仮剥製のジレンマー恋じゃ、ないー (Day6)
涼しく、でもじっとりと水を含んだ空気。
壁にぶつかる風の音が、時おり小屋の板を軋ませる。
床板はわずかに傾いていて、寝袋ごと滑ってしまいそうになるのを、アリアは足でそっと踏ん張った。
そして……目が冴えてしまった。
隣にはケイがいる。
その呼吸音は体に合わせて本当に小さくて、少しだけ不安になる。
まさか、息をしてないんじゃないか――
そんな馬鹿な想像がよぎるたび、耳を澄ます。聞こえる。ちゃんと、生きてる。
さっきは、危なかった。
泥炭に沈みながら笑っていた彼女は、冗談ではなく、本気で「終わり」を受け入れかけていた。
まるで死ぬことが悪い選択じゃないかのように、静かに、美しいものを見る目で笑って。
「化石になれそうだよ」
その目に宿っていたのは、恐怖じゃない。憧れだった。
それが、どうしようもなく怖かった。
私はいろいろ考えた。でも、ケイという存在に効きそうなのは、ひとつしか思いつかなかった。
そう……怖がらせること。
それだけが、彼女を現実に引き戻す手段だった。
“私、怖い?”
“うん”――
そのひとことで、ようやく彼女は生の側に戻ってきた。
私の腕の中で、ぬちゃぬちゃになった身体は小さく、あたたかかった。
あのとき、無抵抗だった。
つい、冗談のつもりで言ってしまった。「二人で暮らす?」って。
ケイは「悪くないかも」って、あっさり言った。
いつから気になってたんだっけ。
大学生のころ……たぶん、そうだ。
あのときは彼を「飛び級してきた小学生」だと思って、声をかけた。孤立しているように見えて、心配で。
でも、なにもかも違っていた。
「彼」じゃなかったし、小学生でもなかった。飛び級は合っていたけれど、たった三つだけ。
なのにその存在が、まるで現実感がなかった。
一緒にお風呂に入ったときも、どうしても目が向いてしまってた。
孤独でもなかった。
ケイはいつも満ち足りていた。寂しさなんてなかった。
ケイにとって、友人は知識で、一番の親友は好奇心だった。
周囲の物事、すべてを観測対象として扱っていた。浮いてはいたけど、周囲には人がいた。そして彼女は、知識を得ることに関してだけは、本当に楽しそうだった。
でもその中で、誰の顔も名前も、ひとりも覚えていなかった。
それでいて、何をやっている、どんな人かには敏感だった。
よく観察はしていた。まるで、ほかの観察対象と同列かのように。
……孤独でつながりを求めていたのは、むしろ私の方だった。
そして、私は専門分野で完全に敗北した。
目を疑って、やっぱり見てしまった。
この小さな頭のどこにこんなに情報が詰まっているのだろう、この変な発想はいったいどこから出てくるんだろう、と目が離せなくなってしまった。
もっと近しくなろうと思った。一緒に話して、何度も語らって、新しい知識や視点をもらった。
名前は覚えてもらえなかったけれど、顔は覚えてもらえた。特別な気がした。
そう…ある種、私は崇拝していた。どこまでも異質で、異様で、神聖な生き物として。
心配、これだけは間違いなかった。
あんなに小さな体で、あちこちに冒険して、ワニに食べられかけたり、ラプトルに狩られかけたり。
今日だって泥炭に沈んだ。
さらに、自らの死すらも「観測対象」にしそうで……怖かった。
自己肯定感が、歪だった。
どこまでも孤高の存在なのに、そう呼ばれることを彼女は強く拒んだ。
私は思ってしまった――守らなきゃ、と。
見た目も、どうしても気になってしまった。
エルザさんやナタリーさんは露天風呂で「ごめん、無理」と言っていた。
でも、一番ダメージを負っていたのは、私自身だった。
どうしても、美少年に見えてしまった。
そうじゃないと思えば思うほど、そう見えてしまった。
だから、ずっと見ていたいと思った。一番近くで。
恋愛対象にはならない。そう思っていた。
白亜紀への旅でだって、「彼氏」と指摘されて、私は否定した。
この旅で、はじめて私は、名前を覚えてもらった。
そう…特別な人になったような気がした。
でも今回、リリィのことは一発で覚えていた。
悔しかった。嫉妬していると気づいて、自分に悔しかった。
「ならない」「そうじゃない」と思えば思うほど、「彼」と恋愛している私を想像してしまった。
夢にまで出てくるようになった。
膝枕をしてしまった夜。あのとき傷つけてしまった。
でもケイは怒らなかった。むしろ、全力でかばってくれた。
……どこまでも我が強いのに、押しに弱い。
踏みとどまってるのは、私がそうしないからだ。
だったら――
眠れなかった。存在を確かめるために、もう一度抱き上げたい気がした。
小さな寝袋の中で、ケイは仰向けのまま、微動だにせず眠っている。
まるで、仮剥製の標本みたい。芯を入れれば、どんな形にもなりそうで。
もし、寝袋のファスナーを開けたら……?
