出雲地方に足を踏み入れた時から、三又の勾玉は微かに振動し始めていた。全で微弱な電流が流れているかのような、微かな痺れが手の平に伝わる。
慎一は|レンタカーを走らせ、山あいの集落へと向かった。手帳に記されていた「櫛名田神社跡」は、最新の|カーナビにも登録されていない。地元の人に聞くしかない。
最初の二つの集落では、首を傾げられるだけだった。「櫛名田? 聞いたことないなあ」「神社跡なら、あっちの山にいくつかあるけど……」
三つ目の集落で、漸やく手がかりが見つかった。公民館の前で日向ぼっこをしていた老人が、慎一の問いかけに目を細めた。
「櫛名田の神社跡? ……ああ、知ってるよ。杉山の爺さんなら詳しいだろう。あの社の最後の神主さんの息子だからな」
老人は杖をつき乍ら立ち上がり、集落の奥を指さした。「あそこの青い屋根の家だ。でもな、あそこに行きたいって言うのかい?」
慎一は頷いた。「はい。家の調査で……」
老人は深く溜息をついた。「あの社はな、只の廃社じゃないんだ。杉山の爺さんも、簡単には教えてくれんと思うよ」
「何か……問題が有ったんですか?」
「問題って言うか……」老人は言葉を選ぶように間を置いた。「俺が子供の頃までは、未だ小さな祠が有った。戦前から有ったんだが、昭和の初め頃、変なことが起きたんだ」
「変なこと?」
「神懸かりだ。年に一度の祭りの時、巫女さんが可笑しくなった。『古の契約が顕れる』『国津と天津の縁が綻びる』って叫び続けてな。それからというもの、あの社では神懸かりが続発するようになった。普通の娘が急に古代の言葉を喋り出したり、火の中を平気で歩いたり……」
老人の声は低くなり、周囲を警戒するように見回した。
「最後の宮司さんは、社を閉じた。『禍い座』だから触れるな、二度と近づくなって。それからもう七十年近く、あの一帯には誰も入らなくなった」
「禍い座……」
「然だ。良いか、若いの。あそこには行かない方が良い。昔から、あの山に入って戻ってこない者が何人もいた。みんな『神隠しに遭った』って言われてな」
老人は然言うと、もう何も語ろうとしなかった。
青い屋根の家は、集落の一番奥に有った。庭には手入れの行き届いた松の木が有、家の造りも古風乍ら質が良い。嘗ては由緒有る家柄だったのだろう。
慎一が|インターホンを押すと、しばらくして扉が開いた。現れたのは背の低い、しかし背筋の伸びた八十歳を越える男性だった。目は澄んでいて、鋭い観察眼を感じさせた。
「杉山と申します。何方ですか?」
「初めまして。櫛名田慎一と申します。祖父が櫛名田幽学というもので……」
慎一が名乗ると、杉山老人の表情が微かに動いた。その変化は一瞬だったが、確かに有った。
「幽学さんの……御孫さんか。随分と大きくなられたなあ。最後に御会いしたのは、君が未だ小学生の頃だった」
老人は慎一を家の中へ招き入れた。座敷に通され、煎茶が出される。慎一は手帳を取り出し、神社跡のことを尋ねた。
杉山老人は長い間、黙っていた。茶碗を持った手が微かに震えている。
「……幽学さんは、あの社のことを調べていたのか。そして君も、その跡を継ごうというのか」
「祖父が遺した手帳に、あの社に『出雲の石』が有ると書いてあったんです」
「出雲の石……」老人は目を閉じた。「ああ、然か。幽学さんは遂に、あれを見つけようとしていたのか」
老人は徐くりと語り始めた。
「櫛名田神社は、元は小さな祠に過ぎなかった。しかし、その起源は古い。伝承に依れば、須佐之男命が櫛名田比売を娶り、この地に暫く留まった時に建てたものだという」
「では、本当に神話と関係が……」
「関係どころか」老人の目が鋭く光った。「あの社は、神話そのものが現世に刻まれた場所なんだ。私の父――最後の宮司は然言っていた。『この社は契約の地である。須佐之男命が大国主神に国を譲るという約束を、形にしたものだ』と」
慎一は息を呑んだ。正に手帳に書かれていたことだ。
「その契約の証が、『出雲の石』なんですか?」
老人は頷いた。「社の本殿の床下に、契約の写しが石に刻まれて埋められている。代々の宮司だけが知る秘密だった。だが……」
