第5話:出口のない夜
通路の闇は、狭く、そして腐った水の匂いがした。
ミラの足取りは遅い。
遅いが、決して止まらない。
止まった瞬間に、背中の恐怖に追いつかれると本能が知っている足取りだ。
俺は彼女の腕の中で、微かなリズムで揺れていた。
その揺れは小さい。
少しでも俺への衝撃を殺すために、ミラが自身の骨身を削って歩幅を調整しているからだ。
(……書くな)
俺は内側で、呪文のようにそればかりを反芻していた。
さっき、書いた。
灯りを消し、刃を届かせた。
その結果、俺たちは助かった。
だがその直後――俺の中から“校正”という概念が消滅した。
言葉の意味だけが残り、その手触りや、赤ペンを握る指先の感覚がごっそりと抜け落ちた。
思い出そうとした瞬間、記憶の索引ごと剥がれ落ちるような虚無感。
(次は、何が消える)
問いを立てること自体が、もう恐ろしい。
答えが出る前に、答えを探すための思考力さえ削られるかもしれない。
そういう種類の、不可逆な喪失。
ミラの呼吸が、浅い。
酸素が足りていないのに、決して音を出さない。
足首の激痛を、声にしない。
時折、彼女の指が無意識に俺の表紙の端へ伸びそうになる。
伸びて、空中で止まる。
止まって、白くなるほど固い拳になる。
触れないための拳。
もう二度と、俺に書かせないための拳。
通路の先で、青い灯りが途切れた。
セラの隠れ家の灯りではない。
地下水脈に染みついた、微弱な鉱石の残光。それすらも届かない領域へ。
ミラはそこで、初めて速度を緩めた。
疲労からではない。
“匂い”を確かめるためだ。
追ってくる匂い。
あるいは、俺たち自身から発せられる“追われる匂い”。
あの影は、追いかけてはこなかった。
『匂いで追える』と言った。
『代償で追える』と言った。
その言葉が、濡れた布のように背中に貼り付いて離れない。
(匂いは、覚えられた)
禁書として。
希少な玩具として。
あるいは、高額な値札のついた商品として。
ミラの歩みが、無意識に壁際へ寄る。
寄りすぎて、肩が石壁に擦れる。
その衣擦れの音さえ殺そうとして、彼女の呼吸が止まる。
俺は、彼女の腕の温度だけを感じていた。
怖いのに、決して俺を放そうとしない温度。
しばらく進んで、通路が二つに分岐した。
右は乾いた風が吹いている。
左は、腐敗した水音が近い。
ミラは迷わず、左を選んだ。
水の腐臭は、生活の匂い(痕跡)に紛れることができる。
強い悪臭は、追手の鼻をあざむく盾になる。
そういう“灰棚の理屈”で生き延びてきた者の選択だ。
やがて、古い排水路に出た。
圧迫感のある低い天井。
足元を流れる黒く細い水。
石壁にへばりつく湿った苔。
月明かりは届かない。
代わりに、遥か遠くの地上から、街の雑音が降ってくる。
人々が当たり前に生きている、平和という名の騒音。
ミラはそこで、糸が切れたように膝をついた。
石の床に膝をつき、肺の底から息を吐き出す。
吐く息が小刻みに震えている。
震えても、嗚咽は漏らさない。
俺をそっと床に置こうとして――途中で止めた。
置けば、汚水で俺が濡れる。
濡れれば、また予期せぬ“何か”が起こりそうで怖いのだ。
結局、彼女は自分の太腿の上に俺を乗せた。
触れている。
でも、余白には指一本触れない。
そういう、祈るような距離。
ミラは包帯の上から、腫れ上がった足首を押さえた。
痛みを押し殺す指先が、蝋のように白い。
「……痛い?」
俺が言ったわけではない。
ミラが、自分自身に問いかけた声だ。
答えは分かっているのに、確認しなければ心が壊れてしまいそうな声。
ミラは小さく顔を歪めた。
笑ったのではない。
痛みに息を吐いた形が、暗がりで笑みに見えただけだ。
「……だいじょうぶ」
