山あいの空気は、都会のそれとは全く異なっていた。
櫛名田慎一は、祖父の旧宅の書斎に立って、深く息を吸い込んだ。埃と黴、それに古い紙の混ざった、懐かしい匂い。一年ぶりに戻ってきたこの家は、時間が止まったままのようだった。
教授から渡された封筒の中身は、今も彼の胸の内で重くのしかかっている。祖父・幽学は、単なる学者の死を迎えたのではない。何か――いや、誰かに殺されたのだ。
「東南の角の畳……確かここだ」
慎一は膝をつき、祖父の遺言通り、書斎の東南隅にある畳の縁を探った。指先に微かな段差を感じる。細工が施してある。
彼は一瞬、躊躇した。この先に何が待っているのか。平穏な学生生活が、二度と戻ってこないかもしれないという予感が、背筋を這い上がる。
しかし、疑問はそれ以上に大きかった。なぜ祖父は殺されなければならなかったのか。その「研究」とは何だったのか。
「……行くしかない」
畳の縁に指をかけ、徐くりと持ち上げた。
下から冷たい、湿った空気が立ち上がってきた。長年閉ざされていた空間の、独特の息吹だ。床板には、確かに小さな金属の輪が埋め込まれている。錆びついてはいたが、|しっかりとした造りだ。
慎一は息を詰め、輪に指をかけた。
引っ張る。
最初は抵抗があったが、軋むような音と共に、何かの機構が動いた。畳二枚分の床板が滑るように横へ開き、暗闇へと続く石段が現れた。
「……本当にあった」
彼は|スマートフォンの|ライトを点け、階段を照らした。十二段。古びた石段は、滑りやすく苔むしている。下り切ったところは、六畳ほどの広さの地下空間だった。
光が壁を照らす。
慎一は息を呑んだ。
壁一面が本棚で埋め尽くされていたのだ。
和綴じの古い書物、巻子本、明治期の洋装学術書、戦時中の|ノート、さらには羊皮紙のような異国の資料まで――あらゆる時代、あらゆる媒体の記録が、整然と並べられていた。資料の種類も多岐に渡る。神社の縁起書、地方の伝承記録、地質調査報告、はては占星術や陰陽道の書、古代の医薬書まで。
そして中央には大きな机が一つ。その上に、三つのものが置かれている。
最初に目についたのは、紐に通された奇妙な石だった。勾玉の形をしているが、通常のものとは違う。三つの枝が分かれた、三又のような形状。色は黒、白、赤が渦を巻き、内部で微かに光っているように見えた。
手に取ると、温かい。いや、正確には、彼の体温に反応して温かくなっているのだ。
次に、手描きの地図。『幽界巡り図』と題されていた。日本列島が描かれているが、通常の地図ではない。出雲、諏訪、熊野、富士山……神話縁の地が赤い点で印され、それらを結ぶように金色の線が走っている。霊脈か、龍脈か。
最後に、革装の手帳。表紙には『幽学 神代観察記 最終巻』とある。
慎一は手帳を開いた。
最初の数頁は、冷静な民俗学的観察記録だった。各地の祭祀の様子、古老からの聞き書き、遺跡の|スケッチ。
しかし中盤から、調子が変わっていく。
『高天原の理は、葦原中国に浸透する経路を特定せねば……』
『黄泉の瘡口は諏訪湖にて最大に展開する』
専門用語が増え、記述は次第に「観測」から「実践」へと移行していく。
そして最終頁。
慎一の息が止まった。
「慎一よ。
もし汝がこの言葉を読んでいるなら、汝はすでに道の入口に立っている。
余の最後の助言を二つ。
一、汝の血には『出雲の巫女』と『渡りの匠』、二つの因縁が流れる。これを対立と見るな。統合の礎とせよ。
二、最初の器『出雲の石』は、単なる石ではない。須佐之男命と櫛名田比売、そして大国主神への『契約の写し』である。石を手にした時、汝は神代の契約そのものと向き合うことになる。
覚悟せよ。
そして、必ず生き延びよ。」
「契約の……写し?」
その瞬間、背中が熱くなった。
左肩から背中にかけて広がる、生まれつきの|アザ――逆さ龍の形をしたそれが、脈打つように疼きだした。
同時に、蔵の中の空気が変わった。
本棚の資料すべてから、囁き声が聞こえてくるような気がした。古代の祈り、神々の争い、土地の記憶――無数の声が渦巻き、慎一の頭の中に流れ込もうとする。
「っ……!」
彼は目を閉じ、必死にその洪水を遮ろうとした。
数秒後、疼きも声も収まった。
慎一は深く息を吐き、手に汗を握っていることに気づいた。
祖父は、単なる民俗学者ではなかった。
この蔵は、研究室ですらない。これは――戦いのための武器庫だ。
彼は三又の勾玉を|しっかりと握り締めた。
温もりが、今度は確信に変わって手に伝わってくる。
「……よし」
次の目的地は、はっきりしていた。
出雲。母方の|ルーツの地へ。