声が詰まる。
「だが、その石には強い力が宿っている。父が言うには、石は単なる記録ではない。契約そのものが生きている、と。だから触れる者は、契約の重みを直接背負うことになる」
「契約の重み?」
「あの神懸かり事件は、石の力が暴走したせいだった。有る時を境に、石が『活性化』し始めた。全で、契約の履行を迫るかのように」老人は慎一を真っ直ぐに見つめた。「幽学さんはそれを知っていた。だから調査に来た時、父は必死に止めた。触れてはいけない、と」
「でも祖父は……」
「聞かなかった。『これは単なる調査ではない。|システムの歪みを正すための仕事だ』って言ってな。そして実際に石を『見た』後、幽学さんは変わった。興奮して、『全てが繋がる』『三つの器で|システムを再起動できる』と繰り返すようになった」
慎一の背筋が寒くなった。祖父の変化は、正に手帳の記述の変化と一致していた。
「それからしばらくして、幽学さんは帰っていった。そして数ヶ月後、父はあの社で倒れているのを発見された」
「倒れて? 病気で?」
杉山老人の顔に苦渋が走った。
「いいや。父の額には、逆さの五芒星が焼き印のように刻まれていた。体には一つの傷もないのに、心臓が止まっていた。医者は原因不明と言ったが……私は知っている。あれは人間の仕業じゃない」
「神々の……?」
「分からん。だが、父が亡くなった後、あの社の周囲が更に不気味になった。鳥も鳴かず、虫の声さえ聞こえん。全で、何かが待ち構えているようだ」
老人は立ち上がり、押し入れから一つの布包みを取り出した。中から現れたのは、古びた木箱だった。蓋を開けると、中には黄色く変色した数枚の紙が入っている。
「父が残した、あの社についての記録だ。そしてこれが……」
老人は箱の底から、小さな石片を取り出した。それは勾玉の欠片のように見えたが、色は慎一の持つ三又の勾玉と同じく、黒、白、赤が混ざっている。
「これは?」
「あの社の鳥居が崩れた時、地面から出てきたものだ。幽学さんが『石の分身だ』と言っていた。これを取っておけば、本物の石に近づいた時に警告になる、と」
慎一が石片を見つめると、掌の勾玉の振動が強くなった。二つの石が共鳴しているのだ。
「君がどうしても行くというなら、これを携えていけ。だが、忠告しておく。あの場所は今や、聖域でも何でもない。契約が破綻し、歪んだ力が渦巻く危険地帯だ。行ったら、二度と戻れないかもしれん」
慎一は石片を受け取り、|しっかりと握り締めた。
「有難うございます。でも、行かなくてはなりません。祖父の死の真相も、この石が握っている気がしますから」
杉山老人は深く息を吐いた。「分かった。だが、一つ約束してくれ。日が暮れる前に必ず引き返すこと。あの山で夜を迎えてはならん」
「なぜですか?」
「父が言っていた。『あの社には、夜になると本当の主が現れる』と。それが何を意味するかは……分からん。だが、良いことではないことは確かだ」
慎一は約束した。
老人は詳細な地図を描いてくれ、社までの道筋を説明した。「道は殆ど消えている。雑木林を抜け、谷を越え、急な坂を登らなければならない。軽い気持ちで行ける場所じゃない」
午前十時。慎一は準備を整え、山道に入った。
最初の一時間は、微かに道跡が残っていた。しかし次第に、藪が深くなり、地面は滑りやすくなった。杉山老人の言う通り、ここは長年人跡未踏の場所だった。
勾玉の振動は、進むにつれて強くなっていった。全で心臓の鼓動のように、規則的な|リズムで手の平に伝わる。
そして、有る地点で突然、自然の音が消えた。
鳥の声も、虫の音も、風の音さえも聞こえない。只深い、重たい静寂が周囲を包んでいる。空気が淀み、呼吸さえも苦しくなるような圧迫感。
「ここが……境界か」
慎一は杉山老人から預かった石片を取り出した。石片は微かに温かく、内部の三色が徐くりと回転しているように見えた。
更に進む。
藪を掻き分け、谷を下り、再び登りにかかる。足元には時折、人工物の痕跡が見られた。崩れた石垣、苔むした階段の跡、倒れた木の根元に半ば埋もれた石仏。