「……いいy……」
ぞっとした。
自分の心の奥底にあった衝動が、思わぬ形で言葉になって跳ね返ってきた気がした。
寝言だとわかっていても、それはまるで答え合わせのようだった。
一瞬、自分が何をしようとしていたのかはっと頭に上って、赤面した。
寝言だ。
さすがに、エスパーなわけがない。
肯定の意味でもない、ただの言葉の欠片…たぶん。
そして――私は気づいてしまった。
私が求めていたのは、これじゃない。
……そもそもこれって恋?
最後のほうだけは恋っぽいけど、原因は矛盾と観察本能。
これって……ケイがいつも変な生き物を観察してるのと、同じ。
変だから気になる。それだけ。
そして、ケイもきっと、「最近のアリア、変だよね」と観察しているに違いない。
人に興味がないくせに、人の感情を観察する、あの子らしく。
もし、この気持ちを明かしたら?
間違いない。もう目を爛々とさせながら
「その気持ち、どこから来た?とても興味深いね」
恥ずかしさに顔を赤くしたら、
「やっぱり気になる、教えてよ。ボクがかかわることでしょ?」
…私は丸裸にされるばかりか、断れないままバラバラにされてしまう。
まるで、解剖台に乗せられたみたいに。
どうでもいい、いや、触れられたくないところにメスを切り込んでいく。
そう、ケイが妙に興味を持つこと…
それは、他人の感情の本質はなにか、共通項は何か。異質であればあるほど興味を抱く。
でも、そこに切り込んでいい相手がいないこともわかってる。
だからケイは、自らの感情を、そうやって全てを時間をかけて分解して…何かを剖出してるんだ。
ずっとそうやってるんだ。
そう…もし自らの感情の分析に飽きたら…
「知りたい」
それは、怖いことだ。
……あのときの笑顔が、ずっと忘れられない。
私はあのとき、てっきり彼女が生きたがっていないのだと思った。
でも――今なら少しだけ、わかる気がする。
……あの子は、何かを知りたかったんだ。
何かはさっぱりわからない。けれど、もしかして、私のこと……だったのかもしれない。
いや、まさか。……でも、ありえなくはない。
……いや、違う。違うと思いたい。
……でも。
そう…一緒になったら、それも受け入れなきゃいけなくなる。
そうなったら…この気持ちが、恋ですらなかったと暴かれてしまう。
一番、知られたくない相手に。
狙ってたのは、私じゃなかったのかもしれない。
この関係が、まだ続いているのは、ケイが人付き合いが苦手だから。
踏みとどまる範囲だと、私に気を遣ってくれているから。
そう――今の距離が、一番いいんだ。
この距離感のままなら、きっと壊れない。
過去の世界への冒険をする私、過去の世界を紐解くケイ。
いまだって、最高の共犯者。
私の動画には、ケイが必要。ケイの冒険には、私が必要。
もし、それを踏み越えて互いの領域に攻め込んだら…
私は、ごくりとつばを飲み込んだ。
何も変わらない朝が来ると信じて――少しだけ、仮眠を取ることにした。




