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第三話 旅のはじまり

夜が明けたら、出発だ。

深夜3時。

めずらしく、新市街に来ている。

新市街というのは空が見える、というのが売りの高級住宅街だが、正直いいところがあるようには思われない。

なぜわざわざ来たのかといえば、夜景をみたいだとか、空を見たいというわけではない。

――ただ、出発直前にそわついて目が冴えてしまい、ちょっとふらつきたくなったのだ。


空があるところ、どこにいたって見えるものがある。

地平線に突き刺さるような、一本の線。見上げても、頂上は霞の向こう。

衝突防止灯が、きらきらと点滅している。

望遠鏡で拡大すると、無数のぷつぷつが、ゆっくり、ゆっくりと空へ昇っていく。


――軌道エレベーターだ。

あれをみるたび、マヨイアイオイクラゲみたいだと思う。


荷物は二か月前、すでに出発していた。

あのくらげ――いや、軌道エレベーターの貨物便に乗せられ、空へとゆっくり上がっていったはずだ。


なのに、私はまだ地上にいる。


 サンバースト・コーヒーの店内は、混んでもおらず、空いてもいなかった。

 隣の席では、学生風の男が“おまかせ生成”のマフィンが目当てだったらしく、カウンター前で項垂れている。聞くとはなしに、耳に入る。「また品切れだよ。なんで俺の時だけ……」