そして愈よ、山の鞍部に差し掛かった時、視界が開けた。
そこには、確かに神社跡が有った。
石の鳥居は半分倒れ、苔と蔦に覆われている。その奥に、ほんの数坪の平地が有、礎石が微かにその形を留めていた。本殿の跡だ。
が、それ以上に慎一の目を引いたのは、社の背後に聳える巨岩だった。
高さは五|メートルほど。黒々とした岩肌に、無数の裂け目が走っている。その裂け目からは、薄気味悪い白い煙のようなものが立ち上がっているように見えた。だが良く見ると、煙ではなく、光の揺ぎだった。
「あれが……?」
慎一が近づこうとしたその瞬間、背中の逆さ龍の|アザが激しく疼きだした。今までにない鋭い痛みだ。
同時に、掌の勾玉が熱くなり、石片が震え始めた。
警告だ。
慎一は一歩下がり、周囲を警戒し乍ら観察した。社の跡は只荒れているだけではない。何かが……歪んでいる。
空間そのものが、ゆがんで見えるのだ。全で夏の陽炎のように、景色が揺めいている。特に巨岩の周囲はひどく、岩の輪郭さ朧けて見える。
「これは……結界? それとも……」
慎一は手帳を開き、祖父の記述を探した。
「『神気の異常濃縮地点では、現世と幽界の境界が薄れ、視覚的歪みが生じる。この歪みは、|システムの綻びの視覚的表現である』……」
正にこの状態だ。
慎重に社跡へと歩み寄る。倒れた鳥居を潜り、礎石の間を進む。地面は柔らかく、靴が沈み込む。長年、湿気を吸った土だ。
本殿の跡に立つ。ここが嘗て、契約の石が埋められていた場所だ。
慎一は膝をつき、地面を調べ始めた。すると、一本の礎石が他とは明らかに異なっていることに気づいた。石の表面に、微かだが意図的な彫り込みが有る。
埃を払い、良く見る。
古代の文字が刻まれていた。出雲地方で発見される神代文字に似ているが、更に古い形式だ。
慎一は|スマートフォンで写真を撮り、解読を試みた。祖父の手帳には、神代文字の対照表が有った。
少し時間がかかったが、漸やく読めた。
「須佐之男より大国主へ
葦原を譲る代わりに
幽よる者の座を保て
石は証
破る者は黄泉に通わん」
「葦原を譲る代わりに、幽よる者の座を保て……?」
これは国譲り神話の、全く異なる|バージョンだった。須佐之男命が大国主神に国を譲ったのには、代償が有ったのか。幽よる者――黄泉に通う者の座を保証すると?
そして最後の警告。「破る者は黄泉に通わん」。契約を破れば、黄泉に落とされるという意味か。
慎一は考えた。もしこの契約が「|システム」の一部なら、それを破綻させることが祖父の言う「|システムの歪み」なのかもしれない。
ふと、勾玉の熱さが増した。
振り向くと、巨岩の方から何かが動いた。
白い影だ。
慎一は息を止め、身を低くした。影は徐くりと、巨岩の裂け目から這い出してくるように現れた。
人間の形をしているが、明らかに人間ではない。体は半透明で、内部に星々のような光点が漂っている。顔は朧としており、表情は読めない。
幽霊? それとも……
影は社跡の中央へと歩み寄り、倒れた鳥居の前で立ち止まった。そして、徐くりと腕を上げた。
その瞬間、周囲の光景が変わった。
社跡が、突然、完全な形で現れたのだ。鳥居は直立し、本殿は完璧な状態で輝いている。周囲には古代の衣装を纏った人々が集い、祭祀を行っている。
幻か? だが、余りにも鮮明だ。香の匂いさえ感じられる。
中央には、白い装束の巫女が立っている。彼女は石の前に膝まずき、何かを唱えている。その顔が――慎一の目を見開かせた。
祖母の|アルバムで見た、若き日の母の顔に蘇くりなのだ。
巫女は石に手を触れる。すると石が光り、上空から別の光が降り注ぐ。光の中には、荒らしい気配を纏った男の姿が見える。
須佐之男命か?
光の男が何かを語り、巫女が頷く。契約の儀式だ。
そして突然、光景が歪んだ。
別の光が、鋭く割り込んできた。更に整然とした、冷たい光だ。その光の中にも人影が有るが、詳細は見えない。
二つの光が激しく衝突する。社殿が揺、人々が悲鳴を上げる。
巫女が必死に石を抱き締める。だが石から亀裂が入り、光が漏れ出す――
パン!
