第3話:値踏みの灯り
排水路は、音が少ない代わりに匂いが濃かった。
澱んだ水の腐敗臭。苔むした石の冷気。古い鉄格子の錆びた匂い。
ミラは片足を引きずりながらも、歩幅を崩さない。
崩した瞬間に心が折れる――そう知っている者の歩き方だ。
俺は腕の中で揺れながら、内側の『白』を意識しないようにしていた。
注釈欄は閉じている。
閉じているのに、そこに“ある”という確かな質量を感じる。
(開けば助かる。開けば削れる)
そのあまりに単純な事実が、インクの染みのようにしつこく思考に残る。
ミラは何度か振り返り、闇に耳を澄ませた。
追っ手の声は遠い。けれど、遠いことが安心の材料にはならない。
遠いまま、じわじわと包囲網が狭まる時間が、一番神経を削る。
やがて排水路の天井が高くなり、湿った土の匂いが混じってきた。
月明かりが途切れ、代わりに小さな灯りが見える。
火ではない。油のランプでもない。
石の割れ目から漏れ出す、薄い青色の燐光。
ミラの歩みが一瞬だけ緩んだ。
(隠れ家か)
彼女は口にしない。だが、張り詰めた空気がわずかに弛緩したのが分かった。
壁の一部、苔むした石組みが不自然に整っている場所がある。
ミラはそこへ近づき、指の腹で石の凹凸をなぞった。
押すのではなく、特定の順番で撫でる。慣れた手つきだ。
ギ、と低い音が鳴る。
石の壁が横にスライドし、人一人が通れるほどの隙間が開く。
中から暖かい空気が漏れ出した。
人の匂い。煙草の煙と、煮炊きの匂いが混ざった生活臭。
ミラはその隙間に身体を滑り込ませる。俺も一緒に押し込まれる。
表紙が石に擦れて、嫌な音がした。
中は薄暗い通路だった。
剥き出しの土壁。天井に吊られた青い鉱石の灯りが、心許なく揺れている。
光源が何かは分からないが、魔法というにはあまりに生活感に満ちている。
ミラは、そこでようやく肺の中の空気をすべて吐き出した。
吐いた息は、小刻みに震えていた。
それでも、彼女はすぐに視線を巡らせる。
安堵する前に、次の危険を探す。路地裏で生きる者の目だ。
「……ミラか」
奥から、声がした。
女の声だ。年齢不詳。
低く、乾いている。疲労が滲んでいるが、芯は折れていない。
ミラの肩が跳ねた。名を呼ばれたことで、自分がここまで生きて戻ってきたのだと実感したように。
「……セラ」
ミラが小さく答える。
初めて彼女の声に、ほんの少しだけ“家”に帰った子供の色が混ざった。
奥の部屋から人影が現れた。
長い髪を無造作に束ね、ツギハギだらけのローブを羽織っている。
手は汚れていた。土か、薬草か、それとも血か。すべてが混ざった色をしている。
女――セラはミラを一瞥し、次に俺を見た。
正確には、ミラが抱えている“本”を。
視線が、物理的な重みを持って刺さる。
「あんた……それ」
ミラが身を固くした。腕に回す力が強くなる。俺の表紙が軋みを上げる。
セラは近づいてこない。警戒するように一定の距離を保ったまま、鼻で笑うように息を吐いた。
「……持ってきたのか。本当に」
ミラは答えない。答えられない。
セラの目が、ミラの足元へ落ちた。
「足」
ミラは首を振ろうとして、止めた。
嘘をつくのが下手なのか、あるいは嘘をつく気力さえ残っていないのか。
セラは舌打ちをした。
「座りな。倒れる前に」
乱暴な口調だが、そこには明確な庇護の意思があった。
ミラは壁際にへたり込み、腫れ上がった足首を押さえる。脂汗が滲む。顔色は死人のようだ。
セラは腰のポーチから布袋を取り出し、強い薬草の匂いを撒き散らしながらミラの足首に触れた。
手つきは雑に見えて、驚くほど的確だ。
ミラが痛みに息を呑む。
「……っつ」
