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『余白の書は運命を補足する』  作者: さざなみ
第1章 禁書の拾得
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第2話:代償の輪郭

ミラは走りながら、呼吸さえもその場に捨てていった。


石畳を踏む足音を殺すために重心を低く沈め、角を曲がるたびに壁へ肩を擦りつけて勢いを殺す。


肺が焼けるように熱いはずなのに、声は一切漏らさない。

漏らした瞬間に終わると知っている、逃亡者の走り方だった。


俺は腕の中で揺さぶられながら、背後で弾ける怒号を反芻する。


『ミラを見つけろ! 禁書を持っている!』


――禁書。


俺のことだと認識した瞬間、世界の解像度が変わった。

俺は人間ではない。物だ。渡され、奪われ、あるいは燃やされる。

そういう種類の“価値”として、この世界に再定義されたのだ。


白い場所で脳裏に焼き付いた規則が、遅れて現実に噛み合ってくる。


『余白は本文を補足する』

『補足には代償を要する』

『書は、余白に触れた者で成立する』


最後の一行が、背表紙を芯から冷やした。


“余白に触れた者”。


注釈欄――あの余白が開いたとき、誰かが俺に触れていれば。


(その瞬間、この少女が代償を支払う『筆者』になるのか)


それが、酷く恐ろしかった。

なのに世界は容赦なく、俺たちを追い詰め、その能力ちからを搾り出そうとしてくる。


「見失うな!」「外れだ、外れへ逃げたぞ!」


追っ手の包囲網が狭まる。逃げ道まで計算されている動きだ。


ミラの肩がびくりと跳ねたが、歩幅は緩まない。むしろ焦燥を燃料にして速度を上げる。俺を抱える腕に力が入り、装丁の革が軋んだ音を立てる。


ミラは路地の角で急停止し、壁のくぼみへ身体を滑り込ませた。


俺の表紙に彼女の胸が押し付けられる。心臓の音が速い。早鐘のように俺の背中を叩く。


カシャン、カシャン。


鎧の足音がすぐ側を通り過ぎる。松明の赤黒い光が、濡れた石壁に歪な影を踊らせた。


「……いない」「畜生、どこへ消えた」


足音が遠ざかるまで、ミラは呼吸を止めていた。

ようやく吐き出した息は、寒さではない理由で震えていた。


「……っ」


小さな、痛みに耐える音。


(……どこか、怪我をしているのか)


ミラはすぐに動き出した。停滞は死と同義だ。

路地を抜け、さらに暗い方へ。人の気配が絶望の匂いに変わる吹き溜まりへ。


そして、その段差に足をとられた。

石畳が一段だけ、罠のように沈み込んでいたのだ。


「……っあ!」


声にならない悲鳴。身体が空中で跳ねる。


着地の瞬間、足首が嫌な角度でねじれる感触が、抱えられた俺にまで振動として伝わった。


ミラの呼吸が一瞬止まり、次いで、酸素を求めて浅く荒くなる。


(走れない。この足じゃ――)


背後の声が、獲物を見つけた獣のように近づいてくる。


「そこだ!」「止まれ! 禁書を渡せ!」


『渡せ』。


俺は、所有権を争う物体として呼ばれている。


ミラは歯を食いしばり、折れそうな右足を叱咤して走ろうとする。

だが、速度は無情に落ちる。距離が詰まる。複数の足音が、死へのカウントダウンのように重なっていく。


路地の途中に、崩れかけた廃屋の隙間が見えた。

扉のない入口。中は深淵のように暗い。地下へ降りる石の階段。


迷いは、一瞬だった。


ミラは俺を抱えたまま、その闇へ身を投げた。


湿った空気。腐った梁の匂い。冷たい石材。


階段を下りる音が響かないよう、彼女は足を滑らせるように下りる。

だが足首の激痛が、どうしても小さな音を立ててしまう。


上から、松明の灯りが投げ込まれたように差し込んだ。


「下だ!」「出口を押さえろ! ネズミ一匹逃がすな!」


ミラは階段の下で行き詰まり、その場に膝をついた。

片手で足首を押さえ、もう片手で必死に俺を抱え込む。

瞳が定まらず、恐怖に揺れている。


暗闇の奥へ続く、一本の通路。

崩れた本棚の残骸の向こうへ伸びているが、先は見えない。逃げ道か、行き止まりか。


ミラの指が、無意識に俺の表紙の端へ伸びかけ――。


止まった。


彼女は、火に触れたように指を引っ込めた。


「……触らない」


自分に言い聞かせるような、血の味のする誓い。


「……お願い」


祈るような声。

それでも、彼女は俺を開こうとはしなかった。


上で足音が止まる。


「待て。火は使うなと言われている。貴重な禁書だ」

「煙で燻せば出てくるさ。殺す必要はない」


煙。密閉された地下。酸素の欠乏。


ミラの瞳孔が、生物的な恐怖で開ききる。


(時間がない――)


俺の内側で、注釈欄が強烈に存在を主張した。

閉じられていた『白』が、熱を帯びて透けてくる。


俺の意思とは無関係に、危機的状況が注釈システムを強制起動させる。


【注釈欄:未記入】


ミラが震える声で零した。


「……書いたら、また……」


続きは言葉にならなかった。

その喉の詰まり方は、ただの死への恐怖ではない。


(“また”の先にあるのは、過去か。それとも自分自身の喪失か)


