第6話 実家の朝
朝の音で目を覚ました。
と言っても、彼は眠っていたわけではない。
ただ、朝が来たことを、音で知っただけだった。
台所から聞こえる包丁の音。
湯気の立つ鍋の蓋が触れ合う音。
ラジオの、少し古いニュース。
実家の朝は、昔から変わらない。
居間に行くと、父が新聞を広げていた。
眼鏡をかけ、同じ姿勢で、同じページを読んでいる。
「おはよう」
彼が声をかけると、父は新聞から目を離し、少し驚いたように顔を上げた。
「……おう。珍しいな」
それだけだった。
大げさな反応も、詮索もない。
母は台所から顔を出し、彼を見るなり言った。
「あら、いつの間に帰ってきたの」
「昨日の夜」
「連絡しなさいよ」
口調はいつも通りだったが、目は少しだけ安心したように見えた。
朝食の席に三人で座る。
味噌汁、焼き魚、ご飯。
変わらない並び。
彼は箸を取り、ゆっくり口に運ぶ。
味は、ちゃんとあった。
「仕事は?」
父が新聞を畳みながら聞く。
「落ち着いたのか」
「少しだけ」
嘘ではない。
もう、忙しくなることはない。
母は彼の顔をじっと見ていた。
「痩せた?」
「そう?」
「ちゃんと食べてる?」
その問いかけが、胸に刺さる。
生きている前提の言葉。
「大丈夫」
そう答えると、母はそれ以上何も言わなかった。
食事が終わると、彼は縁側に出た。
庭の草は、少し伸びている。
小さい頃、ここでよく遊んだ。
転んで泣いて、怒られて、また笑った。
父が後ろから出てきて、隣に座る。
「どうした」
「なんとなく」
二人で、しばらく黙って庭を眺める。
「お前さ」
父がぽつりと言う。
「無理してないか」
友人と、同じ言葉だった。
「別に」
短く答える。
父は、それ以上聞かなかった。
聞かない優しさがあることを、彼は知っている。
昼前、母が洗濯物を干すのを手伝った。
風に揺れるシャツ。
「こうやってるとさ」
母が言う。
「戻ってきたみたいだね」
「戻ってきた?」
「うん。昔みたい」
彼は何も言えなかった。
戻ってきたのではない。
帰ってきただけだ。
昼食を食べ、午後は何もせず過ごした。
テレビを見て、うたた寝して、また起きる。
時間が、驚くほどゆっくり流れていく。
夕方、母が買い物に出かけ、父は昼寝を始めた。
家の中が、静かになる。
彼は自分の部屋に入った。
机も、本棚も、そのままだった。
学生時代のノートが、まだ残っている。
それを手に取り、ページをめくる。
書いてある文字が、やけに遠く感じた。
ここで育った。
ここから出ていった。
そして、また戻ってきた。
彼は、もうわかっていた。
ここが、最後の場所だ。
夕方、母が帰ってくる音がする。
父が目を覚ます。
また、いつもの家に戻る。
その光景を、彼は一つ一つ、心に刻み込んだ。
影は、まだあった。
けれど、輪郭は確実に薄くなっている。
時間は、残り少ない。