私の手元には、ペーパーカップに注がれた、ごく普通の“ブラク”。

コーヒーを模して合成された飲料で、微妙に何かが違う、苦く渋い味。

値段はコーヒーの1/3くらいで、眠気覚ましの効果は1/5くらい。

紙カップの断熱材のざらつきも含めて、どこにも文句はない。

どちらかといえば、ほっとする。

 少なくとも、ここには誰も「石炭紀に行くんですか?」なんて尋ねてこない。

 だから私は、もう少しだけ、ここにいてもいい気がした。


 紙カップのふちに口をつけ、冷めかけた”ブラク”をすする。

この前飲んだ、”コーヒー”とはだいぶ違う。


店の外はまだ真っ暗。街路灯の下には、明らかに“制服の人”がいた。

ふと振り向くと、さっきマフィンに呪われていた学生風の男は、ジャケットを羽織って擬態していた。

――こんな夜中に通っていたら、しばしば補導されるのだろう。

ただ――私にはまねできそうにない生存戦略だ。


 白っぽいジャンパーに、腕章。市警だろう。

 大して忙しそうでもないくせに、そういうときだけは仕事熱心だ。


 ひとりで座っている私にちらちらと視線を寄越してくる。

 ……あれは間違いなく、こっちを見ている。


 しばらくして、予想通りに扉が開いた。

 制服の男が入ってきて、あたりを見回す。

 「こんばんは、ぼく。ひとり?」

「はい。二十四ですが、なにか」

――まただ。ついでにいえば、性別も違うぞ。

運転免許証を見せると、男は一瞬だけ絶句した。それから、ごまかすように愛想笑いを浮かべた。

 「いやぁ、若く見えるね。未成年補導の報告が入ってね、つい」

 私は会釈で済ませた。”ブラク”はもうぬるいし、口の中が渋い。

 ――実際、こういうのは慣れっこだ。運転しているとしょっちゅう止められるし、いいかげん顔認証で「この人を見たら子供モドキです」と周知してほしいのだが。

まあ――何よりこの時間に、手荷物一つで、ぽつんと街にいるのがいけないのだろう。

市警は隣に座ってブラクを一杯頼み、話しかけてきた。

「俺、気づいたら、すっかりおっさんになっちゃってさあ。気付いたらもうアラサーだよ。夜歩きする側が、いつの間にか取り締まる側になっててさ。…で、深夜まで残業さ」

…なれなれしい。

でも、たぶんこれは私のことを心配して言ってるわけじゃない。

ただ、誰かに言いたかっただけなのだ。

——ナンパとか、そういうのでもないと思う。免許証に性別が書いてあったのもまた、昔の話だ。

私は目を合わせず、紙カップに目を落とす。冷めかけた“ブラク”を、また一口だけ飲んだ。

市警はそれを合図ととったのか、軽く手を上げて出ていった。

彼が出ていくと、マフィンに呪われ君はほっと息をついていた。


 誰にも話しかけられたくない夜は、決まってこんなふうに、誰かが話しかけてくる。



夜が、少しずつあけていく。


まだ青とも黒ともつかない空の下で、私はゆっくりと立ち上がった。

背中のリュックが、わずかに重みを伝える。

12個あるポケットのうち、すぐ右腰のそれに指を差し入れて、中身を確かめる。


汎用情報端末──入っている。

そのすぐ横に、いつも持ち歩いている高強度型の小型カメラ、HP-5。

カメラの角が、指先に冷たく当たる。


ちゃんと、ある。


宇宙旅行があたりまえになった時代とはいえ、

いまだに、宇宙へ行くには大きな手間と時間がかかる。

まず宇宙空港まで行き、そこから宇宙旅客機に搭乗。さらに宇宙ステーションで乗り換える。

お金がなければ、あの「クラゲ」──軌道エレベーター──に一か月ほど揺られ、そのあと貨物便でステーションへ。


宇宙に行けるようになったからといって、地球が狭くなったわけではない。

むしろ、宇宙に行くということは、地球の広さを実感させられる行為だった。


宇宙空港までですら、たいていは飛行機の乗り継ぎを含む長距離移動を覚悟しなければならない。

でも、私は恵まれていた。


騒音と引き換えに、ユシャン(Yutian)宇宙空港はすぐそこにある。

神保町からなら、急げば一時間もかからない。

都市の片隅に、古い空港と新しい空港が、地層のように積み重なっている。


旅の始まりはいつも、あそこだった──ただし、地上便の話だ。

国内便、近距離便、貨物便。地球のあちこちへ飛び立つ場所。

でも、宇宙線ターミナルには、まだ行ったことがなかった。

それが地上便とはまったく違う“異世界”だとは聞いていても――

地球に縛られてきた私にとって、それは他人の話だった。


せっかく新市街まで出てきてしまったのに、待ち合わせ場所は旧市街のビンソン駅だ。

無軌道トランジットに乗る。

車両は地下からスロープを登り、すぐに灰色のコンクリートの隙間へと滑り込んでいった。

車窓の外は、昼夜の区別がつかない影の層。どこまでも続く、封じられた景色。

十五分ほどで、ビンソン駅に到着する。


ここで、モノレールに乗り継ぎだ。

モノレールのホームで、アリアと落ち合う。

案の定、彼女は目立っていた。

人ごみの中でひときわ背が高く、姿勢がいい。

目立とうとしているわけではないのに、通行人が自然と振り返る。

彼女は気づかぬふりをしていたが、声をかけられると少しだけ目を細めた。

慣れた手つきでペンを取り、なめらかな署名をひとつ。

サインを求めた青年が照れたように礼を言い、足早に去っていく。

その背中を見送るでもなく、彼女はようやく私に気づいた。


──彼女にとって、こういう瞬間はもう、日常なのだろう。

それは、私には一生、縁のない世界だ。いや、縁があってほしくない世界だ。

私はリュックを背負い直しながら、ひとり、小さく息を吐いた。


「おっ、来た来た。早いじゃん」

 そう言って、彼女は手をひらひら振った。

 表情に、さっきのサインの余韻はもう残っていなかった。

――さっきサインをもらっていた青年がこっちを見ているのではないか、という気がした。

とかく、有名人と並んでいると肩身の狭いものである。

「荷物、軽そうだね。……うん、似合ってるよ」

 そう言ってアリアは一歩だけ近づいて、私のリュックをちらりと見る。

 誉められたのか、からかわれたのか。わからないまま、私は無言で頷いた。


モノレールは透明な高分子セルロース配合樹脂が多用されており、ほぼ全天が見渡せる。

客席のシートが”節”のように見えるので、一種のヤスデっぽい。

節足動物らしいデザインは人によっては気味悪がるのかもしれないけれど、私はむしろ、安心する。


走るモノレールは、まるで地下鉄のようだった。

「旧市街」は高さ200メートルもある。

巨大な建造物群が、増改築を繰り返して連結し、折り重なり、いまや都市というより「礁」のようになっている。

地上のはずが、光の届かない”地下”のような旅が、もう十分ほども続いている。


建物同士のわずかな隙間は、地震時の衝撃を吸収するためのもの。

モノレールはそこを通過するたび、ガタンと大きく揺れた。


 


