第10話:城にいる姫
夜が明けるころ、俺たちは森を抜けて城へ向かった。
村から見上げていた城は、ただ丘の上にある灰色の塊に見えていた。だが近づくにつれ、その巨大さは景色ではなく圧として迫ってくる。道は途中から石畳へ変わり、両脇には等間隔に木々が並んでいた。整いすぎたその並び方が、かえって息苦しい。空の色が移り変わるたび、城壁の石肌は冷えた岩にも、濡れた苔にも見えた。
城門の前で、衛兵に止められた。
無骨な鉄兜。擦り減った甲冑。俺たちを見る目には、最初から歓迎などない。疑いと警戒だけが沈んでいる。俺がどう答えるべきか迷ったそのとき、ネリュアがそっと俺の袖を引いた。
振り返ると、彼女は頭を深く伏せ、枝葉を編んだ被りものをさらに引き下げていた。顔を見られたくない、というより、あの城そのものを直視したくないみたいだった。
俺は半歩前に出て、彼女を庇うように立つ。
手持ちの荷も身分もない以上、まともに名乗ったところで怪しまれるだけだ。俺は村で拾った古い銀貨を一枚、衛兵へ差し出した。衛兵はそれを指先でひっくり返し、しばらく俺たちを睨んでいたが、やがて鼻を鳴らして脇へ退いた。
城の中へ入った瞬間、肌が粟立った。
想像していたのとは違う。
華やかさも、荘厳さも、ないわけではない。広間は広く、天井も高い。色褪せてはいるが大きなタペストリーが壁を飾り、床の石は長年の往来で磨かれて鈍く光っている。けれどそこに、人が生きている場所の温度がなかった。
空気が淀んでいる。
閉めきられた蔵の中みたいな匂いがする。祝宴だの無事だの、そういう言葉の名残がどこにも感じられない。人の声も、笑いも、祝う空気も、全部誰かが拭き取ってしまったみたいだった。
そして、その広間の奥。
玉座に、姫がいた。
透き通るように白い肌。金糸みたいに光を含む髪。ひと目で、姫だと分かる美しさだった。遠目に見ただけで、村人たちが口にしていた噂話がひとつの像になって立ち上がってくるようだった。
愛斗「……いるじゃないか」
思わず、そう呟いていた。
村では姫が攫われたと聞いた。けれど目の前には、間違いなくそれらしい姿がある。噂が間違っていただけかもしれない。そう考えかけた、その瞬間だった。
ネリュアの指が、俺の袖を強く握りしめた。
その力は、昨日のどの場面よりも強かった。振り向くと、ネリュアは顔を隠したまま、玉座の方から視線を逸らしていた。背中に浮かぶ蔓の模様が、緊張で細かく脈打っている。
玉座の姫が、ゆっくりこちらを見た。
その目は澄んでいた。濁りはない。美しいとすら思う。なのに、見た瞬間、胸の奥に薄く冷たいものが落ちた。うまく言葉にできない違和感だった。整いすぎている。静かすぎる。そこにいることが、あまりにも完成されすぎている。
姫はかすかに微笑んだ。
それは人を和ませる笑みではなく、形だけを正確になぞった笑みだった。甘いようでいて、どこにも届かない。見ている側だけが勝手に意味を足してしまう、空っぽの微笑みだった。
ネリュア「…………」
袖越しに、彼女の震えが伝わってくる。
俺は小さく声を落とした。
愛斗「……ネリュア」
彼女はようやく、ほんの少しだけ俺の方へ顔を向けた。琥珀色の瞳には、これまで見たことがないほどはっきりした恐怖が宿っていた。
ネリュア「……やつは、姫ではない」
囁くような声だった。
けれど、それは疑いではなく断定だった。
俺の心臓が、ひどく重く沈んだ。
もう一度、玉座の姫を見る。
確かに美しい。確かに、姫と呼ぶにふさわしい見た目をしている。けれど、俺の中の記憶が静かにざわついていた。村で聞いた話と、この場の空気が、どうしても噛み合わない。
姫が無事だったなら、祝宴が開かれたなら、この城にもっと別の気配が残っていてもいいはずだ。酒や香の匂い。片づけきれなかった熱気。安堵した人の顔。そういうものが何ひとつない。
あるのは、ひどく冷たい整然さだけだった。
村で聞いた老人の声が蘇る。
――明かりが煌々としておった。
――無事を祝う席だと言われてはおるが、どうにも気味が悪い。
あのときは曖昧な違和感でしかなかったものが、今は目の前の現実と重なっていた。
この城には、生きた祝宴の匂いがない。
俺は心の中で自分を戒めた。
まだ断定はできない。違和感だけで騒げば、こっちが異物として排除されるだけだ。ネリュアの怯えは本物だ。だが、俺の目で見て、確かめられる事実はまだ少ない。
