第1話 彼女の前に現れた理由
彼が最初に確認したのは、自分の足元だった。
夜の街灯に照らされた歩道に、はっきりと影が落ちている。
靴の先が動けば、影も遅れずに動く。
風が吹けば、コートの裾が揺れ、その動きに違和感はない。
生きている。
そう言われれば、そう見えるだろう。
けれど、心臓の音だけが聞こえなかった。
胸に手を当てても、鼓動は感じられない。
それでも体は温かく、指先には感覚がある。
事故の記憶は、曖昧だった。
雨、ブレーキ、光。
次に意識が戻ったとき、彼は道路脇に立っていた。
壊れた車と、騒ぐ人たちを遠くから眺めながら。
自分が死んだのだと理解するまで、時間はかからなかった。
なぜか、恐怖も混乱もなかった。
ただ一つ、胸の奥に残る引っかかりだけが消えなかった。
彼女に、何も伝えていない。
海外出張の最中で、連絡も最低限だった。
「無事着いた」「忙しい」
それだけのやり取り。
ありがとう、という言葉を、最後にいつ言ったのか思い出せなかった。
だから、ここに来た。
異国の街にある、少し古いホテル。
ロビーのガラス越しに、彼女の姿が見えた瞬間、足が止まった。
少しやつれた横顔。
仕事用の服。
スマートフォンを見つめる真剣な目。
何も変わっていない。
それが、なぜか胸を締めつけた。
ドアを開けると、彼女が顔を上げた。
視線が合い、次の瞬間、彼女の動きが止まる。
「……え?」
短い声。
信じられないものを見る目。
彼は一歩近づき、なるべく自然に笑った。
「急に休み取れた」
声は、ちゃんと出た。
自分でも驚くほど、いつもの声だった。
彼女は立ち上がり、数歩近づいて、また止まる。
「なんで……ここに?」
問い詰めるような口調ではなかった。
困惑と安堵が混じった、不思議な声音。
彼は少し考えてから、正直な理由だけを選んだ。
「会いたくなったから」
それ以上の説明はしなかった。
できなかった、のかもしれない。
彼女はしばらく黙って彼を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「……びっくりした。でも」
少し間を置いて、微笑む。
「来てくれて、嬉しい」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、静かにほどけた。
翌日、二人は街を歩いた。
観光地らしい場所も、そうでない場所も、特別な意味はなかった。
ただ、並んで歩くことが、すべてだった。
彼女は仕事の愚痴を話し、彼は相槌を打つ。
昔と同じ、何でもない会話。
「ちゃんと食べてる?」
「そっちはどう?」
その一つ一つが、胸に残った。
彼は、時間を意識していた。
理由はわからない。
けれど、何かが終わりに近づいている感覚だけは、確かだった。
夕方、川沿いのベンチに並んで座った。
オレンジ色の空を見上げながら、彼女がぽつりと言う。
「ねえ、なんか今日、変な感じしない?」
「どうして?」
「うーん……うまく言えないけど」
彼女は笑ってごまかした。
「夢みたいっていうか」
彼はその言葉に、何も返せなかった。
夜、ホテルの前で立ち止まる。
彼女は名残惜しそうに、彼を見た。
「明日も一緒にいられる?」
彼は一瞬だけ、目を伏せた。
「……うん」
嘘ではなかった。
ただ、その「明日」が、どこまで続くのかを知らなかっただけだ。
部屋に戻る彼女を見送ったあと、彼は一人、街灯の下に立った。
影は、まだそこにあった。
けれど、輪郭が少しだけ、薄くなっている気がした。




