第2話:代償の輪郭
ミラは走りながら、呼吸さえもその場に捨てていった。
石畳を踏む足音を殺すために重心を低く沈め、角を曲がるたびに壁へ肩を擦りつけて勢いを殺す。
肺が焼けるように熱いはずなのに、声は一切漏らさない。
漏らした瞬間に終わると知っている、逃亡者の走り方だった。
俺は腕の中で揺さぶられながら、背後で弾ける怒号を反芻する。
『ミラを見つけろ! 禁書を持っている!』
――禁書。
俺のことだと認識した瞬間、世界の解像度が変わった。
俺は人間ではない。物だ。渡され、奪われ、あるいは燃やされる。
そういう種類の“価値”として、この世界に再定義されたのだ。
白い場所で脳裏に焼き付いた規則が、遅れて現実に噛み合ってくる。
『余白は本文を補足する』
『補足には代償を要する』
『書は、余白に触れた者で成立する』
最後の一行が、背表紙を芯から冷やした。
“余白に触れた者”。
注釈欄――あの余白が開いたとき、誰かが俺に触れていれば。
(その瞬間、この少女が代償を支払う『筆者』になるのか)
それが、酷く恐ろしかった。
なのに世界は容赦なく、俺たちを追い詰め、その能力を搾り出そうとしてくる。
「見失うな!」「外れだ、外れへ逃げたぞ!」
追っ手の包囲網が狭まる。逃げ道まで計算されている動きだ。
ミラの肩がびくりと跳ねたが、歩幅は緩まない。むしろ焦燥を燃料にして速度を上げる。俺を抱える腕に力が入り、装丁の革が軋んだ音を立てる。
ミラは路地の角で急停止し、壁のくぼみへ身体を滑り込ませた。
俺の表紙に彼女の胸が押し付けられる。心臓の音が速い。早鐘のように俺の背中を叩く。
カシャン、カシャン。
鎧の足音がすぐ側を通り過ぎる。松明の赤黒い光が、濡れた石壁に歪な影を踊らせた。
「……いない」「畜生、どこへ消えた」
足音が遠ざかるまで、ミラは呼吸を止めていた。
ようやく吐き出した息は、寒さではない理由で震えていた。
「……っ」
小さな、痛みに耐える音。
(……どこか、怪我をしているのか)
ミラはすぐに動き出した。停滞は死と同義だ。
路地を抜け、さらに暗い方へ。人の気配が絶望の匂いに変わる吹き溜まりへ。
そして、その段差に足をとられた。
石畳が一段だけ、罠のように沈み込んでいたのだ。
「……っあ!」
声にならない悲鳴。身体が空中で跳ねる。
着地の瞬間、足首が嫌な角度でねじれる感触が、抱えられた俺にまで振動として伝わった。
ミラの呼吸が一瞬止まり、次いで、酸素を求めて浅く荒くなる。
(走れない。この足じゃ――)
背後の声が、獲物を見つけた獣のように近づいてくる。
「そこだ!」「止まれ! 禁書を渡せ!」
『渡せ』。
俺は、所有権を争う物体として呼ばれている。
ミラは歯を食いしばり、折れそうな右足を叱咤して走ろうとする。
だが、速度は無情に落ちる。距離が詰まる。複数の足音が、死へのカウントダウンのように重なっていく。
路地の途中に、崩れかけた廃屋の隙間が見えた。
扉のない入口。中は深淵のように暗い。地下へ降りる石の階段。
迷いは、一瞬だった。
ミラは俺を抱えたまま、その闇へ身を投げた。
湿った空気。腐った梁の匂い。冷たい石材。
階段を下りる音が響かないよう、彼女は足を滑らせるように下りる。
だが足首の激痛が、どうしても小さな音を立ててしまう。
上から、松明の灯りが投げ込まれたように差し込んだ。
「下だ!」「出口を押さえろ! ネズミ一匹逃がすな!」
ミラは階段の下で行き詰まり、その場に膝をついた。
片手で足首を押さえ、もう片手で必死に俺を抱え込む。
瞳が定まらず、恐怖に揺れている。
暗闇の奥へ続く、一本の通路。
崩れた本棚の残骸の向こうへ伸びているが、先は見えない。逃げ道か、行き止まりか。
ミラの指が、無意識に俺の表紙の端へ伸びかけ――。
止まった。
彼女は、火に触れたように指を引っ込めた。
「……触らない」
自分に言い聞かせるような、血の味のする誓い。
「……お願い」
祈るような声。
それでも、彼女は俺を開こうとはしなかった。
上で足音が止まる。
「待て。火は使うなと言われている。貴重な禁書だ」
「煙で燻せば出てくるさ。殺す必要はない」
煙。密閉された地下。酸素の欠乏。
ミラの瞳孔が、生物的な恐怖で開ききる。
(時間がない――)
俺の内側で、注釈欄が強烈に存在を主張した。
閉じられていた『白』が、熱を帯びて透けてくる。
俺の意思とは無関係に、危機的状況が注釈を強制起動させる。
【注釈欄:未記入】
ミラが震える声で零した。
「……書いたら、また……」
続きは言葉にならなかった。
その喉の詰まり方は、ただの死への恐怖ではない。
(“また”の先にあるのは、過去か。それとも自分自身の喪失か)
俺は決める。
