第4話:三息の闇
青い灯りが、一瞬だけ呼吸をするように弱くなった。
風が吹いたのではない。
影が“撫でられる”ように薄く伸びて、また元の形に戻る。
それだけで、地下の空気が質量を変えたように重くなった。
セラが低く吐き捨てる。
「……監閲じゃない」
ミラが息を止めたのが、表紙越しに伝わった。
彼女は俺を抱えたまま、指先が白くなるほど強く拳を握りしめている。
その震えが、今にも誤って余白に触れてしまいそうで、俺は内側で声を押し殺す。
奥の通路から、足音が響いた。
重さがない。あまりに軽すぎる。
まるで“ここが最初から自分の居場所だ”とでも言いたげな、傲慢な足音。
さきほど奥から現れた、あの痩せた男――レグスが暗がりに佇んでいた。
彼は揺れる青い灯りを見つめ、場違いなほど穏やかに口を開く。
「……来たね」
セラの目が鋭く細くなる。
「……レグス。あんた、分かってたんだな」
セラが呼んだ名に、ミラがわずかに反応した。
この隠れ家でセラと共にいた男。だが、ミラにとっても、そして俺にとっても、この男の底は見えない。
レグスと呼ばれた男は、小さく肩をすくめた。
「匂いが濃いって言っただろ。禁書を抱えたまま、一箇所に長居しすぎたんだ」
一歩引いた言い方。だが“原因”を明確に指摘している時点で、彼はこの場の絶望を冷徹に俯瞰していた。
足音が、止まった。
そして――壁の向こうで、何かが“嗅いだ”。
音ではない。空気が一気に吸い込まれていく感覚。灯りが一瞬、酸欠のように沈む。
「いる」
子供の声だった。
高いのに、氷のように冷たい。
笑いを含んでいるのに、そこには一滴の喜びも混じっていない。
「余白の匂い。……ああ、やっぱり」
セラが短く、忌々しげに言い放つ。
「帰れ。ここはお前の巣じゃない」
「巣?」
声は楽しげに反復された。
「セラ、言葉が汚いよ。……でも、好き。汚いところって、匂いが濃いから」
ミラの肩が激しく震えた。
それは未知への恐怖ではない。かつて出会い、魂に刻まれた“知っている恐怖”の反応だ。
(……ミラは、こいつを知っているのか)
俺の内側の注釈欄が、薄く熱を持ち始める。
閉じているはずなのに、縁だけが脈打つように浮き上がってくる。
強大な危険が接近した際の、禁書としての生存本能。
(開くな。まだ、書くべき時じゃない)
祈った。祈りが規則に対して無力だと知りながら、それでも。
レグスが、静かに口を挟む。
「“同業者”って呼び方はやめようよ、セラ。彼はプライドが高い。怒るよ」
「怒ったらどうなる」
セラの声は硬い。怒らせたらどうなるか、その結末を熟知している硬さだ。
壁の向こうの声が、わずかに低くなった。
「……誰が、同業者だって?」
その問いが、剃刀の刃のように薄く、鋭い。
次の瞬間、石壁が“内側から”押し広げられた。
ギ、ギギッ、と、鼓膜を逆撫でする嫌な音。
ミラが開けた仕掛けとは別の場所。土壁の継ぎ目が、熟した果実が裂けるように、ゆっくりと開いていく。
そこから、痩せた影が滑り込んできた。
人間の形はしている。
けれど、まつ毛が長すぎる。指が細すぎる。目が、あまりに黒すぎる。
灯りを一切映さない瞳――洞窟の底に溜まった、死んだ水のような目。
男とも女とも、子供とも大人ともつかない。
ただ、“子供の声”だけがその容姿に、奇妙に適合していた。
その影が、まっすぐにミラを射抜く。
そして、笑った。
「いた」
その瞬間、ミラの呼吸が完全に停止した。
逃げようとした足が、包帯と恐怖に縛られて動かない。
セラが咄嗟に前に出る。
「近づくな」
影は素直に足を止めた。
止まって、小鳥のように首を傾げる。
「セラ。そこ、痛いよ」
言葉の意味が分からない。だが、その“痛い”は脅しではない。
これから起こる確定した事実を告げる声だ。
セラの手が、腰の刃に触れた。握らない。抜かない。ただ、触れるだけ。
抜けば終わる。抜かなくても終わる。どちらの終焉を選ぶべきか、指先が迷っている。
レグスが、遠慮がちな声で尋ねた。
「君の目的は?」
影がレグスに視線を移す。
一拍、無表情になり。次に、裂けるような笑みを浮かべた。
「値段」
単語が落ちた瞬間、地下の空気が氷点下まで冷えた。
影は、ミラの腕の中にある――俺を見つめる。
「……余白の書」
呼び方が、妙に優しい。
「壊しても構わない」と思っている者特有の、残酷な優しさ。
ミラが震える声で絞り出した。
「……触らないで」
影は首を傾げたまま、柔らかく答える。
「触らないよ。触れたら僕が筆者。代償の支払い。……めんどくさいもん」
そのあまりに軽い一言が、胃の奥を冷たく掴む。
セラが吐き捨てる。
「分かってるなら帰れ」
影は、少しだけ目を細めた。
「帰らない。だって――」
視線がミラに戻る。
「もう、書いたでしょ?」