「当たり前だ。黙ってろ」
セラは手際よく添え木を当てて固定しながら、ちらりと俺を見る。
さっきから、その目は一度も警戒を解いていない。
「それ、どこで拾った」
ミラは唇を噛んだ。
「……廃墟の、図書館」
「監閲の連中が嗅ぎつけたか?」
ミラの沈黙が、肯定の答えになった。
セラは手を止めないまま、低く吐き捨てる。
「馬鹿。……いや、馬鹿でいい。生きて帰っただけで上等だ」
その言い方が、逆にこの世界の過酷さを物語る。
“生きて帰れば上等”が日常の基準なのだ。
セラは包帯の端を歯で噛み切って結び、ようやくミラの足から手を離した。
「しばらく走れない。歩け。足を引きずるな。引きずると一生治らんぞ」
ミラは小さく頷いた。
そのまま、セラは俺に向き直った。
「……『禁書』だな」
断定。迷いがない。
追っ手と同じ言葉。だが、意味合いが違う。
追っ手は“所有物”として言った。セラは“災厄”として言った。
ミラの腕がさらに強く俺を抱きしめる。
「……違う。まだ、確かじゃ——」
「確かだ」
セラは鋭く遮った。
「余白が開く。補足が成立する。代償が出る。
そういう理屈の通じない“書”を、この街じゃ禁書と呼ぶんだよ」
説明は少ないが、重い。
余計な修飾がない分、逃れられない事実として突き刺さる。
ミラが喉を鳴らした。
「……私、触ってない」
必死な声だった。
まるで罪を犯していないと主張するように。
セラはミラの手を見た。指を白くなるほど強く握りしめている。
「分かってる。あんたは“余白”には触れてない」
言葉の選び方が、あまりに正確だった。
(知っているのか)
この世界の誰かは、俺たちのルール――『筆者』の条件を知っている。
セラは俺から目を逸らさずに続けた。
「でもね。触らなくても、持ってるだけで詰むんだよ」
ミラの目が揺れた。
「……ここなら——」
「ここでもだ」
セラが被せるように言う。
「隠れ家なんてのは、隠れてる側が勝手にそう呼んでるだけだ。
嗅ぐ奴は嗅ぐ。買う奴は買う。売る奴は売る」
買う。売る。
その二語が、妙に冷たく、生々しく響く。
ミラは激しく首を振った。
「売らない!」
即答。
その拒絶の強さが、彼女の過去を少しだけ透かして見せた。
かつて売られそうになった者の、あるいは売られた者の拒絶だ。
セラは肩をすくめた。
「あんたが売るかどうかの話じゃない。そいつに、値段が付いてるって話だ」
値段。
禁書に、値段。
俺は“物”として追われている。その意味が、今ようやく具体的になった。
俺には、人間を狂わせるほどの高値がついているのだ。
セラは青い灯りの下で、懐から小さな金属板を取り出した。
複雑な刻印がある。紋章のようなものだ。
追っ手の鎧に刻まれていたものと、同じ系統の権威の匂いがする。
ミラの目が鋭くなる。
「……それ、何」
「捨て損ねた、過去の身分の欠片さ」
セラは自嘲気味に笑った。
「昔、監閲に片足突っ込んでた。今はただの落伍者だ。
――だから分かる。禁書は“回収”される。回収されなかった禁書は、“処理”される」
処理。
燃やされる。封じられる。持ち主ごと、歴史から消される。
ミラの喉が引きつる。
「……じゃあ、どうすればいい」
セラは少しだけ黙った。
答えを選んでいる沈黙ではない。答えが残酷すぎて、口にしたくない沈黙だ。
「……出るしかない」
ミラが眉を寄せる。
「どこに」
セラは俺を指差して、言った。
「禁書を“読む”奴らがいる場所だ。
読むだけじゃない。余白の扱い方を知ってる連中のところへ行け」
ミラは首を振った。
「そんなの、信用できない」
「信用しなくていい。利用しろ」
セラは即答した。
