第7話 ゆっくり流れる時間
午後の陽射しが、畳の上に細長く伸びていた。
母は居間で、洗濯物を畳んでいる。
一枚一枚、丁寧に。
急ぐ様子はない。
彼はその向かいに座り、何もせず、その様子を眺めていた。
「そこ、邪魔?」
「いや、大丈夫」
母はそう言って、シャツを畳む手を止めなかった。
沈黙が続く。
気まずさはない。
昔から、こういう時間は多かった。
「ねえ」
母が、ふと顔を上げる。
「仕事、そんなに大変だった?」
「どうして?」
「顔がね」
母は、彼の目を見て言った。
「なんだか、遠い」
胸が、少しだけ締めつけられる。
「疲れてるだけ」
そう答えると、母は小さく頷いた。
「そう」
それ以上、深追いはしない。
けれど、視線はしばらく彼から離れなかった。
夕方、父が縁側で煙草を吸っていた。
彼は隣に座る。
「吸うか」
「いや」
煙が、ゆっくり空へ溶けていく。
「珍しいな」
父が言う。
「こうして、ゆっくり話すの」
「そうだな」
父は、しばらく黙ってから続けた。
「昔は、嫌がってたのに」
「子どもだったから」
「今は?」
「……悪くない」
父は小さく笑った。
「そうか」
それだけで、会話は終わった。
夜、食卓に三人で並ぶ。
母が作った煮物。
少し甘い味。
「美味しい」
彼が言うと、母は照れたように視線を逸らす。
「久しぶりに作っただけ」
「前から、美味しかったよ」
その言葉に、母の手が一瞬止まる。
「どうしたの」
「何が?」
「今日は、よくそんなこと言う」
彼は、答えに迷った。
「言ってなかったから」
母は、何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を伏せた。
食後、彼は風呂に入った。
湯気が立ち上り、鏡が曇る。
自分の姿を見つめる。
ちゃんと、映っている。
けれど、輪郭が曖昧だ。
風呂を出ると、母がタオルを用意していた。
「ありがとう」
自然に出た言葉。
母は微笑む。
「当たり前でしょ」
その笑顔を、彼は忘れないように見つめた。
夜、布団に入る。
彼は眠らない。
ただ、天井を見つめる。
隣の部屋から、父と母の話し声が聞こえる。
「……なんか、変じゃない?」
母の声。
「何が」
父の声。
「急に帰ってきて」
「たまには、いいだろ」
「そうだけど……」
言葉が途切れる。
彼は目を閉じた。
気づかれてはいけない。
でも、気づいてほしい。
そんな矛盾した願いが、胸に広がる。
夜が更ける。
彼は、静かに起き上がり、縁側に出た。
月が、庭を照らしている。
ここで、たくさんの時間を過ごした。
泣いて、笑って、育った。
もうすぐ、言わなければならない。
影は、ほとんど見えなくなっていた。




