リセット/ソウルフード (Day7)
1.
涼しく、でもじっとりと水を含んだ空気が、肌にまとわりついてくる。
この熱帯雨林では、毎朝のように濃霧が立ち込める。
そう――大量の降雨と大量の蒸散、そして気温の急変――
これらを引き起こしているのは、石炭紀という時代。
酸素濃度が高く二酸化炭素の少ない大気。
マンモスもびっくりなほどの氷河期。
そして、光合成を阻む大気のなかで進化した、異常な植物たち。
そのすべてだ。
水面は見えず、空も見えず、ただただ、真っ白。
世界はぼうっと、幻想的に佇んでいる。
水に空気が含まれてるみたい。
小屋の板壁はじっとりと濡れて、ドアノブをひねれば、ぎぃという音とともに、手に雫が付いた。
ケイは…まだすやすやと寝息を立てている。
その無防備な寝顔を直視したとたん、昨夜のことがフラッシュバックした。
そして、思わず目を背けてしまったのだった。
忘れよう。
着ていた服は泥炭の染みと匍匐前進でできた傷で、もう使い物にならなかった。
洗っても、ブラックウォーターが全体の色をさらに暗くしただけだった。
私は予備の服を取り出そうと、防水パックに手を入れた。けれど、その服もすぐに濡れてしまうと気づき、我に返る。
判断力が落ちている。旅慣れていたはずなのに、今の私はどうかしていた。
ともかく、髪を乾かさなければ。
長くウェーブのかかった私の髪は、濡らして放置すると爆発する。
爆発しても破綻しないヘアスタイル、というのもあったけれど――今回はそうしなかった。
この旅は、二度目だったから。インフラが整っていて、安心していたから。
霧に包まれた艀は、赤道直下とは思えないほど涼しくて、静かで、幻想的だった。
水墨画――ケイが以前教えてくれた、墨だけで描く世界。
それを知って以来、霧を見るたび、私はシャッターを切りたくなるようになった。
なぜこんなに惹かれるのか、自分でもよくわからない。
水面には魚が跳ねている。
朝まずめの時間だ。たぶん、パレオニスクムの仲間だろう。
艀の排熱器は轟々と音を立てており、すでに女たちが集まって髪を乾かしていた。
その中に、リリィの姿があった。
彼女は、髪の毛が少し乱れ、目の下にクマをつくっていた。
声をかけようとした瞬間、リリィの方から先に、そっと頭を下げてきた。
「…昨日は本当にごめん。私がガイドとして至らなかったから…」
「私もごめん、無茶な上陸作戦をその場で決めて、伝えてなかった」
「そう、後でほうぼうから叱られちゃって。“上陸するかもしれないのにコレも持っていかなかったのか”って。防げたはずの事故だったって。昨晩はそれから、上陸しても安全なポイントを聞いて回ってたの。」
私は髪を手ぐしで払いながら、訊ねた。
「その……『コレ』って?」
「あら、初めて見るかしら。あの巨大な靴みたいな、スキーみたいな……」
「ソリ?」
「ソリもそうよ。でもなんていうんでしょうね、あれ。…雪靴?」
そのときだった。
「日本でいうところの、かんじきだね。田下駄といったりもしたもの。接地面積を大きくすることで負荷を分散し、沼地でも沈まないようにしたもの。」
声の方を振り向けば、ケイがいた。
コシの強い黒髪は、見事なまでに跳ね上がっていて、寝ぐせも凛々しい。
そのまま、巨大な“靴”を手に取って、爆発するように喋り始めた。
「これなら沈まずに見に行けるってことだよね、湿地林の底。見たい!そういうことでしょ?いやー、ありがたい。これなら本当に奥まで入っていける、はず。え、これロープまでついてるんだ。博物館でしか見たことなくて、一度履いてみたかったんだよね、こういうの!素材は何?あー、リギノプテリス?おおー、いいねいいね、こっちは葉柄を使うんだ。へぇ~!」
私は思わず、心の底からほっとした。
…何を考えていたんだ、私は。
あのときだって、ケイはただ――
石炭林に一番近づけたのが嬉しかっただけなんだ。
死にたかったわけじゃない。終わりを求めてたんじゃない。
考えすぎていたのは、私の方だった。
バグっていたのは、私だった。
私は、ひとつ伸びをした。
「今日は本番だからね。だから…その寝癖、まず直してね。」
「はいな~!」
ケイが無邪気に笑う。
そのとき、リリィがちらりとケイを見やり、首をかしげた。
そして、小さく耳打ちしてきた。
「……流石にあれ、おかしくない?」
私が返事をしようとしたとき、リリィは少しだけ口元を引き結び、視線をそらした。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
アリアさんの目が合った瞬間、なぜか、どぎまぎしてしまった。
いや、別に――おかしなことはしていないはずなのに。
私はただ、昨日の不始末を謝りたくて、朝から艀の排熱口に来ていただけで。
けれど、アリアさんの方が、一瞬だけ、すごく気まずそうな顔をしたのだ。
それで、察してしまった。
ああ、そういうことなんだ、と。
ケイもいた。
跳ねた寝癖のまま、濡れた足音をぺたぺた鳴らしながらやってきて、スノーシュー・・・?を手に取って、見たこともないテンションでしゃべり出した。
「これロープまでついてるんだ!博物館でしか見たことなくて、一度履いてみたかったんだよね、こういうの!素材は何?リギノプテリス?へぇ~、こっちは葉柄を使うんだ。なるほどね、こっちは強度が…」
……おかしい。明らかに、いつもよりハイだった。
「はいな~!」いやそういうこと言うキャラじゃないでしょ。
寝癖もひどいし、泥炭まみれの靴をまた履いてきてるし
――それなのに、昨日泥に沈みかけた人とは思えないくらい、目が爛々としていた。
そして、アリアさん。
隣で笑ってはいるけれど…おとなしい。
なんていうか、肩の力が抜けてる感じ。すごく、落ち着いてて――逆に、少しだけ遠い。
それに、目にクマなんて作る人だったっけ?