俺はネリュアの肩へそっと手を添えた。彼女の身体は細く、硬くなっていた。それでも、俺の手が触れたことで、ほんの少しだけ力が緩む。
玉座の姫は、俺たちなど最初からそこにいないものみたいに、再び視線を逸らしていた。完全に無視されている。そのこと自体が、逆に気味が悪かった。
俺たちはこの広間で明らかに場違いな存在だ。なのに、追い払うでもなく、問いただすでもなく、ただ「いてもいなくても同じもの」として扱われている。
それは歓迎ではない。関心の欠如ですらない。もっと別の、存在の手前で切り捨てられているような感覚だった。
そのとき、俺は広間の窓の外へ目をやった。
本来なら、この位置からは村で見た教会の尖塔が見えてもおかしくない。丘の配置は頭に入っている。ここからなら、遠くでも輪郭くらいは見えるはずだ。
なのに、見えない。
まるで、そこだけ誰かが景色を削り取ったみたいに不自然だった。
教会の周りで魔物が増えている、という村人の話が、そこで初めて別の手触りを持ち始めた。
衛兵たちは、玉座の姫を一点の曇りもなく「姫」として扱っていた。彼女が視線を向けるたび、背筋を伸ばし、その存在そのものを守るように立っている。その忠誠はあまりにも自然で、だからこそ不自然だった。
彼らにとって、この姫が偽物である可能性など、考える余地すらないのだろう。
俺はゆっくり後ずさった。
ネリュアを庇うように半歩ずつ、呼吸を乱さずに、何でもない顔で。衛兵たちの視線が背中へ刺さる。けれど、誰も止めない。止める必要すら感じていないのかもしれなかった。
城門を抜け、石畳の坂を下り、ようやく木々の影へ戻ったところで、ネリュアの膝から力が抜けた。
俺は慌ててその身体を抱き留める。
ネリュアは俺の腕へ倒れ込み、浅い息を繰り返していた。顔色はますます白く、背中の蔓の模様もさっきより色を失っている。
俺は近くの木の根元へ彼女を座らせ、肩を支えた。
城の空気がまだ肺の奥に残っている。息をするたび、あの姫の微笑みが頭に蘇る。美しいのに、空っぽで、どこにも繋がっていない笑み。
ネリュア「……あれは、姫の形をしておるだけじゃ」
かすれた声だった。
愛斗「……分からない。でも、確かに変だ」
ネリュアは少しだけ顔を上げる。
俺は続けた。
愛斗「祝宴があったにしては、城が死にすぎてる。人が喜んだ場所の空気じゃなかった。あと、教会の位置もおかしい。見えるはずなのに見えなかった」
ネリュアの瞳が、わずかに揺れた。
ネリュア「やはり、教会か……」
俺はその一言を胸の内で転がした。
まだ線は細い。けれど、たぶん間違っていない。姫が攫われたという噂。城で開かれたという祝宴。教会の周囲だけ増える魔物。見えるはずの尖塔が見えなかったこと。
全部がひとつの場所へ向かっている気がした。
俺たちはいったん村へ戻った。
広場では昨日と同じように人が動き、同じように疲れた顔で暮らしていた。けれど、俺にはもうその全部が昨日とは別の意味を持って見える。
ネリュアを人目につかない物陰へ座らせ、俺は水を汲むふりをしながら井戸端の会話へ耳を澄ませた。
しばらくして、皺だらけの老婆が声を潜めた。
老婆「……見たっていう子がおるんだよ。教会のあたりで、姫様そっくりの子を」
隣の若い女が、はっと息を呑む。
若い女「姫様を? でも、姫様は城に……」
老婆「だからこそ気味が悪いんだろうさ。夜更けに祈祷師見習いが尖塔のそばを通ったとき、彩色硝子に光が差して、その中に姫様みたいな影が立っていたそうだ」
若い女の声が震えた。
若い女「それって……幻じゃなくて?」
老婆「幻ならまだましだよ。魂が助けを求めておるのかもしれん。でなきゃ、あの教会のまわりにだけ、あんなふうに魔物が集まるものか」
別の女が、怯えたように口を挟む。
女A「もう、夜に教会へ近づくのはやめた方がいいよ……」
老婆は低く息を吐いた。
老婆「近づかぬ方がいい。あそこはもう、祈る場所じゃない」
その声は、忠告というより呪いのように聞こえた。
俺は水桶を持ったままその場を離れ、ネリュアのもとへ戻る。
彼女は木陰でじっと俺を待っていた。俺の顔を見た瞬間、それだけで何かを読み取ったように瞳を細める。
愛斗「教会だ。姫に似た誰かを見たって話がある。しかも、そこにだけ魔物が集まってる」
ネリュアは、ゆっくり目を閉じた。
そして、小さく呟いた。
ネリュア「……あれは、偽物じゃな」




