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『余白の書は運命を補足する』  作者: さざなみ
第1章 禁書の拾得
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閑話:灰棚の呼吸

灰棚はいだなの朝は、音が死んでいる。


鳥の声も届かない。


風が吹いても、腐った棚の迷宮ラビリンスの奥までは入ってこない。


代わりに、紙が乾いて死んでいく音だけがする。


パり。

パり。


古いページが、どこかで風化して折れていく。


それは崩壊の音であり、同時にこの街で“生き残っている”証の音でもあった。


ミラは本棚の隙間に身体を押し込み、膝を抱えて座っていた。


背中に本の背表紙が当たる。


硬い。冷たい。


人の体温のような温かさも、気まぐれな優しさもない、無機質な硬度。


ミラはその硬さが、好きだった。


好き、というより――呼吸ができる。


本は裏切らない。


本は奪わない。


本は怒鳴り声を上げて殴ってきたりしない。


本は、ただ黙って、そこにある。


世界から忘れ去られた墓標のように。


「……おねえ」


小さな声が、棚の奥の闇からした。


ミラは反射的に身体を強張らせ、次に音もなく呼吸を整えた。


驚いた音を立てて、妹を不安にさせないために。


妹が、薄汚れた布の塊のように丸まって、目だけを開いている。


眠っているのか、起きているのか、本人にも判別がついていないような虚ろな顔だ。


「起きてたの」


妹は頷く。


頷いて、カサカサに乾いた唇を動かした。


「きょう、ある?」


“ある?”