「この街で禁書を抱えて生きるのは無理だ。あんた一人なら逃げられる。
でも、それを抱えてるなら——」
セラの視線が、俺の表紙を貫く。
「逃げ道の方から、向こう側へ塞がれていくぞ」
冷徹な宣告。
ミラは唇を噛み、視線を落とした。
“逃げ慣れている”はずの瞳が、初めて迷いを見せている。
俺の内側で、注釈欄が静かに存在を主張している。
開いていないのに、古傷の鈍痛のようにそこに居座っている。
ミラが、蚊の鳴くような声で言った。
「……入ってくるの」
セラが片眉を上げる。
「何が」
ミラは適切な言葉を探すように彷徨う。
「文字が……勝手に。頭の中に」
セラの表情が、わずかに変わった。
驚きではない。仮説を検証する学者のような顔だ。
「それ、いつからだ」
「……最初から」
セラは一瞬だけ目を細め、俺を凝視した。
「禁書が“読ませてくる”タイプか」
ミラが息を呑む。俺も、内側で硬直する。
(タイプ……?)
禁書は一種類ではないのか。
この世界には、俺のような存在が他にもいるのか。
セラは低く呟いた。
「……厄介だな」
その一言が、妙に現実味を持って場を支配した。
ミラが震える声で返す。
「……厄介って、どういう――」
セラは答える前に、通路の奥へ鋭い視線を投げた。
その視線の先で、青い灯りが一瞬だけ揺れた。
風ではない。
誰かが、空気を動かした。
「――セラ」
男の声がした。奥からだ。
声の響きだけで分かる。ここにいるのは、俺たちだけではない。
「……客か」
セラは舌打ちをした。心底嫌そうに。
ミラの身体が強張る。俺を抱える腕が痛いほど締まる。
奥の闇からぬらりと出てきた男は、病的なまでに痩せていた。
目が異様に落ち着いている。落ち着きすぎていて、不気味だ。
服は貧相なのに、指先だけが白く、手入れされたように綺麗だった。
「噂は早いね」
男が薄く笑う。
「禁書を抱えたガキが戻ったって」
ミラが立ち上がろうとするが、激痛によろめく。
セラが肩を掴んで止めた。
「落ち着け」
セラはミラにだけ聞こえる声で囁いた。
落ち着け、は“動くな”の命令だ。
男の目が、俺に向く。
ねっとりとした、値踏みの目。
「……見せてごらん」
セラが一歩前に出て、ミラの視線を遮る。
「見るだけで済むと思うなよ」
男は肩をすくめた。
「もちろん。読むだけだ。余白には触れない。
――触れた瞬間、僕が『筆者』になってしまうんだろう?」
ミラの顔から血の気が引いた。
(こいつも、知ってる)
知られている。
ルールごと。こちらの恐怖ごと。
男は猫なで声で言った。
「ねえ、ミラ。そいつ、代償はもう支払われたかい?」
ミラは答えない。答えられない。
その沈黙こそが、雄弁な肯定だった。
男は満足そうに頷き、最後にこう言った。
「なら、正しく値段が付けられる」
その瞬間、通路の奥で、また灯りが揺れた。
外からではない。中から。
この“隠れ家”の中で、何かが蠢いている。
ミラの指が震える。
触れないように握りしめているのに、その震えが余白に触れてしまいそうで、俺はぞっとした。
注釈欄は閉じたままなのに、内側が熱を帯びてくる。
(開くな)
祈るように念じた。
だが、祈りと規則は関係がない。
青い灯りがもう一度揺れた。
今度ははっきりと、“殺意を持った足音”のリズムで。
セラが低く呟く。
「……監閲じゃない」
ミラが息を止める。
セラは、絶望的な響きで続けた。
「もっとタチの悪い……『同業者』だ」
この話を読んでいただき、ありがとうございました。
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