第3話 ありがとうを伝える日
夜は、思っていたよりも静かだった。
街の灯りは相変わらず眩しく、遠くから車の音も聞こえる。
それでも、二人の周囲だけ時間が少し遅く流れているような感覚があった。
ベンチに並んで座り、彼女は黙って夜空を見上げている。
彼はその横顔を、できるだけ記憶に刻み込もうとしていた。
「ねえ」
彼女が、先に口を開いた。
「今日のあなた、ちょっと変」
彼は何も言わず、続きを待つ。
「優しすぎるっていうか……ちゃんと、ここにいる感じがする」
言葉を選びながら、彼女は続けた。
「いつもはさ、忙しいとか、疲れてるとか言って、どこか遠かったのに」
彼は小さく息を吐いた。
「そうだったかもな」
「うん。でも今日は違う」
彼女は彼の方を見て、はっきりと言った。
「今日のあなたは、ちゃんと私を見てる」
胸の奥が、きしんだ。
それは、今だからこそできることだった。
失ってから、初めてわかることだった。
「なあ」
彼は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「今までさ……」
言いかけて、止まる。
この言葉を口にしたら、もう戻れない気がした。
彼女は何も言わず、待っていた。
急かさない。
その優しさが、何度も彼を救ってきた。
「今まで、ありがとう」
静かな声だった。
特別な言い方でもなく、ただの一言。
けれど、彼女の表情が、少しだけ固まる。
「……急にどうしたの?」
笑おうとして、うまくいかない顔。
「なんで、そんな言い方するの」
彼は、彼女から視線を外した。
正面から見たら、きっと耐えられなかった。
「言ってなかったから」
「そんなの、今じゃなくてもいいでしょ」
彼女の声に、わずかに震えが混じる。
「これからも、いくらでも言えばいいじゃん」
その言葉が、胸に深く刺さった。
これから。
その言葉を、彼はもう使えない。
彼は、そっと立ち上がった。
「少し、歩こうか」
理由もなく、そう言った。
動いていないと、崩れてしまいそうだった。
二人は川沿いを歩いた。
水面に映る光が、揺れている。
彼は、歩くたびに体が軽くなっていくのを感じていた。
足が地面を踏む感覚が、少しずつ遠くなる。
「ねえ」
彼女が、彼の腕を掴んだ。
「待って」
立ち止まる。
「……本当に、何かあるんでしょ」
真剣な目だった。
誤魔化しが効かない。
彼は、ゆっくりと彼女の方を向いた。
「もしさ」
「もし?」
「俺が、いなくなったとしても」
言葉を選びながら、続ける。
「ちゃんと、生きていってほしい」
彼女は、しばらく何も言わなかった。
それから、はっきりと首を振る。
「やめて」
「冗談でも、そういうこと言わないで」
彼女の目が、潤む。
「怖いから」
彼は、彼女の手を取った。
温かい。
確かに、そこにいる。
「大丈夫」
それしか言えなかった。
ホテルの前に戻ったとき、彼はもう限界を感じていた。
影が、ほとんど見えない。
街灯の光を通り抜ける感覚。
彼女は、彼を見上げる。
「……明日、いつ来る?」
彼は、微笑んだ。
「朝、顔見に行くよ」
嘘ではなかった。
ただ、その「朝」が、彼女の思う形とは限らなかっただけだ。
「約束だからね」
彼女はそう言って、部屋へ戻っていった。
ドアが閉まる音を聞きながら、彼はその場に立ち尽くした。
ありがとう。
一緒にいてくれて。
信じてくれて。
言葉は、もう声にならなかった。
その場に、彼の姿は残っていなかった。
翌朝、彼女は目を覚ました。
不思議と、胸が締めつけられるような感覚があった。
スマートフォンを手に取り、彼にメッセージを送る。
返事は、来ない。
窓の外は、よく晴れていた。
理由のわからない涙が、一粒、枕に落ちた。