俺は決める。


(――筆者は、俺だ)


ミラに代償は払わせない。

余白を埋めるのは、俺自身の存在リソースでいい。


文章を長くすれば、失うものが増える。

根拠はないが、この世界の冷徹な論理がそう告げている。最小の言葉で、最大の矛盾を突きつける。


俺は注釈欄に、短い一文を叩きつけた。


【注釈】※この通路の奥には、人一人が通れるだけの隙間がある。


成立。


闇の奥で、小石が転がる乾いた音が響いた。


ミラが顔を上げる。通路の先、行き止まりだったはずの壁の一部が、不自然に割れていた。

目を凝らせば、確かにそこには『出口』が存在していた。


「……あった」


驚きと、信じがたいものを見るような震え。


上で火打ち石の音がする。布が擦れ、煙の匂いが漂い始める。


ミラは迷わず動いた。足を引きずり、壁の隙間へ肩から押し入る。


粗い石に服が裂け、苦しげな吐息が漏れる。俺も共に押し込まれる。

表紙の革が削れる感触がして、背筋をなぞるような悪寒が走った。


隙間の先は、古い排水路だった。

細い水が流れ、冷たい外気が肌を刺す。


天井は低いが、月明かりが細い線のように差し込んでいた。


ミラは汚水混じりの床に膝をつき、激しく咳き込んだ。

その音さえも口を塞いで殺し、それでも目元には涙が滲んでいる。


「……生きてる」


言葉が嗚咽に変わりかけたが、彼女はそれを喉の奥で噛み殺した。


追っ手の声はまだ遠い。

今すぐにはここへ辿り着けない――そう理解した瞬間、意識は現実へと引き戻される。


俺も、そうだった。

危機が去った瞬間、代償の徴収が始まる。


(落ち着け……)


自分を律するための言葉が、内側で虚しく滑り落ちる。

俺はいつも、こういう時に――。


(……こういう時に、何をしていた?)


胸の奥に、自分を支える柱があるはずだった。

過去のどこかで、何度も自分を立て直してきた“思考の癖”のようなもの。

状況を分析し、感情を切り離し、すべてを効率よく片付ける仕事。


(俺は……何かを『校正』する側の人間だったはずだ)


そう思った瞬間。

そこに繋がっているはずの記憶の糸が、プツンと切れた。


――白い蛍光灯。

――デスクの上に積まれた、夥しい量の紙。

――誰かの声が「もういい、休め」と言った気がする。


そこにある。確かにある。映像として見えている。

なのに、次の瞬間。


まるでフィルムが焼き切れるように、その映像が白く塗りつぶされた。


(……誰だ、今の声は)


声の主を探そうとした途端、顔の輪郭が崩壊した。

名前が出ない。どんな顔をしていたか思い出せない。


思い出そうとした「感情」ごと、ごっそりとスコップで掘り抜かれたように消えていく。


残ったのは、叱られたときの冷たい感触と、微かなインクの匂いだけ。


ぞっとした。


さっきまで、そこにあったはずの『俺』が。

俺を俺たらしめていた記憶のピースが、一つ、永遠に失われた。


――補足。成立。

そして、その直後の『消失』。


白い場所の文字が、逃げ場のない真実として脳裏に響く。


『補足には代償を要する』。


(……代償って、こういうことか)


“俺を俺にしてきたもの”が、削られている。

それが大切な思い出だったのか、ただの日常だったのかさえ、消えた後では判別がつかない。


ただ「穴が開いた」という事実だけが、空虚に風を鳴らしている。


ミラが俺を膝の上に置いた。


触れない。決して指一本触れないよう、手を固く握りしめたまま距離を取る。

けれど、その視線だけは、射抜くように俺を見つめていた。


「……さっきの、あなたなの?」


問いかけは微かだ。確信はない。けれど、目は逸らさない。


俺は答えられない。声を持たない俺は、ただの沈黙する本だ。


ミラは唇を噛んだ。


「……私、勝手に触らない。勝手に書かない。絶対に」


自分に誓いを立てるように、彼女は繰り返した。

その瞳には、俺の能力への畏怖と、俺自身への痛々しいほどの配慮が混ざっていた。


排水路の上流から、追っ手の声が反響する。


ミラは弾かれたように立ち上がった。足を庇いながら、暗闇の先を見据える。


「……街の外れまで行けば、隠れ家がある」


希望を口にすれば運命に折られる。

そう悟りきった顔で、彼女は一歩を踏み出した。


俺の内側で、注釈欄は白く閉じている。


開けば助かる。開けば、俺が削れる。

そのあまりに単純で残酷な天秤が、夜の静寂よりも重くのしかかる。


(このまま補足を続ければ、俺はいつか――)


どこまで薄くなれば、俺は俺でなくなるのか。

“自殺した”という結論だけが残った空っぽの容れ物を、果たして俺と呼べるのか。


答えは出ない。

ただ、排水路を流れる冷たい水音だけが、弔いのように続いていた。

この話を読んでいただき、ありがとうございました。

感想や誤字報告などいただけると、とても励みになります。続きをよろしくお願いします。

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