食べ物があるか。


水があるか。


今日という一日を生き延びる許可が、あるか。


この街で「ある」という問いは、すべて生存に直結する。


ミラは空っぽの布袋を持ち上げた。


軽い。


羽毛のように軽いことが、残酷な答えだった。


「……あとで」


嘘ではない。


盗めば“あとで”は作れる。


作れなければ、今日が終わるだけだ。


妹はそれ以上何も言わなかった。


言えば、おねえが壊れてしまうと知っている。


子供が一生覚えなくていいことを、骨の髄まで覚えてしまった頷き。


ミラは棚の隙間から、外の通りを覗き見た。


貧民街の朝は、まだドブ川のように薄暗い。


夜の帳が消えきらないうちに、動き出す影たちがいる。


遅い者は、速い者に全てを奪われるからだ。


ミラは、動く。


動くのが仕事だ。


動くのが、この街での唯一の作法だ。


でも今日は、すぐには出なかった。


足を伸ばし、指を開き、心臓の音に合わせて呼吸を数える。


一つ。

二つ。

三つ。


数え終わったところで、視線が棚の奥に落ちている“紙屑”に吸い寄せられる。


破れたページの束。


誰かが捨てたメモ書き。


焼け焦げた表紙の欠片。


売れるものではない。


食べられないゴミ。


なのにミラは、それを拾ってしまうごうを抱えている。


拾うと、危ない。


拾うと、意味が勝手に入ってくる。


意味が入ってきたことがバレれば、誰かに見つかる。


「使える道具」として、檻に入れられる。


だから、本当は見ない。


見ないふりをする。


視界の端に映っても、それはただのシミだと自分を騙す。


それでも、目が勝手に“線”を追ってしまう。


すすの跡。


インクの滲み。


誰かの手癖。


――文字。


ミラは、読めてしまう。


教わったわけではない。


ただ、文字を見た瞬間に、その意味が脳髄に直接流し込まれてくる。


まるで、最初から知っていた記憶を思い出させられるように。


声にはしない。


誰にも言わない。


妹にさえ言わない。


貧民街では「読める」という能力は、高額な値札だ。


値札のついた人間は、人間ではなく商品になる。


ミラは知っている。


知っているから、必死で隠している。


隠しながら、誰もいない時だけ、紙を“確かめる”。


確かめるのは、知的好奇心からではない。


怖いからだ。


いつか自分の頭蓋の中に、もっと大きな文字が降ってくる予感がする。


読んでいないのに、世界のことわりそのものが落ちてくる。


そういう夜がある。


ミラはその夜を、“悪夢”と定義している。


悪夢は眠っているときだけではない。


目を開けていても来る。


呼吸を整えていても、ふとした瞬間に視界を侵食する。


突然、世界の裏側が透けるように。


巨大な白い帳簿。


地平線の彼方まで続く紙面。


黒い鎧の影。


燃え落ちる図書館。


そして、いつも同じ声。


『――本文を汚すな』


声は怒鳴らない。


命令でもない。


ただの“物理法則”のように、重力として落ちてくる。


ミラはその声の主を知らない。


知らないのに、魂が萎縮するような冷たさだけが残る。


今日も、棚の奥で紙屑を見ていたら、喉の奥がヒュッと細くなった。


悪夢が来る前の、あの嫌な予兆。


(……やめろ)


ミラは目を逸らし、布袋を肩にかけた。


出る。


出て、食べ物を作る。


妹の“今日”を捏造する。


そのために、自分の“今日”は削っていい。


命以外なら、なんだって差し出す。


棚の隙間から外へ滑り出る直前、妹がまた言った。


「おねえ」


ミラは振り返る。


振り返って、声を出さずに唇だけで答えた。


「なに」


妹は汚れた布の端を握りしめている。


その握り方が、ミラと全く同じだった。


大切なものに触れて汚さないための拳。


失うことを恐れて、指を食い込ませる拳。


「……こわい?」


ミラは一瞬、言葉に詰まった。


怖いのは、外だ。


外を徘徊する男たちだ。


耳障りな売り声だ。


いつか来るかもしれない追っ手だ。


でも、それだけじゃない。


自分の中にある“白い帳簿”も怖い。


知らない声に支配されるのが怖い。


“本文”という言葉の意味が、分かりかけてしまうのが怖い。


怖いものが多すぎて、輪郭がつかめない。


ミラは結局、こう言った。


「……だいじょうぶ」


嘘だ。


でも、妹が唯一眠れる種類の嘘だ。


妹は頷いた。


頷いて、安心したように目を閉じた。


ミラは棚の外へ出た。


音を立てない。


影を選ぶ。


歩幅を崩さない。


いつも通り。


いつも通りの、灰棚のネズミの朝。


――けれど。


路地を抜けるとき、ふと壁の落書きが目に入った。


子供が石で削っただけの、無意味な線。


読めないふりをして、ミラは通り過ぎようとする。


その瞬間、意味が“入ってきた”。


読んでいない。


でも、頭の中に強制的に落ちてくる。


乾いた砂に水が染み込むように、拒絶を許さずに。


『――余白』


一語だけ。


その一語だけが、喉に刺さった小骨のように残る。


ミラの歩みが一瞬だけ乱れた。


乱れたのを、すぐ取り繕う。


誰にも見られていないのに、心臓が早鐘を打つ。


(……今の、なに)


問いを立てた瞬間、悪夢の白が脳裏でざわめいた。


『本文を汚すな』


声が来そうになる。


視界が白く明滅する。


ミラは呼吸を数える。


一つ。

二つ。

三つ。


声は潮が引くように消えた。


けれど、壁の落書きから読み取った一語だけは消えない。


『余白』


それが、ミラの中で“運命の名前”みたいに居座った。


知らない言葉のはずなのに、どこか懐かしい。


懐かしいのに、激しい嘔吐感を催す。


ミラは歩き出す。


歩きながら、無意識に指を固く握りしめた。


触れないための拳。


書かないための拳。


彼女の中にはもう、


“余白”という呪いにも似た単語だけが、先に落ちていた。


それがいつか、運命の本文の外側で、彼女の手を引くことになる。


妹を守るために。


自分という存在を罰するために。


まだその理由は、彼女自身にも言語化できない。


ただ、灰棚の奥で眠る妹の静かな呼吸だけが、


ミラをこの過酷な“現実いま”に縫い止めていた。

この話を読んでいただき、ありがとうございました。

感想や誤字報告などいただけると、とても励みになります。続きをよろしくお願いします。

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