(――筆者は、俺だ)
ミラに代償は払わせない。
余白を埋めるのは、俺自身の存在でいい。
文章を長くすれば、失うものが増える。
根拠はないが、この世界の冷徹な論理がそう告げている。最小の言葉で、最大の矛盾を突きつける。
俺は注釈欄に、短い一文を叩きつけた。
【注釈】※この通路の奥には、人一人が通れるだけの隙間がある。
成立。
闇の奥で、小石が転がる乾いた音が響いた。
ミラが顔を上げる。通路の先、行き止まりだったはずの壁の一部が、不自然に割れていた。
目を凝らせば、確かにそこには『出口』が存在していた。
「……あった」
驚きと、信じがたいものを見るような震え。
上で火打ち石の音がする。布が擦れ、煙の匂いが漂い始める。
ミラは迷わず動いた。足を引きずり、壁の隙間へ肩から押し入る。
粗い石に服が裂け、苦しげな吐息が漏れる。俺も共に押し込まれる。
表紙の革が削れる感触がして、背筋をなぞるような悪寒が走った。
隙間の先は、古い排水路だった。
細い水が流れ、冷たい外気が肌を刺す。
天井は低いが、月明かりが細い線のように差し込んでいた。
ミラは汚水混じりの床に膝をつき、激しく咳き込んだ。
その音さえも口を塞いで殺し、それでも目元には涙が滲んでいる。
「……生きてる」
言葉が嗚咽に変わりかけたが、彼女はそれを喉の奥で噛み殺した。
追っ手の声はまだ遠い。
今すぐにはここへ辿り着けない――そう理解した瞬間、意識は現実へと引き戻される。
俺も、そうだった。
危機が去った瞬間、代償の徴収が始まる。
(落ち着け……)
自分を律するための言葉が、内側で虚しく滑り落ちる。
俺はいつも、こういう時に――。
(……こういう時に、何をしていた?)
胸の奥に、自分を支える柱があるはずだった。
過去のどこかで、何度も自分を立て直してきた“思考の癖”のようなもの。
状況を分析し、感情を切り離し、すべてを効率よく片付ける仕事。
(俺は……何かを『校正』する側の人間だったはずだ)
そう思った瞬間。
そこに繋がっているはずの記憶の糸が、プツンと切れた。
――白い蛍光灯。
――デスクの上に積まれた、夥しい量の紙。
――誰かの声が「もういい、休め」と言った気がする。
そこにある。確かにある。映像として見えている。
なのに、次の瞬間。
まるでフィルムが焼き切れるように、その映像が白く塗りつぶされた。
(……誰だ、今の声は)
声の主を探そうとした途端、顔の輪郭が崩壊した。
名前が出ない。どんな顔をしていたか思い出せない。
思い出そうとした「感情」ごと、ごっそりとスコップで掘り抜かれたように消えていく。
残ったのは、叱られたときの冷たい感触と、微かなインクの匂いだけ。
ぞっとした。
さっきまで、そこにあったはずの『俺』が。
俺を俺たらしめていた記憶のピースが、一つ、永遠に失われた。
――補足。成立。
そして、その直後の『消失』。
白い場所の文字が、逃げ場のない真実として脳裏に響く。
『補足には代償を要する』。
(……代償って、こういうことか)
“俺を俺にしてきたもの”が、削られている。
それが大切な思い出だったのか、ただの日常だったのかさえ、消えた後では判別がつかない。
ただ「穴が開いた」という事実だけが、空虚に風を鳴らしている。
ミラが俺を膝の上に置いた。
触れない。決して指一本触れないよう、手を固く握りしめたまま距離を取る。
けれど、その視線だけは、射抜くように俺を見つめていた。
「……さっきの、あなたなの?」
問いかけは微かだ。確信はない。けれど、目は逸らさない。
俺は答えられない。声を持たない俺は、ただの沈黙する本だ。
ミラは唇を噛んだ。
「……私、勝手に触らない。勝手に書かない。絶対に」
自分に誓いを立てるように、彼女は繰り返した。
その瞳には、俺の能力への畏怖と、俺自身への痛々しいほどの配慮が混ざっていた。
排水路の上流から、追っ手の声が反響する。
ミラは弾かれたように立ち上がった。足を庇いながら、暗闇の先を見据える。
「……街の外れまで行けば、隠れ家がある」
希望を口にすれば運命に折られる。
そう悟りきった顔で、彼女は一歩を踏み出した。
俺の内側で、注釈欄は白く閉じている。
開けば助かる。開けば、俺が削れる。
そのあまりに単純で残酷な天秤が、夜の静寂よりも重くのしかかる。
(このまま補足を続ければ、俺はいつか――)
どこまで薄くなれば、俺は俺でなくなるのか。
“自殺した”という結論だけが残った空っぽの容れ物を、果たして俺と呼べるのか。
答えは出ない。
ただ、排水路を流れる冷たい水音だけが、弔いのように続いていた。
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