──そして、

突然、視界が開けた。


ぱっと、青空が広がる。

モノレールはまるで空中を滑るようにして走っていく。


眼下には、低く広がる新市街。

そのなかに、タワーのようにそびえる駅が見えた。


人口の減少、そして日当たりを求める回帰志向により、新市街は平屋が主流になった。

だから、駅だけがぽつんと、旧市街の高さに合わせて建っている。

地面から突き出した、孤立した塔のように。


上から見下ろすと、看板の色センスは最悪だ。マゼンタとシアンばかり。

先々月、「赤い看板が目に入りやすい!」というAI報道があったせいで、

街中の看板が、ショッキングピンクに染まった。

そして今度は、その反動で、青い看板が流行りはじめているらしい。


──ふうん。


人間のやることは、よくわからない。

ちらりと車窓の外を見て、それから、また前に向き直る。


 


その先には、近未来的なドーム型建造物──空港が見えていた。

旧市街からは、毎日その姿を見上げている。

けれど、今日ばかりは違う。

あそこをこえて、私は、宇宙に向かうのだ。



アリアが、私の肩を軽くつつく。

「うん、いつも通りで安心したわ」


私は、いつものように、防弾チョッキのような私服を着ていた。

表面はがさついた合成繊維、無数のポケット、締め色のない無骨なデザイン。

ただの道具。自己表現の手段ではない。


「正直ね、収録のためって張り切って、たとえば小学校の男の子みたいな服で来るんじゃないかって、ちょっと心配してたの」

「うん。そういう作戦も考えたけど……お金なかった。服って、なんであんなに高いんだろうね」


アリアは小さく笑って、頭を傾ける。

「前から思ってたんだけど、それ……何の服? というか、いつも同じ服よね」

「工務店用のやつ。実務としての使いやすさと、外行きでもそこまで見た目が悪くない男女共用品っていうのが売りみたいでさ。気に入ってる。安くて壊れにくくて動きやすいから、10着買いこんでローテしてるよ」

私は少し得意げに胸を張った。

「修理キットもあるし、旅でボロボロになっても平気なのが一番かな。高い服なんて、汚すの怖くて着れないよ」


私は、工務店用の服のポケットに指を突っ込む。

──どうせまた「男の子みたい」って思われてるんだろう。でも、これが一番動きやすいし、気に入ってるんだから、仕方ない。


アリアは、そんな私を見ながら思う。

いつも通り、かわいらしさとか、女の子らしさといった要素は絶無だ。

ケイの服は、機能一辺倒で、無駄がない。

無骨に見えないわけではないけれど、ケイが着ると、その無骨さすら不思議と様になって見える。

小柄だけれどスタイルは整っていて、案外、何を着ても絵になる体型なのだ。


「そうね……きりっとして見えるわ。ちなみにお代は……」

アリアの上着一枚分で、ケイの10着が買えることが判明した。


それでちゃんと様になっているし、本人が満足しているのなら、それはそれで成立しているのかもしれない。


ちらりとケイを見る。

──この子に似合う服って、何だろう?


もし私が選んであげるとしたら、やっぱり、あまりにも男らしいその服装は、少しだけ変えたくなる。

いろいろ想像してみた。けれど――だめだ。浮かんでくるのは、やっぱり男物ばかり。


それに、ケイは絶対に着替えたりしないだろう。

「次は一緒に服を選びたいな」──ふと、そんなことを思うけれど、すぐに諦めた。

どうせ「動きやすさ」が最優先にされるに決まってる。


けれど、そのとき、アリアはふと気づいた。


……あれ。

私も、けっこうそういうチョイスしてるかも。


探検の道具として見るなら、高性能であればあるほどいい。

おしゃれのせいで恐竜に喰われるなんて、まっぴらごめんだ。


そっか。

だったら、機能性に全振りした服のプレゼント──そういう方向なら、悪くないかもしれない。


でもなあ。

どうせケイのことだから、翌日にでも「高そうだったから、タンスで大切にしまってるよ!」とか、あの無垢な笑顔で言ってくるんだろうな……。


モノレールが減速する。

白い軌道に沿って、車体はゆっくりとタワーの内側に吸い込まれていった。


駅は、旧市街の高さに合わせて作られている。

改札を抜けて、さらに数層の吹き抜けをエスカレーターで降りていく。

壁は一面ガラス張りで、未来的な青白い光に包まれているのに、その構造自体はどこか古い。

この「空から地面に降りる」ような感覚も、もう何度も経験している。


けれど──今日はなぜか、階層を下るたびに、胸の奥が少しずつ締まっていく。



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