ミラの肩が跳ねた。
否定はできない。この影は、空間に残る補足の残り香を正確に嗅ぎ当てている。
影は嬉しそうに、歌うように続けた。
「二回。……いい匂い。代償の剥離が、もう始まってる」
レグスが、わずかに声を落とす。
「やめなよ。彼女を脅すつもりなら」
影は、きょとんとした。
「脅してない。見てるだけ。好きだから」
ミラの指が、俺の表紙の端を掴みそうになり――寸前で止まる。
(……筆者は、俺だ)
あの路地裏で決めた覚悟。書けば助かる。だが書けば、俺が削れる。
影が、ゆっくりと一歩を踏み出した。
セラが、即座に刃を抜く。
青い灯りに、刃の白線が閃く。
影はそれを見て、悦びに目を細めた。
「それ、早いね。……でも、届かないよ」
言い終わるより先に、影の姿が“ずれた”。
空間そのものがスライドしたのだ。ページの上の文字が、別の行へ書き換えられるように。
刃が虚空を切る。セラは踏み込めない。
ミラが鋭く息を吸い込む。
「……っ!」
悲鳴を噛み殺した。その小さな音に、影の瞳が爛々と反応する。
影が、ミラに向けて指を一本立てた。
触れてはいない。なのに、吐き気がする。
「書いてよ。逃げ道。壁の隙間。罠。……なんでもいいから」
甘えるような口調。だが、それは拒絶を許さない命令だ。
セラが叫ぶ。
「ミラ! 触るな!」
影が、唇を薄く開いた。
「じゃあ、代わりに――」
その言葉が完結する前に、俺の内側で注釈欄が跳ね上がった。
【注釈欄:未記入】
危機が閾値を超え、世界が俺を強制起動する。
(俺は、道具じゃない。筆者は俺だ)
俺は注釈欄に、短い一文を叩き込んだ。
【注釈】※この部屋の灯りは、三息の間だけ消滅する。
成立。
青い灯りが、ふっと、この世から消えた。
目が慣れる暇さえ与えない、三息だけの空白。
一息。
二息。
三息。
灯りが、戻った。
影は、通路の入口付近に立っていた。
最初からそこにいたかのような佇まい。
――だが。その白い肩口に、一本の赤い線が走っていた。
セラの刃が、届いていたのだ。
影はゆっくりと、自分の傷口をなぞった。
「……痛い」
セラが大きく肩で息を吐く。
「届く。お前にも、死は届くんだよ」
影が、笑った。
「届くんだ。へえ。……余白って、本当に面白いね」
レグスが、静かに告げる。
「今の補足で、また代償が進むよ」
影がレグスを射抜く。
わずかな苛立ち。
「うるさいな。知ってるよ」
知っていて、なお代償を払わせ、俺が消えていく様を欲しがっているのだ。
ミラが、俺を強く抱え直した。頬から熱い汗が滴る。
彼女は、声にならない声で呟いた。
「……ごめん」
俺の内側で、“抜け”の感覚が襲ってくる。
(……来る)
そのとき、影が言った。
「ねえ、次は……何が消えるの?」
ミラの顔が、真っ白になる。
セラが吠えた。
「黙れ!」
影は、楽しそうに首を傾ける。
「知りたいんだ。だって、禁書って――“代償の形”が、個体ごとに違うから」
レグスが、低く笑った。
「タイプがある、って言っただろう?」
影がレグスを睨む。
「あなた、嫌い」
レグスは涼しい顔のまま、一点だけを指摘した。
「なら出ていきなよ。ここは君の場所じゃない」
その隙に、セラがミラの背中を強く押した。
「行け!」
ミラが立ち上がろうとし、足の痛みに崩れかける。
セラがそれを支え、最後にもう一度、俺を見た。
「……『余白の書』。お前がいる限り、ここももう終わりだ。連れて行け」
レグスが続ける。
「外へ。今ならまだ、死に方くらいは“選べる”かもしれないよ」
選べる。この運命に縛られた世界で、それがどれほど贅沢な言葉か。
影が、去り際のミラに向けて笑いかけた。
「逃げても無駄だよ。匂いはもう、覚えたから」
ミラの瞳が、絶望に揺れる。
(書くな)俺は自分に言い聞かせる。
その瞬間――俺の内側から、何かが決定的に欠落した。
“校正”という概念が、意味だけを残して消え去った。
自分が何をしていたのか、どんな技術を持っていたのか。
記憶の索引から、その項目が物理的に削除される。
(……また、削れた)
ミラは足を引きずりながら、通路へ向かって一歩を踏み出した。
セラが背を押し、レグスが暗闇の先を指し示す。
影は、入口で笑っている。
追いかけてはこない。匂いで追える。代償で追える。
通路へ消えていくミラの背中に、影の優しげな声が刺さった。
「ねえ、余白の書。あなたが最後に残すのは、結論? それとも――ただの、空白?」
答えられない。
答えが出る前に、俺はきっと、何もかもを失う。
ミラは振り返らない。
ただ、俺を抱える指先の力だけが、痛いほどに強くなった。
俺の中の『白』が、静かに、飢えたように息をしていた。
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