第1話:ひとりきりの百年祭
百年祭という名の、大騒ぎの祭りだ。商店街のアスファルトは足音と声の熱気で揺れていて、屋台からはたこ焼きと焼きそばの匂いが混ざり合い、まるで夏そのものを濃縮したような空気を作り出している。
俺、喜早 愛斗は、その騒がしさのただなかで歩道の縁石に腰掛けていた。人の波が俺のそばを通り過ぎるたび、風に揺れるビニールテープがカシャカシャと乾いた音を立てる。
この世界は、いつもより鮮やかで、少し息苦しい。屋台で揚がる唐揚げの油の匂いと、アイスキャンディーの甘ったるい香りが、妙な組み合わせのまま同じ空気の中に居座っている。
通りを挟んだ向かいのビルに取り付けられた巨大モニターでは、百年祭を記念した吹奏楽部の演奏が映し出されていた。けれどその音は遠のいていて、まるで海の底で聴くみたいに、どこかこもって聞こえる。
たこ焼きの鉄板に生地を流す屋台のおじさんの指の動き。通り過ぎたカップルが交わした短い会話。風でひらめくのぼり旗の赤。そういうものばかりが妙にはっきりと目に入って、次々に網膜へ焼き付いていく。
気づけば俺は、この祭りを楽しんでいる連中の輪の外側にいた。星乃 瑠香がいたなら、たぶんこうはなっていなかった。あいつなら俺の袖を引っ張って、あっちだこっちだと連れ回して、今ごろは何か食わされていたはずだ。そう思うと、胸の奥に細い棘みたいなものが刺さる。
俺はポケットからスマホを取り出した。画面に表示されたのは、一時間前の瑠香からのメッセージだった。『着いたら教えて! あと30分くらいで着くかも!』。その下には、猫のスタンプが二つ並んでいる。
返信を打ちかけて、やめた。何を書けばいいのか分からなかった。結局そのまま画面を暗くする。言葉というやつが、この祭りの喧騒の前ではやけに頼りなく思えた。
待つのは苦手だ。特に、決まった場所でじっと待つのはもっと苦手だ。
俺は縁石から立ち上がり、祭りの会場から少し外れた裏山へ足を向けた。あとで合流する約束はしているし、瑠香はいつも時間にルーズだから、まだ大丈夫だろう。それに、少しだけ人混みから離れて、静かな空気を吸いたかった。
裏山の入り口まで来ると、祭りの音は不思議なくらい遠のいた。木漏れ日が足元を照らし、緑の匂いが鼻をくすぐる。舗装されていない道はゆるやかな上り坂で、俺の運動靴が枯れ葉を踏みしめる音だけが、やけに大きく響いていた。誰もいない森の静けさは、さっきまでの熱気とは正反対で、それが妙に心地よかった。
俺は、どうしてこんな場所に来たんだろう。瑠香を待っているくせに、どうしてあいつが来るはずの喧騒から遠ざかっているのか。
答えはたぶん、簡単だ。
人の輪の中にいると、俺は自分の輪郭をうまく保てない。まるで水彩画みたいに、境目からじわじわ滲んで、周りの色に溶けていってしまう。
記憶は鮮明だ。でも感情は、曇りガラスの向こう側にある。瑠香の笑顔を思い浮かべても、それが自分に何をもたらすのか、うまく言葉にできない。ただ、あいつがいないだけで世界の色が少し薄くなる。そんな曖昧な感覚だけが残る。
森の静寂は、そんな俺の心を映す鏡みたいだった。枯れ葉を踏む音が響くたび、胸の奥の空っぽなところまで、同じように鳴る気がする。俺はそのまま森の奥へ、さらに奥へと進んでいった。どこまでも続く静けさが、自分を世界の外側へ置いてくれるような気がして。
そのとき、ポケットの中でスマホが短く振動した。瑠香からのメッセージだった。
『着いたよ! 中央広場の大きな噴水のところにいるから、来たら連絡して!』
その下には、ぴょんぴょん跳ねるうさぎのスタンプ。
俺は立ち止まり、しばらく画面を見つめた。喧騒の中にいるはずの瑠香の存在感が、今だけは妙に近く感じられる。返信を打つべきか、それともこのままもう少しだけ奥へ進むべきか。
一瞬だけ迷って、俺はスマホをポケットにしまった。返信はしない。この静けさを、もう少しだけ味わっていたかった。
木漏れ日が揺れている。夏の終わりというべきか、秋の始まりというべきか。蝉時雨の名残はもうなく、ただ風が梢をかすめる音だけが残っていた。
さらに奥へ進むと、苔むした石段が現れた。その先には、朽ちかけた鳥居と小さな社跡がある。祭りの華やかさとはまるで別の時間が流れているみたいで、空気そのものが違っていた。
鳥居の柱には長年の風雨で黒ずんだ痕が残り、社跡の屋根は崩れかけている。周囲を囲む木々は鬱蒼と茂り、陽の光をほとんど遮っていた。湿った土と苔の匂いが濃く立ちこめ、まるで時間だけがこの場所で足を止めたみたいだった。俺は無意識に息をひそめ、その静けさに耳を澄ませる。
そのときだった。
社跡の陰から、微かな光がゆっくりと滲み出てくるのを、俺は見逃さなかった。蛍かとも思ったが、季節が違う。しかもそれは、ただ明るいだけの光じゃない。生き物みたいに、ゆっくり脈打っていた。
