暖かな力が流れ込んできた。


 その力は井戸の縁を巡り、苔の輪を駆け上がり、屋根のない社の上空へ向かって、無数の光の蔓となって伸びていく。


 巨大な植物が、夜空へ向かって一斉に花開くようだった。


 梢が揺れ、葉がざわめく。森全体がひとつの生き物になって、深く呼吸しているような感覚が広がる。朽ちていた社の残骸がわずかに色を取り戻し、苔むした石壁が濡れた深緑に輝き始める。


 井戸の中から立ち上る闇と光が渦を巻き、星雲みたいに複雑な紋様を描きながら、俺たちの足元へ広がっていった。


 美しい、と思った。


 あまりにも美しくて、あまりにも現実離れしていて、世界そのものが生まれ変わる瞬間に立ち会っているような気がした。


 俺はネリュアの手を握り直した。もう、後戻りはできない。


 そう悟った、その直後だった。


 瑠香「愛斗!? なんでこんなところに……」


 背後から、瑠香の声が飛び込んできた。


 視界の端に、驚きで目を見開いた瑠香の顔が映る。けれど、その声はすぐに渦巻く光と風に呑まれていった。俺は振り返ることすらできなかった。ただ、目の前のネリュアの琥珀色の瞳だけを見つめていた。


 その瞳が、ゆっくりと閉じる。


 次の瞬間、世界が光になった。


 * * *


 瑠香には、何が起きたのか分からなかった。


 愛斗が、目の前から消えた。


 緑色の光に包まれ、輪郭が歪み、そのまま井戸の底へ吸い込まれていったように見えた。けれど、そんなのは現実のはずがない。祭りの催しでも、映像でも、幻でもなくては困る光景だった。


 信じられない。信じたくない。


 瑠香「愛斗!」


 叫んだ声は、森の静けさに吸い込まれて消えた。


 自分は確かに見た。見知らぬ緑の少女と手を取り合った愛斗が、地面に穿たれた闇の中へ消えていくのを。なのに、何もできなかった。足が動かなかった。ただ立ち尽くして、それを見送ることしかできなかった。


 やがて光が収まる。


 残されたのは、朽ちかけた社と、深い闇を湛える井戸の口だけだった。


 そして、胸の真ん中に開いたばかりの、空っぽの穴。


 愛斗の温もりも、愛斗がそこにいたという気配も、まるで最初から存在していなかったみたいに消え失せていた。緑色の残光だけが、網膜の裏に焼きついている。でもそれだって、幻の名残みたいなものにすぎない。


 足元には、愛斗が立っていたはずの場所にだけ、枯れ葉がわずかに散らばっている。あとは何もない。誰もいない。


 世界は静けさを取り戻したように見えるのに、その静けさは、さっきまでのものとはまるで別物だった。耳を澄ませば、木々の葉擦れさえ、自分をあざ笑っているように聞こえる。


 瑠香は、その場で拳を握りしめた。


 何が起きたのか分からない。けれど、ひとつだけ分かる。


 愛斗は、自分の知らない場所へ行ってしまった。


 それだけが、胸を刺すみたいにはっきりしていた。


 * * *


 光に呑まれる感覚は、潜ることに似ていた。


 水の中へ沈むのとは違う。途方もない密度の空気に全身を押し包まれ、ゆっくり、けれど確実に圧し潰されていくような感覚だった。ネリュアの手の温もりだけが、唯一の命綱みたいに残っている。


 目を開けようとしても、まぶたは鉛みたいに重かった。光だけが、外からではなく、目の奥から滲み出してくる。


 そのほんの一瞬だった。


 視界の隅に、別の景色が焼き付いた。


 燃えさかる空。黒い雨を降らせる巨大な結晶。その下で、それを見上げている誰かの背中。


 それが俺自身なのか、別の誰かなのか、分からない。


 けれど、その視線はひどく虚ろだった。世界の終わりを前にして、抗うことさえ忘れてしまったような、諦めの色をしていた。背中には、ネリュアと同じような蔓の模様が浮かんでいる。だがそれは、枯れかけた草木みたいに色褪せて見えた。


 まるで、戦う理由そのものを失いかけているみたいだった。


 その断片的な幻視が頭に焼きついたまま、落下はさらに加速していく。


 風の音がしない。空気の抵抗もない。重力という名の透明な糸に、手足を縛られたまま真下へ引きずり込まれていくような、不条理な感覚だけがある。ネリュアの握る力が強まるにつれて、その速度はなおさら増していった。


 ようやく目を開く。


 そこには、上下の感覚を失わせる深緑の森が広がっていた。


 逆さまの木々が、生き物みたいにうごめいている。根は大地に刺さっていない。葉は風に揺れてもいない。ただ、巨大なひとつの塊として、口を開けて俺たちを迎え入れようとしていた。


 ネリュア「……着くぞ」


 彼女の声だけが、この無音の落下の中で、確かに響いた。

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