リンボクとポロロッカ (Day7)
朝食が終わるころ、霧はほんのわずかに薄くなり始めていた。
足元の板の隙間から、うっすらと水面の光が見える。村の子どもたちが、水音を立てて走り回る声が、どこかから聞こえていた。
「もうすぐ出られるよ。今日は完璧に準備してあるからね」
リリィがタグボートの桟橋で、片手に油布を持ちながら声をかけてきた。エンジンのチェック中らしく、袖まくりした腕が少し煤けている。
ケイはその横で、舟に積み込む荷物のバランスを見ていた。予備の測量機器、ソリ、記録装置、ルーペ、タオル、そして…かんじき。
「このロープを持ってつま先を引っ張り上げるんだね。先端のわっかを腕に通しておくってこと?」
「そういう人もいるわね。でもいざといったときに放せた方が転びにくいから、あまりお勧めはしないわよ」
アリアはまだ完全に頭が起きていないようだった。舟の縁に腰掛けたまま、排熱でようやく乾いた髪を手櫛でとかしている。目の下には、微かに残るクマ。だが、どこか穏やかな表情だった。
昨晩のあれこれも、霧と一緒にどこかへ流れていってくれたら――
そんな期待と不安が、胸の奥にじっと燻っている。
「お待たせ〜」
ケイがソリの荷台をぐいっと押してきた。軽々と、かつ器用にバランスを取りながら。
「今日は前より上陸しやすいポイントなんだって。かんじきを使いつつ、倒木の上を感じながら歩けって」
「……へえ。ほんとに、昨日のことがなかったみたいね」
アリアがぽつりと呟いたその横で、リリィがいたずらっぽく片目をつぶる。
「アリア、何考えてるの?」
「ん、べつに。昨日からのギャップがすごいなってだけ」
「そっか。二人とも元気そうでよかった」
その言い方が妙に意味深で、アリアは返事に詰まった。
いざ出航。
タグボートのエンジンが静かに唸りを上げる。濃霧の中、かすかに陽が透け始め、湿った世界がすこしずつ輪郭を取り戻していく。
「リリィさん?今回見に行くのって、レピドデンドロンだよね」
「…断言はできないけど、多分そうよ。この辺りで一番大きいやつ」
「いや~楽しみだなあ。上陸できるくらいしっかりしてるってことでしょ、土質が」
「そうらしいわ。アプローチしやすいから船を干したりするのに使われていて、そこにものすごくでかいリンボクが茂ってるからあれじゃないのか、っていうのよ」
「泥炭がそんなに溜まってないってこと?」
「そうね。ただ、結構下流で、遠いんだけどね!!!あと・・・これ重要。まあスコールのあとだから大丈夫だとは思うんだけど、夜7時半までには絶対に離脱すること」
「なんで時間がきまってるのさ」
「来るのよ、ポロロッカが。大潮は3日後。そろそろ起きかねないわ」
「ポロロッカ!」
ケイの声が上ずる。
「アマゾンで見た。ヤバかった。ヤシの木が、ズバババババババンってなぎ倒されて……」
息継ぎも忘れて、珍しく語気が荒い。
「ボート釣りしてたら、メガホンで『流心に戻れ!』って怒鳴られて、間一髪。あと数分で桟橋ごと吹き飛んでた…川岸のヤシがなぎ倒されるわ、終わった後にどんどん木片や建材が流れてくるわ…いい思い出がまるでない。というか、わりと死にかけた。」
「…そんな経験、初めて聞いた」
アリアが目を細める。
ケイは「言ってなかったっけ?」と首をかしげるが、顔色はまだやや青い。
「めっちゃやばい。ありゃ、川の津波だね。潮が満ちてくるときに、河口がすぼまってるとそこで上がってきた海水が”圧縮”されて、それが浅瀬に乗り上げたり川が曲がってたりするところにぶつかると、もうものすごい波が…語源が「すべてを破壊する」って説も納得だよ」
それを聞いて、アリアはハッと思い出した。
「あ、あれか!白亜紀中期のエジプトで経験したやつ!Tidal bore ね。」
「そうそう。それ」
「ヤバいわよ、あれ。終わったあと、岸にスピノサウルスが五、六頭打ち上げられてたわ。」
「スピノの扱い…」
ケイがぽつりと呟いた。
リリィは肩をすくめる。
「水が引いたあとの掃除が面倒なのよ、全部の舟を干して、家の下を掘り返して、子どもが流されたら大騒ぎ」
「……それはそれで、すごい。」
アリアが乾いた笑いを漏らす。
という話をしていて気づいた。
レピドデンドロン。昨日見たレピドフロイオスの倍ほどにもなる、もっとも巨大なリンボク類。
そして、最も巨大なリンボク類でありながら、一度結実したら枯れてしまう。
その極端に急激な成長には、やや肥沃な砕屑物が定期的に供給され、かつ泥炭質で湛水している必要がある。つまり、数十年かけて成長し、その間一回も折れることがないくらいには環境が安定しながら、それでいて洪水被害を受けなければならない環境に生えていた。そして、レピドデンドロンはその知名度の高さからわかるように、さして珍しい種類ではなかったはず。
それって…どんな規模の湿地だ。
つまり…河岸にできた自然堤防を越える洪水が定期的かつ頻回に起きて肥料を供給し、それでいて高さ30~50mの一回結実性植物が生育できる程度には大惨事を起こさなかった…そういうことだ。
つまり、もしかして…
リンクしている。いくらポロロッカといえど、毎度レピドデンドロンを押し流すとは思えない。
毎月おこる河川逆流、それは通常なら不可能なレベルの肥料、特にリンを供給するはずだ。
つまり、潮汐波によって沿岸域のリンボク類は成長が促進している可能性は十分考えやすい。
化石証拠も矛盾しない。
石炭の主要な堆積要因が潮汐波であったとする意見はあまり旗色が良くないとはいえ、多くの石炭産地に潮汐波の痕跡がある。つまり…欠かせない要素だ。
「ポロロッカ、見たい」
「ポロロッカ、撮るわ」
アリアと被ってしまって、気まずく顔を見合わせる。