――何か、あったんじゃないか?
そんな気がして、私は思わず耳打ちしてしまった。
「……流石にあれ、おかしくない?」
アリアさんは、ちょっとだけ口元を引き結んだだけで、何も言わなかった。
本当は、もっといろいろ聞きたかった。
でも、たぶん答えはもう出た気がした。
それ以上突っ込んだら――なんだか、踏み込んではいけない、大人の世界だから。
忘れがちだけど、あのふたり、私よりずっと年上なんだ。
3.
さっきから、香ばしいにおいが立ち込めている。
朝食の”あら汁”だ。
「朝は、あれなのよ。村の人たちもみんなで食べて、出発っていうのが決まり」
「昨日はごめん、ちょっと余裕がなくて」
「いいのよ、旅人さんなんだから。楽しんで、無事に帰ってくれば」
「おう聞いたけどよ、ハマって2人で脱出したんだって?」
振り返ると、おとといの夜、あの殺人的な大きさの煮つけを持ってきた、筋骨隆々とした男がいた。
それにしても、ものすごい筋肉だ。
「…そうです」
「すっげーな、おめーら。4人以下で生きて帰ってきたやつ、初めて見たかもしれねえ」
「・・・次回からは気を付けます」
「おう、人を食う生き物はいねえが、ここじゃ自然が人を食うからな」
そう言いながら、彼はどかどかと団子をかきこんで、混じっていた骨をぷいと捨てるのだった。
「で…あれはなんだ?」
骨入れをあさっている小さな人影…。ああ、もうごめんなさい。
「…ええ、骨マニアなもので」
「骨、ねえ。何が面白いんだか。」
「ほら、ケイ!自分のぶんの骨に限りなさい」
アリアは呆れたように呼び戻すしかなかった。
さて、「あら汁」とここで呼ばれている料理は、むしろ団子汁と言った方が近いものだった。
魚のあらは出汁をとるために使われ、汁に浮いたでんぷん質の団子を食べるのだ。
味が良くしみていて、実にうまい。隠し味として、指の爪くらいの小さなイセエビのような節足動物が、沢山入れられている。
リリィは、もう三杯目だった。
「……やっぱこれ、懐かしいなぁ」
そう呟いて、湯気の向こうで目を細める。
「コンゲラードにもあるんだっけ」
「そうね。私、川育ちだから。寒いぶん、これが暖かくて、美味しくて」
「ソウルフードってやつ?」
「そう、それ。地球や火星にもあるの?」
「うーん・・・あるにはあるんじゃないかな。私は…何だろう、ジャガイモ味の人工チョコレート?」
「何それ」
「あのクソまずさを思い出すとなんかこう、生きてるって感じがするんだよね。」
「あー、たしかに、ソウルフードって、味とかじゃないのかもね・・・私は純粋に好きなんだけど」
「坊やのぶん、骨スペシャルな!」
そう言って、村の女のひとりが、底に溜まった骨だらけの汁をケイに渡す。
ケイの目が、まるで宝石を見つけた子供のように輝いた。
「すごい、ピゴケファロモルファだ! この旅じゃ、まだ見れてなかったんだよね!」
「ぴ……ぴご……なんだって?」
「ピゴケファロモルファ! 底生のアミみたいなやつ。フクロエビ類だよ、中生代にもいるでしょ?」
「……いたっけ? いた…かな? ごめん、覚えてない」
ケイにとって、まさしく宝石箱だった。ケイは骨を器用にしゃぶると、傷つけないように並べていく。そして、どこからか出てきた小瓶に収めると、満足そうにしていた。
そして、最後に残った器の中をじっと見つめてつぶやいた。
「なんかサウロプレウラが丸ごと煮られてる……これ、どうやって食べるんだろ」
「丸のままだ」
と、あの筋骨隆々な男が答える。例によって豪快に団子をかっ込んでいた。
「……骨ごと?」
「そうだ。精がつくぞ」
ケイはじっと彼を見て、やや真顔で言った。
「ほう。精、ねぇ…アリア?これ、標本にするのと、食べるのと、どっち優先?」
アリアは吹き出しそうになるのを堪えながら、器を抱え直した。
リリィがいたずらっぽく覗き込んでくる。
「アリア?何考えてるの」
「いや、食べる前に標本にするか聞いてくるの、やっぱ面白いなって」
少し間を開けて、リリィの反応が返ってきた。
「そっち?」
「いやー尾椎がものすっごく変わってるよ、凄いなあ、尻尾食べちゃったけどやっぱり標本に…」
「食べ始めたなら最後まで食べようよ」
「はい…」
――どうやら、今日も、平常運転のようだった。




