第11話:祈りの下に巣食うもの
俺たちは、教会へ向かった。
村人たちが避ける道を、俺たちはあえて辿っていく。昼の光はまだ残っているはずなのに、この道に差し込む陽射しだけはどこか弱かった。木々の枝が不自然に絡み合い、その隙間から落ちてくる光は、篩にかけられたみたいに細く乏しい。地面にはまだらな影が張りつき、踏み込むたびに空気が一段ずつ冷えていく。
教会は丘の上にあるはずだった。
なのに、近づくほど周囲の景色は狭まり、道だけがどこか別の時間へ潜り込んでいくみたいだった。足元の草はとうに生気を失っていて、踏めば乾いた骨みたいな音を立てる。鐘が鳴っていてもおかしくない距離まで来ているのに、聞こえるのは風が尖塔を掠めるたびの軋みだけだった。
やがて、教会が見えた。
石造りの建物は丘の上に重たく据わり、空を押し潰すみたいに立っている。石畳はところどころ砕け、その隙間から苔ではなく、黒い泥のようなものが滲み出ていた。扉には聖印の彫刻がある。かつては祝福の象徴だったのだろう。けれど今、その中心には縦に深い傷が刻まれ、まるで何かに拒絶されたみたいだった。
隣で、ネリュアがかすかに身を震わせる。
愛斗「……ここで合ってるんだな」
ネリュア「……あまりに、穢れておる」
その声は低く、静かだった。怒鳴りもしないし、顔を歪めもしない。けれど、そこには燃える怒りよりもよほど重い感情が沈んでいた。踏みにじられた祈りを前にした者の、冷えきった怒りだった。
俺は扉へ手をかけた。
押すと、蝶番が鈍く軋んだ。その音はやけに長く、暗い内部へ吸い込まれていく。開いた隙間から流れ出してきた空気に、思わず眉をしかめた。
腐臭だった。
それも一つじゃない。生ごみの腐りきった匂い。乾いた血の匂い。どこか甘ったるい異臭。それらが混ざり合って、肺の奥へべったり貼りつく。
中へ足を踏み入れる。
床には砕けた彩色硝子の破片が散らばっていた。踏むたび、しゃり、と乾いた音が鳴る。光を拾ったその欠片は星みたいに綺麗だったが、照らし出しているのは剥がれ落ちた壁、乾いた血痕、朽ちた聖具、引き倒された長椅子ばかりだった。
祭壇の前に並んでいたはずの椅子はひっくり返され、そのいくつかは焚き木みたいに積み上げられている。祈る場所だった記憶そのものを、誰かが故意に壊したみたいな荒れ方だった。
俺は祭壇の近くまで進み、床に転がった聖杯を足先で軽く返した。鈍い金属音が響く。軽いはずなのに、妙に重く聞こえた。
背後で、ネリュアが俺の袖からそっと手を離した。
彼女は祭壇の前へ歩み寄り、黒く汚れた布の切れ端へ指先を触れた。それは聖布の名残だったのかもしれない。彼女が撫でた場所から、ほんのわずかに光が滲み出て、すぐに消える。まるで、この場所に残っていた祈りの記憶が、一瞬だけ呼吸を取り戻しかけたみたいだった。
ネリュアの瞳が、ひっくり返された長椅子や、煤けた壁画、散乱した祭具を静かに辿っていく。
その横顔に派手な怒りはなかった。ただ、冷たく、深いものがあった。何百年も凍りついた氷河が、時間をかけて大地を削っていくような執拗な怒りだった。
ネリュアは祭壇の裏へ回り込み、そこで足を止めた。
愛斗「どうした」
返事の代わりに、彼女は下を指さした。
祭壇の陰に、小さな鉄格子が埋め込まれていた。床と同化するように隠されていて、言われなければ気づかなかっただろう。その下から、湿った冷気と、さらに濃い腐臭がじわじわと這い上がってきている。
俺はしゃがみ込み、格子へ手をかけた。錆びついている。力を入れてもびくともしない。
舌打ちしかけた、そのときだった。
視界の端で、空気がわずかに揺れた。
まただ、と思う。
あのときと同じ“ずれ”だった。空間の表面に、目には見えない膜が重なっている。鉄格子の輪郭が、ほんの少しだけ本来の位置から外れて見える。
俺は息をひそめ、その揺らぎへ意識を集中させた。
右腕の奥で、あの感覚が目を覚ます。まだ名前も扱い方もよく分からない、けれど確かにそこにある力。俺はゆっくり右手を差し出し、格子の隙間ではなく、“そこにあるはずのない隙間”へ指先を伸ばした。
