sleep
自分の部屋へと帰ってくる頃には完全に陽が沈みきっていた。わたしは手を洗うあいだ鏡をみれずにいた。いないはずのゴーストが、わたしの背後にぴったりとくっついているのではと不安だった。着替えもそこそこにコートだけ脱ぐと、ベッドへと入った。部屋の灯りは怖くて消せない。
ふと枕元の"粉雪の舞う季節に"が視界にうつった。
さきほど彼の部屋で起きた出来事はこの本にも書いてある。疲れていて幻聴のようなものを聞いたとは思えなかった。どうしても、この本と、現実がリンクしているという妄想を拭えない。
美羽に電話をかけた。数回コールが鳴ったあと、繋がった。
『はいはい、どしたー?』
明るい美羽の声にずいぶんと心を励まされた。
「...さっきね、和樹のうちいったんだけどやっぱりいなくて。そんでね、部屋のなかにいたらチャイムが鳴って、出たんだけどだれもいなくて、それなのにチャイムが鳴りつづけて」
『うんうん。』
「どう思う?」
『どうって...。絵梨花、疲れてるんだよ。彼にそれから連絡したの?』
「してない。LINEの既読もつかないから。」
『そっかー。あの、輝樹もう寝てっから、いまから絵梨花んち行こっか?一緒に寝てあげるよ。』
輝樹とは町田くんの名前だ。わたしは美羽のやさしさに触れて涙が出そうになるのをこらえ、
「寒いし、いいよ。悪いよ。」
『よくないよ。なんか絵梨花、声も震えてるし、あたし心配。あったかいおでんでも一緒に食べよ?ね?』
「...。」
『今から行くから、ね。待ってて。』
そっと通話が切れた。
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「お待たせー。じゃじゃーん。おでん買ってきたよ。冷めちゃってるから、ちょっとレンジ借りるね。」
淡いピンクのトレンチコートを脱ぎながら、美羽が玄関の暗がりのすみにあるレンジを開ける。
「絵梨花、やつれてみえるよ。やっぱり来てよかったな。ひょっとして熱でもあるんじゃないかと思ったけど、絵梨花にだったらうつされてもいいよ。輝樹にうつされるのは死んでも嫌だけどね。」
からからと笑う。この笑顔にわたしは今までどれほど救われてきただろうか。
「寒いのに、来てくれてありがとう。」
「いいっていいって。そういえば絵梨花んち、コタツないよね。バイト代じゃカツカツだったらお父さんに言って買ってもらいなよ。」
「早く自立したいから。あんまりパパには頼りたくない。」
美羽はわたしのパパがどういう仕事をしているか知っている。最初明かしたときは嫌われると思っていたのに、美羽は驚きはしたものの、たくましいお父さんじゃん、って言ってくれた。あたしのオヤジなんてほぼ一日部屋に寝転んで酒ばっか飲んでるって。そう言ったときの美羽の顔は淋しそうで、なのにわたしは何も言ってあげられなかった。いつも美羽には与えてもらってばっかりだ。そう謝ると、あたしが辛かったときにそばにいてくれたのは絵梨花だけだったよ、十分感謝してるって、って。
ふたりで肩を寄せ合い、ストーブにあたりながら、熱々のおでんを食べた。そのときわたしははじめて空腹だったのに気づいた。
食べ終えて、ごちそうさまでしたと声を合わせたあとに、シンクへ空の容器を洗いにいった美羽が、お風呂借りるね、と脱衣所へと入っていく。
美羽のたてるシャワーの音を聞きながら、わたしはジャージに着替えると、パジャマを美羽のために整えた。もともと汚れてはいないけれど、コロコロできれいにした。美羽とわたしはそれほど体格差はない。美羽のほうが若干身長が高いくらいだ。やがて下着姿の美羽が脱衣所から出てきた。
「ひゃ〜あったまったぁ。なのにさむっ。」
「これ、わたしのパジャマだけど、あったかいから着て。」
「いいの?悪いね。そのぶん今夜はいっぱい絵梨花をあたしがあっためてあげっから。お風呂、入ってきちゃいなよ。」
美羽がいたずらっぽく笑う。
わたしも体を洗って、ふたりして、ベッドへ入る。電気を消せたのは美羽がいてくれたからだ。
「絵梨花、いっつもこの本読んでるよね。そんなおもしろいの?」
「うん。とても好き。でも美羽には理解できないと思う。」
「ひっどー。」
"粉雪の舞う季節に"では、こんな光景はでてこない。これが確かな現実なんだ、わたしの生きている世界は小説のなかの物語じゃないんだ。ふたりで手を繋いだ。
「おやすみ、絵梨花。」
「おやすみなさい。」
わたしはやがてまどろむと、安息に満ちた眠りへと落ちていった。和樹の顔が一瞬まぶたの裏に浮かんだけれど、長いまつげを伏せた美羽の顔をみていたら暗いきもちはやわらかく溶けていった。