幻は消えた。
再び目の前に有るのは、荒れ果てた社跡だけだった。
だが慎一は理解した。あの幻は、過去の記憶の再生だった。しかも、単なる歴史的記録ではない。石に刻まれた、契約そのものの記憶だ。
そして、あの衝突。二つの光の争い。
「天津神と国津神の……契約を巡る争いか」
勾玉が激しく振動する。警告の強度が増している。
慎一は巨岩を見上げた。煙のような光は、今や明らかな渦を巻き始めている。そして岩の裂け目からは、先ほどの白い影が、次々と現れ始めていた。
三体、五体、十体――
それらは皆、慎一の方を見ている。ない筈の目で、じっと見つめている。
「最も悪い……」
慎一は一歩後退り、逃げ道を探した。来た道を戻るしかない。
その時、背後から声がした。
「待っていたよ、契約の子」
振り向くと、社跡の入口に一人の男が立っていた。
白い装束。古神道再興会の男だ。だが、先の三人とは違う。年齢は三十代半ばか。目には狂気の輝きが有、手には御幣のような杖を持っている。
「ついに来たな。須佐之男の血を引く者。我々の計画に欠けていた最後の|ピースだ」
男は杖を地面に立てる。
「この社で、古き契約を新しく結び直そう。天津神の支配を断ち切り、真の国津神の時代を取り戻すために――お前の血と魂が必要なんだ」
慎一は身構えた。「何を言っているんだ」
「簡単なことさ」男は笑みを浮かべた。「この石は契約の写しだが、不完全だ。本来の契約者である須佐之男命の血筋が欠けている。お前がここで儀式を行い、血を捧げれば、契約は完全なものになる。そして我々は、その力を手に入れることができる」
「馬鹿な……!」
「馬鹿じゃない。必然だ」男の目が鋭くなる。「お前も見ただろう? あの幻を。契約は破綻している。天津神は約束を守らなかった。ならば我々が、契約を履行する側に立つまでだ」
男が杖を振るう。
巨岩から現れた白い影たちが、一斉に動き出した。彼等は慎一を取り囲むように漂い、徐徐に接近してくる。
「これらの御霊たちは、契約の履行を待ち続けている。何百年も、飢えているんだ。お前の血で、漸やく満たされる」
慎一は背中の|アザが焼け付くように熱いのを感じた。痛みと共に、何かが湧き上がってくる。怒りか、それとも――力か。
掌の勾玉が光り始めた。三色の光が渦を巻き、男の杖の光と対抗する。
「おや?」男が興味深そうに目を細めた。「既に力が目覚めているのか。では尚更、儀式は成功するだろう」
影たちが、慎一に手を伸ばしてきた。
その瞬間――
「動くな! 神祇保全局だ!」
鋭い女性の声が森に響き渡った。
社跡の周囲から、黒い制服を着た複数の人影が現れた。先頭に立つのは、慎一が一度会った神楽カグラだった。彼女は拳銃のようなものを構えているが、通常の銃器とは明らかに|デザインが異なる。
「古神道再興会、伊吹! これ以上一般市民に危害を加えるなら、祓具を使用する!」
男――伊吹は嘲笑した。「神祇保全局が来たか。天津神の犬どもめ。だが、もう遅い。儀式は始まっている」
伊吹が杖を高く掲げ、古代の言葉を唱え始めた。
巨岩の裂け目から、更に濃い白い煙が噴き出し、影たちの数が倍増した。
カグラが叫ぶ。「慎一さん、こちらに!」
慎一は走り出そうとしたが、足が地面に張り付いたようで動かない。見下ろすと、地面から無数の白い手が伸びて、彼の足首を掴んでいるのだ。
「離せ……!」
背中の|アザが更に熱くなる。今度は痛みだけでなく、何かが体の中を駆け巡る感覚が有った。
荒御の道――強肌の力が、無意識に発動した。
慎一は唸り声を上げ、力任せに足を振る。白い手が|パキパキと音を立てて砕け、光の粒子となって消散した。
「やはり……!」伊吹の目が輝いた。「血筋は本物だ!」
カグラたちが動いた。彼等が持つ「祓具」から青白い光が放たれ、白い影たちを貫く。影は悲鳴のような音を上げて消えていく。
だが、数が多すぎる。次々と新しい影が巨岩から生み出される。
カグラが慎一に近づき、手を差し伸べた。「手を!」