触れた瞬間、抵抗はなかった。
水面に手を沈めるみたいに、指が空間の膜をすり抜ける。腕の周囲の空気が粘りつき、金属と腐敗の匂いが一気に濃くなった。
背中へ、そっと温もりが触れる。
ネリュアが後ろから寄り添い、細い手を俺の腕へ重ねていた。そこから零れるかすかな光が、俺の右手へ流れ込んでくる。
すると、目の前の暗闇が静かに裂けた。
鉄格子の向こうに隠されていたのは、地下へ続く石段だった。苔と黴に覆われた、古い下り階段。教会の地下というより、墓所へ続く入り口みたいだった。
愛斗「……行くしかないな」
ネリュア「うむ。気をつけよ」
俺は頷き、先に足を踏み入れた。
一段下るごとに空気が冷たくなる。地上の冷たさとは違う。もっと湿っていて、閉ざされていて、長いこと人の目から隠されてきた場所の冷たさだった。壁に触れれば、ぬめりを帯びた苔が指にまとわりつく。滴る水音だけが、この地下の時間を数えていた。
“ずれ”の感覚が、さっきよりもずっと濃い。
まるでこの地下には、今自分が立っている空間と、少しずれた別の空間が何層も重なっているみたいだった。石段を下るたび、身体の輪郭までわずかにずれていくような気味の悪さがあった。
石段はそれほど長くなかった。
その先には、薄暗い広間が広がっていた。
天井からは苔の房がいくつも垂れ下がり、まるで首を垂れた亡骸の腕みたいに揺れている。壁には人が這ったような跡が幾筋も残っていた。乾いた血と黒ずんだ泥がこびりつき、ここで何が行われてきたのかを説明もなしに告げている。
ネリュアが小さく息を呑んだ。
その指先が、俺の袖をかすかに引く。
恐怖ではなかった。これは怒りだ、と分かった。祈りのための場所が、こんなふうに使われていることへの怒り。
広間の奥に、影があった。
俺は反射的に壁際へ身を寄せ、ネリュアを背に庇う。視線だけを滑らせるように、そちらを窺った。
最初に見えたのは、小さな人影だった。
子どもみたいに小柄な体。前下がりの青い髪。前髪が深くかかり、目元はほとんど見えない。けれど、その隙間から覗く瞳だけははっきり見えた。翡翠みたいな色をしていた。
その少女は、小ぶりな剣を両手で握っていた。
抱きしめるみたいに、必死に。指の関節が白くなるほど力を込めて。その剣だけが、自分を現実へ繋ぐ最後のものだと信じているみたいに。
俺はすぐに身を隠せる場所を探した。壁際に、壊れた長椅子が積み重なっている。その隙間へネリュアを先に押し込み、俺も滑り込む。
息を殺す。
隙間から広間の奥を覗く。
青髪の少女は動かなかった。
けれど、見られていると分かった。あの翡翠色の視線は、もうこちらを捉えている。闇の中に潜んでいる俺たちの位置を、正確に見定めている。
その視線に、敵意だけはなかった。
怯えと、警戒と、最後まで信じないという頑なさ。その全部が混ざった視線だった。
そしてその奥。
もう一つの影があった。
衣擦れのような、乾いた音がかすかに響く。俺は慎重に視線をずらし、さらに奥を覗き込んだ。
そこにいたのは、姫だった。
城の玉座にいた少女と、よく似た姿。だが、こちらにはあの作り物じみた完成された美しさはない。蝋燭の火が消える寸前みたいな、かすかな儚さだけがあった。
白く細い腕が杭のようなものへ縛られ、頭は力なく垂れている。足元には淡い光の輪が描かれ、その輪そのものが見えない鎖となって、彼女をその場へ縫い留めているようだった。
しかも、その光の輪は、俺が見てきた“ずれ”と同じ震え方をしている。
城にいる姫。
教会にいる姫。
その二つが、ここで現実として並んだ。
俺の喉がひりつく。
青髪の少女と、囚われた姫。その二つを同時に視界へ入れたまま、俺は次にどう動くべきか考えた。
そのときだった。
青髪の少女の唇が、かすかに動いた。
青髪の少女「……来た」
震えるような、小さな声だった。
それが俺たちへ向けられたものなのか、それとも別の何かを告げる言葉なのか、すぐには分からなかった。
ただ、その一言と同時に、少女の指が剣の柄をさらに強く握り込む。
その手元が、不気味なほど白く見えた。




