第8話 さよならを言う場所
朝は、静かに始まった。
いつもより少し早く目が覚めた母が、台所に立つ。
味噌汁の湯気が、ゆっくり天井へ昇っていく。
父はまだ布団の中だった。
縁側には、柔らかい光が差し込んでいる。
彼は、居間に座ってその光を眺めていた。
もう、時間がないことははっきりとわかっていた。
体の感覚が、ほとんどない。
畳に座っているはずなのに、重さを感じない。
それでも、不思議と心は穏やかだった。
「起きてるの?」
母が台所から声をかける。
「うん」
その返事をした瞬間、母は一瞬だけ動きを止めた。
「……今日は、早いね」
「たまには」
そう答えながら、彼は母の背中を見ていた。
この背中に、何度も守られてきた。
転んだ日も、泣いた日も、何も言えなかった夜も。
朝食の準備が整い、父も起きてくる。
三人で食卓に座る。
ご飯をよそる音。
箸が触れ合う音。
「今日は、どうするんだ」
父が言う。
「もう一泊か」
彼は首を振った。
「今日、帰る」
母が顔を上げる。
「そう……」
その声に、少しだけ影が落ちる。
食事が終わり、片付けも済んだあと、彼は二人を縁側に呼んだ。
「少し、話していい?」
父と母は顔を見合わせ、それから黙って座った。
彼は、ゆっくりと言葉を探した。
今まで何度も頭の中で繰り返した言葉。
それでも、口に出すのは難しかった。
「急に帰ってきて、ごめん」
「どうしたの」
母の声が、少し震える。
「言っておきたいことがあって」
父は何も言わず、彼を見ていた。
「俺さ」
一度、息を吸う。
「ちゃんと幸せだった」
母の手が、膝の上で強く握られる。
「あなた達の子どもで」
言葉が、喉で詰まる。
「本当に、幸せだった」
母は、口元を押さえた。
父は、視線を逸らさなかった。
「急に、そんなこと言うな」
父が低い声で言う。
「縁起でもない」
彼は、小さく笑った。
「ごめん」
そして、続けた。
「先に行くことになったら」
「やめなさい」
母が、はっきりと言った。
「そんな話、聞きたくない」
彼は首を振った。
「聞いてほしい」
声は、穏やかだった。
「先立つ不幸を、許してください」
母の目から、涙が溢れた。
「……やめて」
「ごめんな」
父の拳が、ぎゅっと握られる。
「俺は、大丈夫だった」
「ここで育って」
「叱られて」
「守られて」
「全部、ちゃんと覚えてる」
彼の声は、少しずつ遠くなる。
「ありがとう」
その瞬間、光が差した。
縁側に落ちていた影が、完全に消える。
「……ねえ」
母が、彼の方へ手を伸ばす。
「ちょっと、待って」
指先が、何も掴まない。
父が立ち上がる。
「おい……」
けれど、そこにはもう、誰もいなかった。
庭の木が、風に揺れる。
鳥の声が、遠くで聞こえる。
日常は、何事もなかったかのように続いている。
しばらくして、母が静かに言った。
「行っちゃったね」
父は、何も言わず、空を見上げた。
数日後、警察から連絡が入る。
川下で、事故の遺体が見つかったと。
母は電話を置き、深く息を吐いた。
「……やっぱりね」
父は、ただ一言だけ言った。
「ちゃんと、別れに来たんだな」
縁側には、今日も光が差している。
そこに影が戻ることは、もうなかった。