また、嘘だ。
だが、嘘で自分を騙さなければ、一歩も動けない夜がある。
彼女は俺を見た。
見て、すぐに視線を逸らした。
直視することに耐えられないように。
「……さっきの」
言いかけて、飲み込む。
“さっきの”の先にある言葉は、あまりに重い。
恩。依存。責任。罪。
どれも、言葉にした瞬間にミラの心に“負債”としてのしかかる。
ミラは唇を噛み、闇に溶けるような声で言った。
「……もう, 書かないで」
俺に向けた命令ではない。
お願いでもない。
祈りだ。
書けば助かる。
書けば削れる。
削れ続ければ、俺はいつか“俺”でなくなる。
ミラはその全貌を理解していない。
していないのに、直感だけが残酷なほど正しい方向を向いている。
俺は答えられない。
声帯を持たない俺は、ただの物だ。
だが、沈黙の中で、俺は誓う。
(次は、書かない)
“次”など来ないことを祈って。
もし来たとしても、書かずに済む道を探して。
ミラは懐から小さな布包みを取り出した。
中身は硬い。
かじりかけの、石のように乾いたパン。
それを震える手で半分に割る。
半分を、自分の口へ。
残りの半分を――妹のために取っておくような手つきで、布に戻す。
ここに妹はいない。
それでも手がそう動く。
そうしなければ、彼女が生き延びて帰る理由が崩壊するからだ。
ミラは噛む。
咀嚼音さえ立てないように、慎重に。
その静寂の中で、俺の内側がふと滑った。
失われたはずの記憶の残滓が、ひと欠片だけ浮かび上がる。
白い紙。
整然と並んだ活字の行。
そこに走る、赤いインクの修正線。
誰かの手が、紙を押さえている。
その手の体温だけが、異様なリアリティを持って蘇る。
(……誰の手だ?)
問う前に、映像は白く焼け焦げて溶けた。
溶けた跡には何も残らない。
ただ、鼻孔の奥にインクの匂いだけがこびりつく。
俺は、喉のない場所で窒息しそうな息をした。
(思い出すな)
(思い出そうとすれば、また何かが引き抜かれる)
代償は、補足の直後に支払われる。
理屈ではそうだ。
だが、恐怖は理屈を無視して先回りしてくる。
『次は何を差し出す?』と、俺の存在の根底を揺さぶる。
ミラが立ち上がろうとして、大きく身体を揺らした。
足が限界だ。
それでも、彼女は立つ。
立てる重心を探し、壁に手をつく。
彼女は俺を抱え直す。
抱え方が、少しだけ変わっている。
心臓に近い位置。
布で隠す位置。
誰にも奪われない位置。
「……行くよ」
誰に言ったのか分からない。
俺か。自分か。それとも待っている妹か。
ミラは歩き出す。
水音の中へ、足音を殺して。
腐臭の中へ、匂いを溶かして。
書かなくていい夜が、少しでも長く続くように。
俺の内側の注釈欄は、白く沈黙している。
閉じているのに、そこには底なしの“飢え”がある。
危機が訪れれば、また勝手に口を開く。
俺がどれほど拒んでも、世界がそれを許さない。
それが分かっているから、俺は祈るしかない。
次の危機まで、遠くあれ。
次の補足まで、遠くあれ。
ミラの背中が、排水路の闇に溶けていく。
俺を抱える指先の力だけが、痛いほどに強い。
そしてその痛さが、俺にひとつの事実を突きつけていた。
――彼女には、戻るべき場所がある。
あるから、戻る。
戻るために、戦わない道を選べる。
それでも、匂いは覚えられている。
値段は付けられている。
余白は、俺の記憶を喰らおうと待ち構えている。
今の静寂は、あまりに薄い。
ページ一枚分の厚さしかない平和だ。
ミラは振り返らない。
ただ、俺を抱えて、出口のない夜を歩き続けた。
この話を読んでいただき、ありがとうございました。
感想や誤字報告などいただけると、とても励みになります。続きをよろしくお願いします。