慎一はその手を掴んだ。カグラの力で地面から引き抜かれ、社跡の外へと引っ張られる。
「逃がすか!」伊吹が杖を振るい、巨大な白い手が空中に現れ、二人を捕らえようとした。
その時、慎一の掌で勾玉が爆発的な光を放った。
三色の光が渦を巻き、白い手を粉砕する。光は更に進み、巨岩の裂け目へと突き刺さった。
「うわあああっ!?」
伊吹が悲鳴を上げ、杖から手を離した。杖が割れ、中から黒い煙が漏れ出す。
巨岩が轟音を上げて震え、裂け目が更に広がった。中からは、もはや白い影ではなく、黒く淀んだ何かが湧き出してきた。
カグラの顔色が変わった。「黄泉の穢れが……! 結界が破れた!」
地面が揺る。社跡全体が沈み始めるかのように、地面に亀裂が走る。
「撤退! 今即!」カグラが隊員たちに指示を出し、慎一の腕を掴んで走り出した。
伊吹は未だ杖の傍らに倒れている。「待て……契約は……!」
だが、彼の声は地面の崩れる音にかき消された。
慎一とカグラたちは必死で山を下りる。背後では、社跡全体が黒い霧に包まれ、異様な呻き声が響き渡っていた。
漸やく安全な場所まで逃げ延び、振り返ると、あの山の鞍部はもはや黒い渦に飲み込まれているように見えた。
カグラは息を切らし乍ら、慎一を見つめた。
「大丈夫ですか? 怪我は?」
「あ、ああ……なんとか」慎一は自分の手の平を見た。勾玉は未だ温かく、光は収まっていたが、内部の三色の回転が以前より速くなっているように感じた。
「あれは……何だったんです?」
カグラの表情が険しくなった。「古神道再興会が、禁忌の儀式を実行しようとしていた。あの社は、神代の契約が刻まれた危険な場所です。通常は強力な結界で封印されているのですが……」
「結界を、僕が破ってしまった?」
「あなたの持つ勾玉の力と、あの男の儀式が共鳴した結果でしょう」カグラは溜息をついた。「兎も角、ここは危険です。すぐに離れましょう。黄泉の穢れが漏れ出している。このままでは、周辺一帯が汚染される可能性があります」
車へと急ぐ途中、慎一は考えた。
あの幻で見た光景。契約の記憶。
そして伊吹の言葉。「お前の血で契約を完全なものに」
彼はカグラに問いかけた。「あの男は、僕の血で契約を履行すると言っていました。それはどういう意味ですか?」
カグラは一瞬黙り、重い口を開いた。「櫛名田さん。あなたの血筋は、単なる伝承ではありません。須佐之男命と櫛名田比売の直系として、神代の契約を継承する資格が有る――少なくとも、彼等はそう信じているのです」
「でも、それって……」
「神話が現実として機能する|システムにおいては、血筋は単なる象徴ではありません」カグラの声は真剣そのものだった。「それは、|システムへの|アクセス権なのです。あなたの祖父が殺された理由も、おそらくそこにあります。彼は|システムを再起動する方法を見つけ、それを実行する資格を持つあなたを残した」
車に乗り込み、|エンジンを掛ける。カグラは無線で本部に状況を報告し始めた。
慎一は窓の外を見つめた。山の鞍部は、今や黒い雲に覆われている。
彼は掌の勾玉を握り締めた。温もりは、もはや単なる温もりではない。力の脈動を感じる。
祖父の遺言が、今、現実の重みを持って迫ってくる。
「まず、三つの器を探せ」
「出雲の石は、契約の写しである」
第一の器は、もう手の届くところに有る。だが、その代償は余りにも大きすぎる。
カグラの報告が終わり、車が動き出した。
「これからどうする積りですか?」カグラが尋ねた。
慎一は深く息を吸い込み、答えた。
「次の器を探します。纏向の鏡を」
カグラは驚いたように彼を見たが、すぐに頷いた。
「分かりました。ただし、二度と単独行動はしないでください。あなたはもう、只の考古学学生ではありません。神話戦争の、中心に立とうとしているのですから」
車は山道を下り、集落へと戻っていく。
後部座席から振り返る慎一の目に、黒く渦巻く山の姿が焼き付けられた。
あそこには、未だ答えが有る。契約の真実が。
だがそれを得るためには、更に深く、神話の闇へと足を踏み入れなければならない。