思わず足が止まる。人間が作ったものには見えなかった。脈動のたびに、周囲の葉先まで小さく揺れた気がして、錯覚だと片付けるにはあまりにも妙だった。
やがてその光の中から、少女の姿がゆっくりと浮かび上がってくる。
ありえないほど、この場に馴染んでいない少女だった。
透き通るように白い肌。苔と夜露を溶かしたような、深緑と琥珀の入り混じる髪。まとっているものは現代の服とも違うし、古い時代の礼装とも違う。まるで森の葉と花をそのまま織り上げたみたいに、自然そのものを身にまとっている。
朽ちた社の中に、最初からそこにいたようにも見える。なのに同時に、まるでどこか別の世界から迷い込んできたみたいにも見えた。
少女は、枝先に吊るされた花みたいにか細かった。背後の苔むした幹にそっと身を預け、長い髪が傷ついた枝のように垂れている。息遣いはほとんど聞こえず、胸がかすかに上下していることで、ようやく生きていると分かる程度だ。
足元には、不思議な輝きを放つ苔の輪が広がっていた。その内側だけが満月の夜みたいな淡い光を放っているのに、少女の顔色は深淵みたいに青白い。まるでその光そのものが、彼女の命を吸い上げているみたいだった。身体からこぼれ落ちた光は、息絶えた蝶のように地面へ散っては消えていく。
最初は、祭りのイベントか何かだと思った。コスプレで写真でも撮っている子かもしれない、と。会場から随分離れたこんな場所で、という違和感はあったが、有名なコスプレイヤーならそういうこともあるのかもしれない。
けれど、数歩近づくごとに、その考えは音もなく崩れていった。
冗談では済まない。そんな感覚が、じわじわと全身を覆っていく。
彼女の肌は、ただ白いんじゃない。月の光を内側から吸い込んだみたいに、温度を感じさせない白さだった。身にまとっているものにも縫い目が見当たらない。まるで一本の蔓が、蜘蛛の巣みたいにその身をやわらかく包み込んでいるように見える。
俺が近づいた気配に気づいたのか、少女はゆっくりと目を開けた。
それはまるで、古い書物の頁が一枚だけ静かにめくられるみたいな動きだった。
開いた瞼の下に現れたのは、森の奥底で育った琥珀みたいな瞳だった。そこに映る俺の姿は、まるで水面に落ちた月みたいに、わずかに揺らめいている。
少女の唇はほとんど動かなかった。けれど、その声は風が葉を撫でるみたいに、まっすぐ俺の耳へ届いた。
緑の少女「……人は、何を夢見るのか。妾は、人の夢を見ていたい。じゃが、人の心はあまりにも遠い」
言葉の意味は分かる。なのに、意味そのものはうまく掴めなかった。ただ、その声に含まれた響きだけが、妙にまっすぐ胸へ染み込んでくる。あの瞳の奥には、強い憧れと、それと同じくらい深い孤独が同時に沈んでいるように見えた。
少女は俺をまっすぐ見つめていた。その視線には、初めて見るものを確かめるような好奇心と、簡単には気を許さない警戒心が同時に宿っている。俺が息を呑んだ瞬間、少女の背後で脈打っていた苔の輪が、心臓みたいに一段大きく波打った。
それは、初対面の相手に向ける目じゃなかった。
むしろずっと探していて、ようやく見つけたものを見る目だった。安堵に似た色さえ、そこにはあった。少女の琥珀を帯びた瞳は、俺という存在をその奥へ焼き付けようとするみたいに、見開かれたままかすかに揺れている。
静かなのに、燃えるような視線だった。
俺はその場に立ち尽くしていた。森に根を下ろした巨木みたいに、一歩も動けない。少女の視線は、物理的な重さを持って胸のあたりにのしかかってくる。
責められているわけでもない。問い詰められているわけでもない。なのに、見透かされているような気がした。自分の記憶の中に沈んでいた無数の断片が、その視線ひとつで呼び起こされていくような感覚がある。
少女はゆっくりと腕を持ち上げた。その動きは、枯れ葉が風に舞うときみたいに、現実感がないほど滑らかだった。指先はまだ光る苔の輪の向こう側にあるのに、まるで俺の胸の奥へ直接触れようとするみたいに、静かにこちらへ伸びてくる。
その指先から立ち上る光は、朝露が消える寸前の陽炎みたいに、俺の目の前でかすかに揺れていた。
次の瞬間、胸の奥に異変が走った。
激痛じゃない。むしろその逆だ。忘れていた古い扉が、音もなく開くみたいな感覚。懐かしいはずがないのに、どこか懐かしい。説明のつかない違和感だけが、静かに残る。
少女の背後で脈打っていた苔の輪の光が、今度は俺の鼓動と同じリズムで明滅し始めた。
緑の少女「妾の世界で、ちと問題が起きておる。妾の力だけでは、どうにもできぬのじゃ。……お主の力を貸してはくれんか」
愛斗「なんで俺が。第一、俺に何かできることなんてあるのか?」
緑の少女「お主にしかできぬのじゃ」
愛斗「流石に、そんなことはないだろ」
緑の少女「この問題が解決せぬと、この世界は六十年後に滅びてしまうんじゃがの」
愛斗「……は?」




